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デビルハンター 〜最強悪魔(ヒロイン)と契約して、運命と戦うことになった件〜  作者: 雪沢 凛
第八章:盤上の迷宮

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盤上の迷宮 (4)

 ──その日。


 炎(エン)は鏡の前に座り、肩に巻かれた包帯を外した。

  夜行者に負わされた傷は、すでに最も危険な状態を脱していたものの、まだ赤く腫れ上がり、じんじんと痛みを残していた。


 炎(エン)は眉をひそめ、意識を傷口に集中した。

 体内の眠る力を引き出し、回復を試みる。

 ──だが、最初の試みはあまりに急ぎすぎた。


 エネルギーが急激に流れ込み、傷が想像以上の速さで塞がる。

 だが、皮膚が再生するたび焼けるような激痛が走り、意識が揺らぐ。

  脳が耐えきれず、一瞬視界が揺らぐ。


 数秒も経たないうちに、全身の力が抜け落ち、まるで精気を根こそぎ奪われたような脱力感に襲われた。


 炎(エン)は耐えきれず手を離し、荒い息をつきながら傷口を再び包帯で巻き直した。


「……急ぎすぎたか。」

 額ににじんだ汗が、頬を伝い落ちる。


  エリヴィアの力を使うたびに生じる"反動"が、またしても彼の体を蝕んでいた。


 ──翌日。


 炎(エン)は悔しさを抑えきれず、再び鏡の前に座った。


 今度は、焦らず、慎重に。

  力の流れを一つひとつ丁寧に感じ取りながら、少しずつエネルギーを送り込む。


 ゆっくりと、傷口へと浸透していく魔力。


 ……痛みはまだある。

  だが、昨日のような焼けつく激痛ではなくなっていた。


 炎(エン)は、そっと肩に手を置く。

 傷口がゆっくりと収縮し、赤みが薄れ、腫れも少しずつ引いていく。


 ──そして、三日目。


 炎(エン)の傷はほぼ完治していた。


 皮膚の奥にわずかに違和感が残るものの、外見上はほとんど元通り。

  それどころか、傷跡すら、ほぼ消えかけている。


 炎(エン)は静かに鏡越しに自分の肩を見る。


 ──やれる。


 確かな手応えがあった。

  エリヴィアの力を"制御する"ということが、ようやく現実味を帯び始めていた。


 ちょうど少しばかりの達成感を感じていたその時、カルマが突然顔を近づけてきた。

  彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、興味津々に尋ねた。


「ねえ、あんたのその治癒能力、他人にも使えるの?」


 炎(エン)が答えるより早く、カルマは手に持っていた短剣で、自分の腕に迷いなく傷をつけた。

  皮膚が裂け、血がじわりと滲み出る。


「おい、正気か!?」

 炎(エン)は立ち上がり、彼女の腕を掴む。

 表情に動揺が滲み、声に焦りが混じる。

「誰が勝手にそんなことしていいって言った!」


「だって、治せるんでしょ?」


 カルマはまるで大したことではないかのように肩をすくめ、にこりと笑う。

  その顔は、まるで子供が悪戯を仕掛けた時のような楽しげな表情だった。


「試してみようよ。こんなチャンス、滅多にないでしょ?」


 炎(エン)は眉間に深く皺を寄せた。

  この軽率な行動に、苛立ちと焦燥が混ざり合い、胸がざわつく。

  しかし、彼女の傷をそのままにしておくわけにはいかない。


 炎(エン)は大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着かせながら、そっとカルマの傷口に手をかざした。

  集中し、先ほど自分の傷を癒やした時と同じように、治癒のエネルギーを流し込もうとする。


 だが、何も起こらない。

 まるで阻まれているかのように、力はカルマの傷に届かない。

  何度試しても、エネルギーはまるで空回りするように霧散してしまう。


 炎(エン)の額に、じわりと汗がにじむ。

  唇を噛みしめながら、歯を食いしばった。


「……ダメだ。」


 力を込めても、どうにもならない。

  炎(エン)の拳がわずかに震える。


 カルマはそんな彼の様子を静かに見つめていた。

  最初の軽口はすでに消え、その瞳にはどこか優しげな色が宿っていた。


 彼女はゆっくりと腕を引き戻し、傷口を適当な布切れで包むと、さらりと言った。


「まあ、気にしないでいいわよ。

  そもそも、あんたの力は"他人を癒やす"ためのものじゃないんだから。」


「……そんな問題じゃない。」


 炎(エン)は力なく呟いた。

  目を伏せたまま、彼の拳は強く握りしめられていた。

  爪が掌に食い込み、ほんのわずかに痛みを感じる。


 自分の力で、カルマの傷を治すことができない。

  それが、彼の胸を締め付けていた。


 エリヴィアから授かったこの力。

  それは確かに強大なものだった。


 だが、その"限界"を突きつけられた時――

  炎(エン)は初めて、自分の無力さを痛感した。


 特に、それがカルマに対してだったからこそ――


 カルマは炎(エン)の不安を見抜き、口元をわずかに持ち上げた。

  彼女の声には、いつもの軽い調子が混じっていた。


「ねえ、そんなに深刻にならないでよ。

  別に大した傷じゃないし、それにさ……何でもかんでも自分一人で背負うのはやめなさいよ?」


 炎(エン)は顔を上げ、カルマの腕に巻かれた即席の包帯を見つめる。

  心の奥に残る重苦しさは、まだ消えそうになかった。


 口を開きかけたが、言葉にならず、結局低く呟くにとどまる。

「……ふざけて傷つくのは、やめろよ。」


 カルマは肩をすくめ、すぐそばの肘掛け椅子に座り込むと、にこりと笑った。


「あら、そんなに心配しなくてもいいわよ?

  まさか私が、こんなことで本気で傷つくとでも思った?」


 そう言いながら、軽く手を振って見せる。

  「忘れないで?私は悪魔(デビル)なんだからね。」


 炎(エン)は何も答えず、ただ黙ったまま考え込む。

  確かに、カルマが戦う姿は何度も見てきたし、その頑強さも知っている。

  けれど、それでも今回のことは、彼の奥底にある何かを大きく揺るがしていた。


 カルマはそんな炎(エン)の様子を眺め、少しだけ笑みを和らげる。

  炎(エン)が普段どれほど無愛想で冷淡に振る舞っていようとも、

  彼がどれほど自分のことを気にかけているのか――

 彼女には、痛いほど伝わっていた。


 しばしの沈黙の後、カルマはゆっくりと口を開く。

  その声には、いつものからかいとは違う、どこか優しい響きがあった。


「エン。」


 彼女の金緑色の瞳が、まっすぐに彼を見つめる。

「全部完璧にできる必要はないわ。

 今できることを必死にやってる。それで十分よ。」

「自分の傷を癒せるだけでも、すごいことなんだから。」


 炎(エン)はわずかに顔を上げ、カルマの瞳を見つめ返した。

  彼の眼差しは静かだったが、そこにはかすかな疲れと、彼自身も気づかぬ重圧が滲んでいた。


 カルマの目には、いつものように少しばかりの茶目っ気が混じっていた。

  しかし、その奥には、彼女自身も気づかぬ淡い温もりが潜んでいた。


 炎(エン)は一瞬だけ迷った後、ふっと目を伏せ、小さく息をつく。


 そして、静かに呟いた。

「……ずっと運が良いままじゃいられない。」


 その声は低く、感情を抑えたものだった。

  だが、なぜかカルマの胸に、妙な重みを落としていく。


「いずれ、もっと強い力が必要になる時が来る。」


 それは、カルマに向けられた言葉のようであり、

  同時に、炎(エン)自身に言い聞かせるような言葉だった。


 カルマはわずかに眉を上げ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

  「へえ? ‘もっと強い力’ ね?」

  「なんだか、ずいぶんとヒーローらしいことを言うじゃない?」


  彼女の金緑色の瞳が炎(エン)を見据える。

「それとも……本当の目的は、私を守ること?」


 炎(エン)は微かに眉をひそめた。

  彼女のからかいに、特に反応を示すこともなく、

  ただ静かに窓の方へ歩み寄る。


 夕暮れの光がガラス越しに差し込み、

  彼の長身のシルエットを浮かび上がらせた。

  だが、それと同時に、

  彼の内に秘めた孤独をも、より一層際立たせていた。


 指先が、無意識のうちに強く握られる。

  まるで、自分の中に渦巻く何かと抗っているかのように。


「……俺は、ヒーローになりたいわけじゃない。」


 低く、抑えた声。

  それは独り言のようであり、

  けれど確かに、彼女に届くように放たれた言葉だった。


「ただ、できればお前には何も起こってほしくない。

 少なくとも俺のせいで何かを失ってほしくないんだ。」


 カルマの表情が、一瞬止まる。

  驚きではない。

  むしろ、その言葉に隠された重みを感じ取ったからこそ、

  彼女は自然と口を閉じたのだった。


 そして、ゆっくりと肘掛け椅子に寄りかかり、腕を組む。

  彼女の姿勢は変わらず余裕に満ちていたが、

  瞳の奥には、先ほどまでとは違う優しさが滲んでいた。


 ――炎(エン)の冷淡さは、決して無関心ではない。

  それは、彼自身が消しきれない罪悪感と、抑えきれない葛藤の裏返しだった。


 だからこそ、カルマはそっと目を細め、

  からかうような、けれど優しく包み込むような口調で言った。


「エン。」

「別に、そんなに緊張しなくてもいいのよ?」

  「私は子供じゃないし、誰かに守られなきゃ生きていけないわけじゃない。」


 彼女はふっと微笑む。

「あなたと一緒にいられる――それだけで、十分よ。」


 炎(エン)は彼女を見つめる。

  その緑の瞳は、深く、複雑な色を宿していた。

  何かを言いたげで、けれど言葉にはならず、

  最終的に、彼はただ小さく頷くだけだった。


 再び窓の外へと視線を戻す。

  彼はまだ、この力の欠陥を受け入れられずにいる。

  自分の無力さを完全に受け入れるには、きっともっと時間がかかるだろう。


 それでも、少なくとも今、

  炎(エン)の中にはひとつだけ、はっきりとした想いがあった。


 ――何があっても、この時間を失いたくない。


 窓辺をそよぐ夕暮れの風が、

  静かに吹き抜けていく。

 それは、少しだけ冷たく、けれどどこか心地よい風だった。


 カルマは椅子に身を預けると、腕を枕にして目を閉じる。

  そして、満足そうな微笑を浮かべた。


 ――たとえこの穏やかな時間が一瞬で終わるものだとしても、

  今この時を、大切にしたい。

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