盤上の迷宮 (5)
アイデンは符紋弾をしまいながら、部屋を見渡した。
まるで今になって、いつもより静かな空気に気づいたかのようだ。
彼は軽く荷物を置き、何気なく口を開く。
「そういえば、カルマと魔獣のアルはどこへ行ったんだ? 最近見かけないな。」
炎は窓辺に寄りかかり、無表情で街の景色を眺める。
そして、少し間を置いてから、淡々と答える。
「用事があるって言ってた。アルも一緒だ。」
アイデンは眉をひそめ、メガネを押し上げながら、
どこか含みのある口調で言った。
「へえ、そんなに急ぎの用事か?
お前の看病でもするつもりかと思ってたんだけどな。」
炎はゆっくりと振り返り、アイデンを一瞥する。
その瞳には感情の色がほとんど見えない。
「……彼女が、俺の看病?」
口元には、かすかな嘲笑の色。
アイデンは肩をすくめ、軽く笑う。
「なんて言うかさ、お前が負傷してから最初の頃は、
俺のところに来て、必要な物を揃えたいって言ってたんだよな。
闇紋会の遺物の調査も、一時中断してさ。」
「だからてっきり、しばらくここにいるのかと思ってたんだが……」
彼の言葉が途切れる。
まるで、言いかけたことを飲み込んだかのように。
だが、炎は特に問い詰めることもなく、
再び窓の外へと視線を戻す。
指先で窓枠を軽く叩きながら、一瞬だけ動きを止める。
その声は、どこか冷めていた。
「彼女がどこへ行こうと俺には関係ない。」
アイデンは眉を軽く上げ、先ほどの軽さから一転、真剣な口調で言った。
「……でも、ちょっと妙じゃないか?」
「最初はお前のために動いていたのに、その後は急に音沙汰なし。」
「しかも、これまでと比べて行動に ‘目的’ があるように見える。」
窓の外から、微かな風が入り込み、
カーテンを静かに揺らす。
夕暮れの光が、炎の横顔を照らし、
その影を深く落とした。
彼はゆっくりと外套を引き寄せる。
まるで、自分の中にある何かを抑え込もうとするように。
そして、最終的に、ただ静かに呟いた。
「……彼女のことを詮索するつもりはない。」
アイデンは、その言葉を聞きながら、
ふっと口元に笑みを浮かべる。
再び、いつもの軽い調子に戻り、からかうように言った。
「へえ、ずいぶんクールに決めるじゃないか。」
「でも、本当に気にならないのか?」
「前なら、何をするにも ‘ついで’ みたいな感じで言ってたのに、
今回は何も言わずに出て行った。
――どうやら、カルマにも ‘考え’ があるみたいだな。」
炎はわずかに目を細め、相変わらず冷淡な口調で言った。
「お前の方が、彼女のことをよく知ってるんじゃないか?」
アイデンは一瞬言葉に詰まり、
しかしすぐに自嘲気味の笑みを浮かべた。
「俺が、彼女を理解してる? そりゃ、買いかぶりってもんだろうさ。」
「あの性格を本当に見抜けるのは、お前くらいのもんだ。」
彼は軽くメガネを押し上げ、
わずかに不服そうな表情を見せながらも、
どこか試すような口調で続けた。
「でもな、外から見てても、最近の彼女の動きはやっぱり妙だ。」
「お前ら、長い付き合いだろ? 少しは気づいてるんじゃないのか?」
炎は短く鼻を鳴らし、
それ以上何も言わずに窓の外へ視線を戻した。
アイデンは肩をすくめ、軽く笑いながら言った。
「……お前が何も言わないってことは、気にしてないってことか?」
「けど、俺は嫌なんだよな。ある日突然、『カルマがどこかをぶっ壊した』なんてニュースが入るのは。」
「どうせ後始末するのは、お前なんだからな?」
炎は依然として黙っていた。
しかし、指先で軽く叩いていた窓枠の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
アイデンの言葉は単なる冗談ではなかった。
カルマの行動には、いつも彼女なりの流儀がある。
だが、もし今回の彼女が本気で何かを仕掛けようとしているのなら——
それはいつもの“気まぐれ”とは違うものになるだろう。
アイデンは炎の微妙な反応を察したのか、
先ほどまでの軽口から、少し真面目なトーンへと切り替えた。
「ま、ただの雑談だ。」
「お前が気にしないなら、それでいい。」
それでも、アイデンの目はどこか探るような色を宿していた。
炎が表面上は気にしていないふりをしているのは明白だった。
だが、実際には誰よりもカルマの変化を感じ取っているはずだ。
ただ、それを口にしないだけ。
部屋の中に、再び沈黙が落ちる。
窓の外を吹き抜ける風の音だけが、微かに響く。
アイデンはメガネの位置を直し、
話題を切り替えるように、何気なく尋ねた。
「……ま、カルマの話は置いといてさ。」
「お前、身体の調子はどうなんだ?」
「符紋弾の改良、まだいけそうか?」
炎はゆっくりと振り向き、
机の上に残った符紋弾へと目を向ける。
そして、少しだけ面倒くさそうな声で答えた。
「改良するのは、お前の仕事だろ。」
それだけ言うと、炎は再び窓辺へと視線を戻し、
何もなかったかのように、静かに沈黙を選んだ。
◆ ◆ ◆
朝の柔らかな陽光がカーテン越しに部屋へと差し込み、ぼんやりとした温もりをもたらしていた。
カルマは玄関の前に立ち、軽く振り返ると、淡々とした口調で言った。
「ちょっと出かけてくるわ。アルも一緒だから、心配しなくていい。」
それは何気ない一言のように聞こえた。
しかし、その一瞬浮かんでは消えた微笑みは、彼女の瞳にかすかに宿る思案の色を隠しきれなかった。
そう言い終えると、カルマはアルを連れて足早に去っていった。
その歩みは軽やかで、そしてどこか確固たる意思を秘めていた。
彼女の後ろで、炎は静かに窓辺に立ち、視線を追い続ける。
彼女の赤い髪が街角でひらめき、人混みに消えていくまで——。
表情はいつも通り冷静だったが、その瞳の奥には言葉にできない何かが揺らいでいた。
まるで心の奥底で、押し殺された感情が静かに渦巻いているかのように。
——カルマは、ただの散歩に出かけたわけではない。
彼女には、彼女なりの目的があった。
今回の行動は、父であるアレスに関わるものだった。
最近、彼女の中で確信が芽生えつつある。
——アレスが人間界に現れたのは偶然ではなく、
何者かの意図によるものではないか。
そして、その背後にいる存在は、エリヴィア失踪の謎とも深く結びついているのかもしれない。
「エリヴィア」。
その名を、カルマは知っていた。
しかし、以前は特に興味を持つことはなかった。
だが——炎と行動を共にするようになってから、
彼の体内に眠るあの強大な力が、エリヴィアと密接に関わっていることを知った。
それだけではない。
エリヴィアとアレスの関係を知るにつれ、彼女はこの名が秘める意味を、改めて見つめ直さざるを得なくなっていた。
今回、彼女が向かう先は——
人間界に隠れ住む、ある老いた悪魔の学者。
噂によると、その学者は神界と魔界の歴史的交錯を長年研究しており、
さらにエリヴィアに関する情報にも精通しているという。
何よりも、彼こそが——
「かつてアレスがエリヴィアを探し求めた本当の理由」
そして、「その期間に隠された真実」 を知る者かもしれない。
アルはカルマの足元を軽やかに飛び跳ねながら、しっかりとついてくる。
時折、彼女を見上げると、小さく喉を鳴らした。
カルマはアルに目を向け、ふっと微笑んだ。
「アル、今回の件で真実にたどり着けるかもしれないね。」
その声は小さく、自分に言い聞かせるようだった。
太陽がゆっくりと昇り、カルマが歩き去る道を黄金色の光が包み込む。
彼女の影は細長く伸び、まるでこれから進む道を示すかのように、ゆっくりと揺れていた。
その歩みは一切の迷いを感じさせない。
——たとえ、どんな結果が待ち受けていようとも。
カルマは、必ずその学者を見つけ、答えを求めるつもりだった。




