プロローグ
※転載、翻訳禁止です。
琉生は時間があると、いつもギターを弾いていた。
奏でる音と弦を爪弾く音が混ざり合うのが好きだと言っていた。
そのギターに合わせて理世が歌う。
明瀬琉生の部屋は二階にあった。
本棚があり、ぎっしりと本が詰まっていた。
漫画、文庫本、参考書などがジャンルもサイズも無視して詰め込まれていた。
机の上はいつも何かが散らかっていて、そんな状態でも琉生は必要な物をすぐに取り出せた。
必要な物がどこにあるか、自分だけが知っている地図を持っているみたいだった。
新村理世が、その部屋に初めて上がったのは、小学三年生の時だった。
それからずっと、その部屋は理世にとって自分の部屋と同じくらい馴染みのある場所になっていた。
二人は幼馴染だった。
新村家と明瀬家は、古い住宅街の中で細い路地を挟んで向かい合っていた。
明瀬家には大きな柿の木があった。秋になると柿が熟れて、琉生の父親が捥いで持ってきてくれた。
新村の母親は、それを干し柿にして家族で食べた。
そういう、昔ながらの付き合いが自然に成立している場所で理世と琉生は育った。
表通りに出ると商店街があり、夕方になると惣菜屋の揚げ物の匂いが漂ってきた。
子供の頃の理世は、その匂いが大好きで母の買い物についていく度にコロッケをねだった。
理世には三つ下の妹、新村美沙がいた。
美沙は理世とは正反対の性格だった。
人見知りをしなくて声が大きい。
じっとしていられなくて幼い頃の美沙は理世の後をどこまでもついて回り、理世が琉生と遊ぼうとする度に「美沙もー!」と叫んで割り込んできた。
琉生はそういう時には、嫌な顔一つせずに美沙の相手をした。
鬼ごっこをすれば手加減して捕まってやり、かくれんぼをすれば分かりやすい場所に隠れてやった。
「琉生にいは優しいね」と美沙が言う度に理世は「そうだね」と答えながら、なぜか自分のことではないのに誇らしい気持ちになった。
琉生には三つ上の明瀬麗華という姉がいた。
高校生になると急に大人びて、近所の男の子達の憧れの的になった。
麗華は面倒見が良く、理世達が公園で遊んでいると「そろそろ暗くなるよ」と声をかけて迎えに来た。
いつしか理世の隣に琉生がいることが、いつの間にか当たり前になっていた。
二人が「双字」というのを作り始めたのは、中学一年の春だった。
きっかけは、琉生が父親の書棚から持ち出してきた一冊の高級な装丁がされている図鑑だった。
古代文字についての本で、ヒエログリフ、マヤ文字、ルーン文字、楔形文字など、様々な文明が生み出した文字体系が写真と解説とともに収録されていた。
琉生は知能指数が百五十がある程の天才児で、物を覚えることには熱心だった。
ある日の夕方に新村家の縁側に並んで座って、琉生はその図鑑を理世に広げて見せた。
斜めに差し込む夕暮れの光が、頁を黄金色に染めていた。
「これ見てくれよ。ヒエログリフって絵みたいな字なのにさ、ちゃんと音を表してるんだ」
理世はその本を食い入るように見た。
確かに、鳥や口や池の形をした文字が整然と並んでいる。
「全然読めないけど、何か面白いね」
「そうなんだよな。文字ってなんで生まれたか分かるか?」
理世は少し考えた。
「まったくわかんないよ」
庭の木が風に揺れて、葉ずれの音がした。
「文字ってさ、言葉が形になったもので人が何かを伝えようとした痕跡なんだよな」
普段はぼんやりしているくせに突然、目を輝かせて熱心に語る癖があった。
それが自分だけだったから、なぜか嬉しく感じた。
それが恋からくるものだと気づいたのは、もっと後のことになってからだった。
「なぁ、俺達二人だけの文字を作ろうよ」
「ええー、私そんなの出来ないよ」
「大丈夫、俺が教えてやるからさ」
翌日から、琉生は自分達だけの文字を作り始めた。
文字体系を一から作るということを琉生は一度一人で、ノートに向かって考え続けた。
数日後に理世へ見せた時、すでに原案はできていた。
しかしいくつかの文字の形が難し過ぎて、理世が「ここはもうちょっと分かりやすくしてほしい」とお願いをした。
そこからは二人の共同作業になった。
二人で作業をしていると議論になることもあった。
琉生が「この形の方がいい」と言い、理世が「でもこっちの方が書きやすい」と言い返す。
そういうやりとりを繰り返しながら文字は少しずつ完成に近づいていった。
そして半年かかって、新しい文字が生まれた。
完成されたそれを見て理世は、これは二人だけの特別なものだという感覚が胸の奥から静かに湧き上がってきた。
「名前つけようよ」
理世が言うと琉生は少し考えた。
「ずっと考えてたんだけど……双字はどうだろ?」
「双字?」
「そう、二つで一つ。二人で作ったからな!」琉生は満足そうだった。
理世は声に出してみた。双字……。その響きは、なんだかしっくりきた。
「うん、ぴったりでいいね!」
二人は笑顔だった。
こうして「双字」は生まれた。
双字が完成してから、二人の日常は少しだけ変わった。
授業中、隣同士だった二人はノートの端に双字でメモを書き合った。
他愛のないことばかりだったが、暗号のようで楽しかった。
ある日、国語の上原先生に見つかって「授業中に何をしている!」と丸めた教科書で叩かれて怒られた。
琉生が素直に「すみませんでした」と謝り、先生が授業に集中しなさいと言い、授業は再開した。
授業が終わった後、「理世のせいだ」と文句を言われ、「琉生から始めたんでしょうが!」と返したら二人で笑った。
帰り道には、折りたたんだメモを渡し合うこともあった。
理世はそのメモを読んだあと全部、部屋の引き出しにしまっていた。
なぜしまっておくのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、捨てられなかった。
双字は、理世にとって歌詞を書くための文字にもなっていった。
理世が歌を好きになったのは、小学校の合唱部がきっかけだった。
顧問の矢代先生は綺麗な女性で、声楽を学んでいたという経歴の持ち主だった。
練習は厳しかったが、怒鳴なる人ではなくてダメな時には必ず理由を添えてくれた。
「そこは息が足りないわ」「音程だけじゃなくて、言葉の意味を考えて歌いなさい」。
その教え方が合っていたのか、練習のたびに少しずつ上手くなる実感があって、それが嬉しかった。
中学に上がると合唱部はなくなったが、理世は歌うことをやめなかった。
学校の音楽の時間に、他の生徒が恥ずかしがって小さな声を出している中で、理世だけは普通に歌った。
音楽の稲川先生が一度、授業後に呼び止めて言った。
「新村さん、あなたの歌い方は綺麗ね。音程が正確なだけじゃなくて、歌い方に感情が宿ってるわ。どこかで習ったの?」
「小学校の合唱部です」
「練習を頑張った成果なのでしょうね、あなたの歌は素晴らしいわ。歌はこれからも続けるべきだわ」
先生が笑顔でそう言ってくれたことが理世には、とても嬉しく感じられた。
琉生がギターを始めたのは、理世が歌を始めた時と同じ頃だった。
父親が持っていたギターを「弾いてもいい?」と聞いて借り、コードの押さえ方だけ教えてもらって、あとは独学だった。
中学三年の文化祭で、二人は初めて一緒に演奏した。
クラスの友人達とバンドを組むことになり、曲はスタンダードなポップスだった。
琉生がギターを弾き、理世が歌を歌う。
本番の数十分前、舞台袖に立った。体育館の中から生徒達のざわめきが聞こえてくる。
琉生が珍しく「緊張する」と言った。
「琉生が緊張するなんて珍しいね」
「大勢の前で弾くのなんて初めてだからな」
「私もがちがちに緊張してる」
「だよな」
二人は笑いあった。
それから琉生が少しだけ小さい声で言った。
「でも、理世の声を聴いてると少し落ち着くんだよな」
なぜかその言葉に胸の奥が静かに温かくなった。
本番は思ったよりもうまくいった。
終わって舞台袖に引っ込んでから、二人で顔を見合わせた。
それから同時に笑った。
琉生が「これからも二人で続けよう」と言った。
理世は「もちろん」と頷いた。
このことがきっかけで、二人で演奏することが続くことになる。
理世は、高校に入ってからも双字で歌詞を書いていた。
琉生の部屋で、二人はいつも音楽のことで語り合っていた。
二人で試行錯誤しながら琉生は曲を作り、理世は歌詞を書いた。
二人で作ったものが少しずつ形になっていく。
完成したものの喜びもそうだったが、途中段階のまだ形を持ち始める瞬間も好きだった。
ある雨の夜のことだった。
清々しさのある曲が出来上がった。
理世はその曲に乗せて、双字の歌詞を歌った。
歌い終わってから、しばらく沈黙があった。
琉生が笑顔で言った。
「……すごくいい。歌詞もだけど、理世の声がやっぱり綺麗だな」
「ありがとう」
理世は顔を赤くして答えた。
琉生はそういうことをさらりと言う。
恥ずかしがりもせず、ただ思ったことをそのまま口にする。
だからこそ、受け取った側は不意打ちになる。
理世は顔を伏せたまま言った。
「……もう一回弾いてみて」
「うん」
琉生はまたギターを弾き始めた。
理世はもう一度、双字の歌詞を歌った。
あの夜のことを、ずっと忘れられなかった。
二人が恋人になったのは、高校一年の春だった。
告白したのは琉生だった。
いつもの琉生の部屋でだった。
前置きも何もなく、ただ「俺、理世のことが好きだ」と突然だった。
理世は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え」
「好きなんだよ。いっとくけど、恋愛的な意味でだからな」
「えっと……いつから?」
「小さい頃から……」
琉生は少し困った顔をしていた。
言ってしまった後のことを考えていなかったのだろう。
「今は返事しなくていいから、考えといてよ」
「考えるまでもないかな」
琉生が顔を上げた。
「私も、琉生ことが好き」
琉生はしばらく黙っていた。
それから照れた顔をしながら、ゆっくりと笑った。
「そっか、両想いだったんだな!じゃぁ、これからは俺達は恋人同士な!」
理世は頷いた。
その後、すぐに琉生を抱きしめられた。
それがとても幸せだった。
恋人になってから、二人の間に大きな変化はなかった。
昼食は一緒に食べて、放課後には音楽を作った。
変わったのは、帰り際に手を繋ぐようになったことだ。
沈黙になることもあったが、琉生といることが理世とっては幸せなことだった。
それから双字の歌詞も増えていった。
琉生の部屋の引き出しには二冊のノートが眠っていた。
一冊は理世が書いたもの、もう一冊は琉生が書いたものだった。
どちらにも、日常の断片が双字で記されていた。
ある日に琉生のノートを見せてもらった時、最後の頁に一行だけ書いてある文章があった。
『隣にいるのが当たり前になりすぎて怖い』
その一行を読んで、理世はしばらく考えた。
「これってどういう意味なの?」
「……当たり前のものってさ、なくなってから気づくこともあるだろ。だから怖いんだよ」
その時の理世は「大げさでしょ」と笑った。
しかしその言葉は、後になってずっと胸の底に残り続けることになる。
琉生がいなくなったのは、高校二年生の春だった。
その日のことを新村理世は何年経っても細部まで覚えている。
いなくなる前日の放課後のことも、全部覚えている。
葉桜の並木道を二人で歩きながら、他愛もない話をしていた。
クラスで最近流行っている話題のことや来週末に見に行く予定の映画のこと――。
家に着く前に琉生は、寄るところがあるそうで分かれ道で別れた。
角を曲がる直前に、一度だけ振り返って軽く手を上げた。
逆光の中で、その輪郭だけが明るく光っていた。
それが最後だった――。
その夜、理世は自分の部屋で双字の歌詞を書いていた。
琉生との会話の中で思いついた言葉があって、それを書き留めておきたかった。
ノートに双字で書きながら、来週末の映画のことを考えた。
琉生はSFがいいと言うだろうし、理世は別のものがいいと言うだろう。
そういう小さなやりとりを楽しみにしていた。
翌朝、琉生の席は空席だった。
一時限目が始まっても琉生は来なかった。
担任の桑田先生が出席を取る時、「明瀬は欠席か」と事務的に言った。
桑田先生は三十代の男性で、体育会系の雰囲気があったが、生徒への配慮は細かかった。
欠席の生徒については必ず後でフォローを入れる先生だった。
理世は少し気になったが、風邪かもしれないと思った。
琉生が無断で休むのは珍しかったが、ないことではない。
休憩時間にメッセージを送った。
「今日どうしたの?風邪?」
返信は来なかった。
昼休みになっても既読がつかなかった。
理世は少し不安になって、もう一度送った。
「大丈夫?何かあった?」
それでも返信はなかった。
放課後、理世は琉生の家に寄ろうと思った。
明瀬家の前に着いたとき、玄関先に琉生の母親、明瀬瑠璃子が立っていた。
瑠璃子は普段から穏やかで、いつも柔らかい雰囲気をまとっている人だった。
しかしその時の顔は蒼白で目が赤かった。
その顔を見た時、理世は全身が冷たくなった。
「理世ちゃん!……うちの琉生を知らない?!」
知らなかった。
本当に何も知らなかった。
「……し、知らないです。学校に来てなかったので、私も心配になってここへ……」
「昨夜から帰ってきてないのよ!」
瑠璃子は声を震わせながら言った。
琉生の父親の明瀬浩が家の中から出てきた。
浩は無口な人で、いつも落ち着いていた。
しかしこの時は明らかに動揺していた。
顔色が悪かった。
「琉生の友人には連絡したのか?」
「してるわ……」
「もう警察に連絡した方がいいかもしれないな」
浩がそう言うのを聞いて、理世は事態の深刻さをようやく実感した。
警察……その言葉が、現実の重さを持って響いた。
その後、明瀬家では琉生の友人全員に連絡が入ったが、情報が何も得られなかった。
翌日、捜索願いが出された。
それから警察が動き始めた。
琉生の学校のクラスメイトが次々と聴取を受けた。
理世も呼ばれた。
聴取を担当したのは遠山という四十代の警察で、物腰は柔らかく質問は丁寧だった。
「明瀬君には最近、何か悩んでいる様子はありましたか」
「……なにもなかったように見えました」
「学校での人間関係でトラブルは?」
「そういったのは聞いたことがないです」
「家族との関係は」
「とても家族仲は良いです」
「交友関係に変化は?急に新しい友人ができたとか」
「……えっと……ないと思います。でも私が知らないだけかもしれないので、断言はできないです」
遠山はメモを取りながら聞いていた。
最後に「気づいたことがあれば何でも連絡して下さい」と名刺を渡して立ち上がった。
その後、一週間が経ち……一ヶ月が経った。
理世はその間、どうしようもないほどの焦燥にかられていた。
数週間後、琉生の姉の麗華が地方の大学から帰ってきた。
丁度大学の休みに入った麗華は、弟の失踪を聞いて戻ってきた。
理世が明瀬家を訪ねると麗華はソファに座って泣いていた。
普段は凛としていて、泣くところを見たことがなかった。
その姿が理世には辛かった。
「理世ちゃん、本当に何も知らないの?」
「……知らないです。ごめんなさい」
「謝らないで、理世ちゃんのせいじゃないのは分かってる。ただ……琉生、どこ行っちゃったんだろうね」
麗華の横に瑠璃子が寄り添った。
居間の棚には、琉生の子供の頃の写真が飾ってあった。
七五三の写真、家族旅行の写真、小学校の卒業式の写真など、どの写真にも琉生が笑っていた。
理世は胸が詰まって、それ以上は見ていられなかった。
更に数ヶ月が経った。
警察の捜査は続いていたが、手がかりはなかった。
目撃情報も出なかった。
まるで、消えたようだった。
その間も理世は学校に通い続けた。
授業中は黒板を見ていた。
先生が何を言っているかが頭に入らなかった。
ノートに文字を書いていたが、気づくと双字になっていた。
それに気づいてすぐに消した。
昼食は一人で食べるようになった。
以前は琉生と一緒に食べていたが、今は誰かと食べる気になれなかった。
クラスメイトのほとんどが気を使って声をかけてくれた。
うまく笑えなくなった。
何か言わなければと思うのに言葉が出てこなかった。
それから高校を卒業して、理世は都内の大学の文学部に進んだ。
琉生は今だ見つからない。
琉生がいなくなった後も理世の時間は動き続けた。
時間が動くということは、琉生のいない日常に慣れていくということだから、それが辛かった。
慣れたくなかった。
でも、時間は止まってはくれなかった。
大学を卒業した後は就職をした。
新しい環境の中で生きていった。
笑うこともあったし、仕事に夢中になることもあった。
友人と飲んで遅くまで話すこともあった。
でも心の中に、ずっと空白があった。
琉生がいた場所が埋まらなかった。
誰かに告白されたこともある。
悪い人ではなかったけれど、首を縦に振れなかった。
自分の中で、琉生のことを終わりにすることはできなかった。
年に一度、明瀬家に連絡した。
瑠璃子はいつも「変わりない」と言った。
その言葉の重さを理世は知っていた。
変わりないとは、まだ見つからないということだからだ。
あれから八年が経った頃、麗華から連絡が来た。
明瀬瑠璃子が病気になったという。
入院はしていないが、体が弱ってきているとのことだった。
「琉生のことを、ずっと待ち続けてるから弱っていったんだと思う。お母さんは体が弱ってるのに、今日も琉生の部屋を掃除してた。帰ってきたとき部屋が汚いと嫌だからってね」その声は震えていた。
理世は言葉が出なかった。
電話を切った後、長い時間一人で泣いた。
琉生の家族は琉生の帰りを待っている。
皆が待っているのに、琉生は帰ってこない。
どこにいるのか、なぜいなくなったのか。
生きているのか、いないのか。
何一つ分からないまま、時間だけが流れていく。
それが一番、辛かった。
琉生がいなくなってから十年が経った春、理世は二十七歳になっていた。
仕事は順調だった。
担当する業務も増えて、会社の中での立場も少しずつ固まってきた。
ある夜、遅くまで残業をして会社を出た。
夜道は、街路樹の若葉が街灯に照らされて鮮やかだった。
コンビニに寄って缶ビールを買い、飲みながら駅に向かって歩いた。
歩きながら、琉生のことを考えていた。
あれから十年。
もし今も一緒にいたら、どんな十年だっただろう。
まだギターを弾いているだろうか。
一緒に音楽を作っているだろうか。
考えても答えは出ない。
それでも考えてしまうのが、十年経っても変わらなかった。
その時は前を向いて歩いていた。
横断歩道の信号が青になった。
歩き出した時に左から光が飛んできた。
衝撃は一瞬だった。
痛みを感じる暇もなかった。
体が浮いた感覚があって、次の瞬間には地面に横たわっていた。
夜の空が見えた。
遠くでクラクションの音がした。
誰かが叫んでいた。
体が動かなかった。
足の感覚がなく、手の感覚もなかった。
目だけが動いた。
視界の端には、転がった缶ビールが見えた。
中身が道路に流れ出していた。
もったいないなと理世は思った。
最後の最後まで、どうでもいいことを考えている。
それが少しおかしかった。
遠くでサイレンが聞こえた。
誰かが駆け寄ってくる気配がした。
呼ぶ声がしたが、誰の声かは分からなかった。
理世は自分が今どういう状況にあるか、静かに分かっていた。
ふと、琉生のことを考えた。
琉生に会えないままだった。
もし会えたなら、きっと笑えると思っていた。
「どこ行ってたのよ」と言って笑えると。
もうそれだけでよかったのに、それだけを十年間、ずっと思い続けていたのに――。
目の前が滲んでいくのを感じながら、理世は口を動かした。
声が出たのか、出なかったのかは分からなかった。
ただ唇が一つの名前を形作った。
「る……い……」
その言葉は夜の空気に溶けて、どこへともなく消えた。
空が遠くなっていった。
理世は静かに目を閉じた。
深夜、新村の家族が知らせを受けて病院に駆けつけた。
母と妹は理世の顔を見て、しばらく声を出せずに呆然と立ち尽くした。
父は顔面蒼白だった。
「お、姉ちゃん……ねぇ、どうしたの?……なんでそんなところで寝てるの?……ねぇってば、お姉ちゃん、起きてよ!起きてよぉーーーーー!!」
家族はそれからずっと泣き続けていた。
深夜一時過ぎ、新村理世は息を引き取った。
享年、二十七年の生涯だった――。
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