潜意識の白い影 (4)
エリヴィアはふっと微笑んだ。
その紅い瞳には、どこかイタズラっぽい光と、柔らかな温もりが宿っている。
彼女は、炎を見つめながら、そっと語りかけた。
「なら、この力を使って──私と、あなた自身を守りなさい。」
「そして……あなたが守りたいと思う人を、守るために。」
その声は、まるでそよ風のように優しく、しかし確かな響きを持っていた。
そして、彼女は何気なく続ける。
「それにしても……カルマのこと、好きなのよね?」
──ドクンッ。
炎の胸が、激しく鳴った。
まるで隠していた心の奥を見透かされたような感覚に、彼の表情がわずかに強張る。
彼は何かを誤魔化そうとしたが……しかし、自分の心にある答えを、はっきりと掴むことができなかった。
「……わからない。」
かすれた声でそう呟く。
エリヴィアの視線を正面から受け止めることができず、目を逸らしてしまう。
まるで、この感情があまりにも複雑で、簡単に認めることができないかのように。
エリヴィアは小さく息を吐く。
その瞳には、どこか優しさと、少しのもどかしさが滲んでいた。
「あなたはいつも、自分を隠そうとするのね。」
「自分自身に疑問を抱いて、すべてを背負い込もうとする。」
エリヴィアはそっと瞬きをして、静かに続ける。
「でもね──時には、もう少し“自分の気持ち”に正直になってもいいのよ。」
彼女の言葉は、どこまでも穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
「カルマと過ごす時間を、大切にしなさい。」
「たとえ、未来でどんな真実に辿り着こうと、それを受け止めることができなかったとしても──」
「“今”あなたが感じているものは、確かに本物なんだから。」
炎は、静かに目を閉じた。
彼女の言葉が、胸の奥にじんわりと沁み込んでいく。
“自分の気持ちを受け入れる”
それだけのことが、こんなにも難しいものだったとは。
しかし……
その重さを、彼女は否定しなかった。
ただそっと、彼の迷いを包み込むように、優しく語ったのだ。
(俺は……この気持ちを、大切にしてもいいのか……?)
そんな沈黙の中で、エリヴィアがふと顔を上げる。
彼女の紅い瞳が、虚空の一点を鋭く捉えた。
まるで、何か“異変”を感じ取ったかのように──
炎はまだ気づいていない。
彼は、ただ思考の波に飲み込まれたままだった。
エリヴィアは、静かに囁く。
「──どうやら、時間みたいね。」
炎は、驚いたように顔を上げる。
彼女の姿が、ゆっくりと揺らぎ始めていた。
同時に、周囲の空間がまるで暴風のように揺れ動き、白い霧が舞い上がる。
炎の心に、焦りが生まれる。
彼は思わず、彼女に向かって手を伸ばした。
「待て……!」
「まだ話したいことが──」
しかし、白き猫はただ静かに地面へと降り立った。
嵐のような気流が渦巻く中で、彼女の姿がゆっくりと変化していく。
銀白の長い髪が滝のように流れ落ち、紅の翼がそっと広がる。
微かな光を纏いながら、それはどこか神聖でありながらも、同時に遠い存在のように思えた。
その双眸は相変わらず深紅に輝き、静かに、そして優しく炎を見つめている。
まるで、そこには限りない感慨と別離の想いが滲んでいるかのようだった。
炎の喉がかすかに震える。
彼は、彼女の気配が少しずつ遠のいていくのを感じていた。
──そして、その瞳の奥に、決して再び巡り会えないような、淡い哀しみが宿っていることに気づく。
「エリヴィア……」
彼の声には、言い知れぬ不安が滲んでいた。
エリヴィアは微笑む。
紅き瞳に宿る光は、どこまでも優しく、どこか安らぎを帯びていた。
「……彼女があなたを呼んでいるわ。」
それは、風の中に溶けるような、最後の囁きだった。
彼女の姿がゆっくりと消えていくにつれ、周囲を取り巻く嵐もまた、視界を覆い尽くす。
最後に残ったのは──
赤き翼の光。
そして、それさえも闇に呑み込まれ、消え去っていった。
◆ ◆ ◆
ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた天井が視界に映り込んだ。
炎はしばらくぼんやりと瞬きをしながら、まだ夢の余韻に包まれていた。
隣に何か気配を感じ、そちらへ顔を向けると、カルマが心配そうに彼を見つめていた。
「エン、ようやく目を覚ましたのね……」
彼女はそっと囁くように言った。
その声には、ほっとしたような安堵と、微かな気遣いが滲んでいる。
「さっき、寝ているとき……なんだか、とても苦しそうだった。
……まだ傷が痛むの?」
炎は静かに上体を起こし、手で額にかかる髪を払いながら、夢の残滓を振り払おうとした。
カルマはそんな彼の様子をじっと見つめていたが、不意に何かに気付いたように、そっと手を伸ばした。
指先が炎の頬に触れる。
そして、彼女は微かに驚いたように、優しく問いかけた。
「……泣いてたの?」
炎は一瞬、言葉を失った。
彼自身、涙を流していたことに気付いていなかった。
しかし、その問いかけに戸惑うこともなく、彼は静かに微笑むと、優しくカルマの手を握った。
「……ただの昔の記憶さ。心配することじゃないよ。」
そう言って、炎は目を閉じたまま、彼女の温もりを感じるように、そっとその手を握りしめた。
カルマの手のひらはとても温かく、優しい。
その感触が、炎の心に微かな安らぎをもたらした。
カルマはそんな炎の様子をじっと見つめた。
彼女の知る炎は、どこか冷たく、孤独を纏った存在だった。
だが今、目の前にいる彼は──
どこか穏やかで、以前とは違う雰囲気を纏っていた。
「……あなた、本当に変わったわね。」
カルマはぽつりと呟いた。
口調こそ軽やかだが、その瞳には、どこか嬉しそうな色が宿っていた。
炎はふっと微笑み、彼女の手を握る力を少しだけ強めた。
「……お前もな。」
彼の言葉に、カルマは目を瞬かせる。
「昔のお前は、いつも皮肉ばかりで、世の中を馬鹿にしているような口ぶりだった。
すべてのことを他人事のように扱い、何も気にしていないふりをしていた。」
炎は彼女を見つめながら、ふと胸の奥に複雑な想いが込み上げるのを感じた。
エリヴィアとの対話を経て、自分の心にあるものを少しずつ理解し始めていた。
それは、まだ形を成していない感情だったが──
少なくとも、カルマの存在が自分にとって 「ただの仲間」 ではないことだけは、はっきりと分かっていた。
しかし……もし彼女が「真実」を知ったら?
その時、彼女はどうするのか。
彼の元を離れてしまうのか?
それとも──
炎は思考を振り払い、目を伏せる。
そんな未来を考えても、今は何も変わらない。
それならばせめて……
今だけは、この温もりに浸っていたかった。
たとえ、それが一瞬の儚い安らぎであったとしても──。
「……そうかもしれないわね。」
カルマはふっと微笑んだ。
伏せた瞳に、静かな光が揺れている。
「確かに、あの頃の私は……誰かと本気で歩むことなんて考えてなかった。
この世のすべては、ただの通り過ぎる幻にすぎないと思っていたわ。」
そう言いながらも、カルマはじっと炎を見つめた。
その瞳の奥には、どこか切なげな光が滲んでいる。
彼女は知っている。
自分は 悪魔 であり、炎は 人間 だということを。
彼らの持つ時間は違う──
いつか、炎はこの世界を去り、
彼女はたった一人、彼のいない未来を生き続けることになる。
それが分かっているからこそ、
彼女は 「今」 という時間を、誰よりも大切にしていた。
この瞬間、炎と過ごすひとときが、
彼女にとって 唯一無二の記憶 となることを知っているから。
だから、どんな些細な瞬間でも、
彼の声、彼の仕草、彼の温もりを、
ひとつでも多く、心に刻みつけたかった。
──今、この時を、永遠に覚えていたかった。
二人の距離は、知らず知らずのうちに近づいていた。
互いの視線が重なり、
言葉のいらない 深い絆 が、そこに流れていた。
炎は、カルマの瞳の奥に宿る 淡い哀しみ を感じ取った。
だが、それは ただの悲しみではなかった。
彼女の瞳には、確かな 強さ も宿っていた。
そのことに気づいた瞬間、
炎の胸の奥に、ほんのりとした温もりが広がる。
「……たぶん。」
炎はぽつりと呟く。
まるで、自分の中に閉じ込めていた 何か を
そっと解き放つように。
「俺たちは……もう、昔の自分じゃないのかもしれないな。」
カルマは何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
その笑みは、とても優しくて、どこか儚げで……
それでいて 暖かかった。
彼の言葉の意味を、彼女は 理解していた。
彼らの関係は、あまりにも不確かで、儚くて──
それでも、今を大切にしたい。
カルマは、そっと目を閉じる。
そう。
先のことなんて、考えても仕方がない。
今、この瞬間だけは。
彼のそばにいるだけで、それだけでいい。
それだけで、心が満たされるから。
言葉はなくても、互いの 温もり を感じるだけで、
それだけで十分だった。
──まるで、儚く消える星の光のように。




