盤上の迷宮 (4)
──その日。
炎は鏡の前に座り、肩に巻かれた包帯を外した。
夜行者に負わされた傷は、すでに最も危険な状態を脱していたものの、まだ赤く腫れ上がり、じんじんと痛みを残していた。
炎は眉をひそめ、意識を傷口に集中した。
体内の眠る力を引き出し、回復を試みる。
──だが、最初の試みはあまりに急ぎすぎた。
エネルギーが急激に流れ込み、傷が想像以上の速さで塞がる。
だが、皮膚が再生するたび焼けるような激痛が走り、意識が揺らぐ。
脳が耐えきれず、一瞬視界が揺らぐ。
数秒も経たないうちに、全身の力が抜け落ち、まるで精気を根こそぎ奪われたような脱力感に襲われた。
炎は耐えきれず手を離し、荒い息をつきながら傷口を再び包帯で巻き直した。
「……急ぎすぎたか。」
額ににじんだ汗が、頬を伝い落ちる。
エリヴィアの力を使うたびに生じる"反動"が、またしても彼の体を蝕んでいた。
──翌日。
炎は悔しさを抑えきれず、再び鏡の前に座った。
今度は、焦らず、慎重に。
力の流れを一つひとつ丁寧に感じ取りながら、少しずつエネルギーを送り込む。
ゆっくりと、傷口へと浸透していく魔力。
……痛みはまだある。
だが、昨日のような焼けつく激痛ではなくなっていた。
炎は、そっと肩に手を置く。
傷口がゆっくりと収縮し、赤みが薄れ、腫れも少しずつ引いていく。
──そして、三日目。
炎の傷はほぼ完治していた。
皮膚の奥にわずかに違和感が残るものの、外見上はほとんど元通り。
それどころか、傷跡すら、ほぼ消えかけている。
炎は静かに鏡越しに自分の肩を見る。
──やれる。
確かな手応えがあった。
エリヴィアの力を"制御する"ということが、ようやく現実味を帯び始めていた。
ちょうど少しばかりの達成感を感じていたその時、カルマが突然顔を近づけてきた。
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、興味津々に尋ねた。
「ねえ、あんたのその治癒能力、他人にも使えるの?」
炎が答えるより早く、カルマは手に持っていた短剣で、自分の腕に迷いなく傷をつけた。
皮膚が裂け、血がじわりと滲み出る。
「おい、正気か!?」
炎は立ち上がり、彼女の腕を掴む。
表情に動揺が滲み、声に焦りが混じる。
「誰が勝手にそんなことしていいって言った!」
「だって、治せるんでしょ?」
カルマはまるで大したことではないかのように肩をすくめ、にこりと笑う。
その顔は、まるで子供が悪戯を仕掛けた時のような楽しげな表情だった。
「試してみようよ。こんなチャンス、滅多にないでしょ?」
炎は眉間に深く皺を寄せた。
この軽率な行動に、苛立ちと焦燥が混ざり合い、胸がざわつく。
しかし、彼女の傷をそのままにしておくわけにはいかない。
炎は大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着かせながら、そっとカルマの傷口に手をかざした。
集中し、先ほど自分の傷を癒やした時と同じように、治癒のエネルギーを流し込もうとする。
だが、何も起こらない。
まるで阻まれているかのように、力はカルマの傷に届かない。
何度試しても、エネルギーはまるで空回りするように霧散してしまう。
炎の額に、じわりと汗がにじむ。
唇を噛みしめながら、歯を食いしばった。
「……ダメだ。」
力を込めても、どうにもならない。
炎の拳がわずかに震える。
カルマはそんな彼の様子を静かに見つめていた。
最初の軽口はすでに消え、その瞳にはどこか優しげな色が宿っていた。
彼女はゆっくりと腕を引き戻し、傷口を適当な布切れで包むと、さらりと言った。
「まあ、気にしないでいいわよ。
そもそも、あんたの力は"他人を癒やす"ためのものじゃないんだから。」
「……そんな問題じゃない。」
炎は力なく呟いた。
目を伏せたまま、彼の拳は強く握りしめられていた。
爪が掌に食い込み、ほんのわずかに痛みを感じる。
自分の力で、カルマの傷を治すことができない。
それが、彼の胸を締め付けていた。
エリヴィアから授かったこの力。
それは確かに強大なものだった。
だが、その"限界"を突きつけられた時――
炎は初めて、自分の無力さを痛感した。
特に、それがカルマに対してだったからこそ――
カルマは炎の不安を見抜き、口元をわずかに持ち上げた。
彼女の声には、いつもの軽い調子が混じっていた。
「ねえ、そんなに深刻にならないでよ。
別に大した傷じゃないし、それにさ……何でもかんでも自分一人で背負うのはやめなさいよ?」
炎は顔を上げ、カルマの腕に巻かれた即席の包帯を見つめる。
心の奥に残る重苦しさは、まだ消えそうになかった。
口を開きかけたが、言葉にならず、結局低く呟くにとどまる。
「……ふざけて傷つくのは、やめろよ。」
カルマは肩をすくめ、すぐそばの肘掛け椅子に座り込むと、にこりと笑った。
「あら、そんなに心配しなくてもいいわよ?
まさか私が、こんなことで本気で傷つくとでも思った?」
そう言いながら、軽く手を振って見せる。
「忘れないで?私は悪魔なんだからね。」
炎は何も答えず、ただ黙ったまま考え込む。
確かに、カルマが戦う姿は何度も見てきたし、その頑強さも知っている。
けれど、それでも今回のことは、彼の奥底にある何かを大きく揺るがしていた。
カルマはそんな炎の様子を眺め、少しだけ笑みを和らげる。
炎が普段どれほど無愛想で冷淡に振る舞っていようとも、
彼がどれほど自分のことを気にかけているのか――
彼女には、痛いほど伝わっていた。
しばしの沈黙の後、カルマはゆっくりと口を開く。
その声には、いつものからかいとは違う、どこか優しい響きがあった。
「エン。」
彼女の金緑色の瞳が、まっすぐに彼を見つめる。
「全部完璧にできる必要はないわ。
今できることを必死にやってる。それで十分よ。」
「自分の傷を癒せるだけでも、すごいことなんだから。」
炎はわずかに顔を上げ、カルマの瞳を見つめ返した。
彼の眼差しは静かだったが、そこにはかすかな疲れと、彼自身も気づかぬ重圧が滲んでいた。
カルマの目には、いつものように少しばかりの茶目っ気が混じっていた。
しかし、その奥には、彼女自身も気づかぬ淡い温もりが潜んでいた。
炎は一瞬だけ迷った後、ふっと目を伏せ、小さく息をつく。
そして、静かに呟いた。
「……ずっと運が良いままじゃいられない。」
その声は低く、感情を抑えたものだった。
だが、なぜかカルマの胸に、妙な重みを落としていく。
「いずれ、もっと強い力が必要になる時が来る。」
それは、カルマに向けられた言葉のようであり、
同時に、炎自身に言い聞かせるような言葉だった。
カルマはわずかに眉を上げ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「へえ? ‘もっと強い力’ ね?」
「なんだか、ずいぶんとヒーローらしいことを言うじゃない?」
彼女の金緑色の瞳が炎を見据える。
「それとも……本当の目的は、私を守ること?」
炎は微かに眉をひそめた。
彼女のからかいに、特に反応を示すこともなく、
ただ静かに窓の方へ歩み寄る。
夕暮れの光がガラス越しに差し込み、
彼の長身のシルエットを浮かび上がらせた。
だが、それと同時に、
彼の内に秘めた孤独をも、より一層際立たせていた。
指先が、無意識のうちに強く握られる。
まるで、自分の中に渦巻く何かと抗っているかのように。
「……俺は、ヒーローになりたいわけじゃない。」
低く、抑えた声。
それは独り言のようであり、
けれど確かに、彼女に届くように放たれた言葉だった。
「ただ、できればお前には何も起こってほしくない。
少なくとも俺のせいで何かを失ってほしくないんだ。」
カルマの表情が、一瞬止まる。
驚きではない。
むしろ、その言葉に隠された重みを感じ取ったからこそ、
彼女は自然と口を閉じたのだった。
そして、ゆっくりと肘掛け椅子に寄りかかり、腕を組む。
彼女の姿勢は変わらず余裕に満ちていたが、
瞳の奥には、先ほどまでとは違う優しさが滲んでいた。
――炎の冷淡さは、決して無関心ではない。
それは、彼自身が消しきれない罪悪感と、抑えきれない葛藤の裏返しだった。
だからこそ、カルマはそっと目を細め、
からかうような、けれど優しく包み込むような口調で言った。
「エン。」
「別に、そんなに緊張しなくてもいいのよ?」
「私は子供じゃないし、誰かに守られなきゃ生きていけないわけじゃない。」
彼女はふっと微笑む。
「あなたと一緒にいられる――それだけで、十分よ。」
炎は彼女を見つめる。
その緑の瞳は、深く、複雑な色を宿していた。
何かを言いたげで、けれど言葉にはならず、
最終的に、彼はただ小さく頷くだけだった。
再び窓の外へと視線を戻す。
彼はまだ、この力の欠陥を受け入れられずにいる。
自分の無力さを完全に受け入れるには、きっともっと時間がかかるだろう。
それでも、少なくとも今、
炎の中にはひとつだけ、はっきりとした想いがあった。
――何があっても、この時間を失いたくない。
窓辺をそよぐ夕暮れの風が、
静かに吹き抜けていく。
それは、少しだけ冷たく、けれどどこか心地よい風だった。
カルマは椅子に身を預けると、腕を枕にして目を閉じる。
そして、満足そうな微笑を浮かべた。
――たとえこの穏やかな時間が一瞬で終わるものだとしても、
今この時を、大切にしたい。




