潜意識の白い影 (3)
炎は静かに彼女を見つめていた。
エリヴィアの理解と悔悟が、彼の心に巣食う痛みと迷いを少しずつ癒していくようだった。
共生という関係を変えることはできない。
だが、それでも彼には伝わった。
彼女の決意が──そして、彼女が本気で自分を守ろうとしていることが。
彼女の謝罪は、決して偽りではない。
それは炎に対してだけでなく、自らの運命を変えられないことへの懺悔でもあった。
「……つまり、俺たちはただ、運命に導かれたってことか。」
炎は、低く呟いた。
その瞳には、一筋の理解が宿っていた。
目の前に横たわる影は未だに濃い。
それでも──
彼はもう、独りではないと感じていた。
エリヴィアは小さく息を吐き、わずかに目を伏せた。
紅い瞳には、一抹の憂いと迷いが浮かんでいる。
しかし、その奥には決意があった。
「私があなたを巻き込んでしまったことは事実よ。」
「でも……もしあなたがこの戦いから降りたいなら、私は方法を探す。何としてでも、あなたを危険から解放してみせる。」
炎は思わず息をのんだ。
まさか、彼女がここまで考えていたとは──
彼の「選択」を尊重しようとしてくれるとは、思ってもみなかった。
彼女の言葉が、胸の奥で温かく広がっていく。
しかし、同時に、言いようのない複雑な感情が押し寄せた。
気づけば、彼は目を伏せ、拳を握りしめていた。
胸の奥に燻る焦り、自責、無力感が、言葉となって零れ落ちる。
「……俺は、ただ弱いだけだ。」
掠れるような声で、炎は呟いた。
指先が小さく震えているのが分かった。
彼の脳裏には、夜行者との戦いが鮮明に蘇る。
無力に叩き伏せられた記憶。
アレスの残した謎にすら手を伸ばせない現実。
降りかかる脅威に、ただ振り回されるばかりの自分。
「お前の力がなければ、俺は何もできない。」
「この先に待ち受けるものに、どう足掻いても太刀打ちできない。」
それは、炎自身が最も痛感していたことだった。
エリヴィアはそんな彼をじっと見つめていた。
そして、沈黙のあと、ふと不思議そうに問いかける。
「なら……どうして、あなたは車を運転できるの?」
炎は戸惑ったように顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
エリヴィアはゆっくりと尾を揺らしながら、穏やかに続ける。
「あなたは、ハンドルを握れば、すぐに運転できるでしょう?」
「特に学ぶことなく、自然に身についているはずよ。」
炎は僅かに眉をひそめる。
「……まあ、確かに。」
「ハンドルを握れば、自然と操作できる……まるで、最初から知っていたかのように。」
エリヴィアは小さく頷き、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「それはね、私たちが“共有”しているからよ。」
彼女の声は静かだが、確かな重みを持っていた。
「あなたの射撃技術も、学業も、日常生活の知識も……すべて私たちの間で共有されている。」
「でも、私の“能力”だけは、あなたに伝わっていない。」
その言葉に、炎は絶句した。
言われてみれば、確かにその通りだった。
彼は銃を握れば、迷いなく引き金を引ける。
文字を読めば、その意味がすぐに理解できる。
機械を触れば、まるで以前から扱っていたかのように動かせる。
だが──
彼女の“力”だけは、いくら試しても、発動しなかった。
それが何を意味するのか。
炎はゆっくりと息を飲み込み、言葉を探すように口を開いた。
「つまり……どういうことだ?」
彼の問いに、エリヴィアは静かに微笑む。
しかし、その瞳の奥には、何か深い意味が隠されていた。
次の瞬間──
世界がふっと歪む。
炎は、まるで何か大切な真実に触れかけているような、そんな予感を覚えた。
炎は沈黙したまま、何かに気づきかけているように目を伏せた。
エリヴィアの力を前にするたびに、心の奥底で湧き上がる感情──それは不安と、わずかな恐怖。
もしかすると、俺がこの力を使いこなせないのは……単なる隔たりの問題じゃない。
俺自身が、この力を拒んでいるのかもしれない。
エリヴィアは彼の様子を静かに見つめ、優しく言葉を紡ぐ。
「怖いのは、力を使いたくないからじゃない。」
「それを使うたびに、強烈な“反動”が伴うからよ。」
彼女の言葉は、まるで炎の心を見透かしているかのようだった。
「あなたの身体は、まだ覚えているでしょう?」
「致命傷を癒したときの激痛……遺跡の符紋を書き換えたときの、あの耐えがたい反動……」
「その記憶が、あなたをこの力から遠ざけているの。」
エリヴィアの声には、理解と哀れみが滲んでいた。
「あなたの本能が、自分を守ろうとしているのよ。」
「もう二度と、あの痛みを味わいたくないから……」
「でも、その“自己防衛”が、あなたとこの力との間に壁を作ってしまっている。」
炎は彼女の言葉を聞きながら、無意識に拳を握った。
彼は思い出していた。
力を使うたびに感じる、焼けるような痛み。
全身を蝕むような苦痛。
そして、それを味わうたびに、「もう二度と使いたくない」と思ってしまう自分。
──確かに、怖いのは当然かもしれない。
エリヴィアはそっと微笑み、彼を安心させるように語りかける。
「だからこそ、小さなことから始めてみましょう。」
「運転や射撃と同じように、最初は意識しながらでもいい。」
「まずは慣れること。毎日の中で、自然と使えるようにしていくの。」
彼女はしなやかに尾を揺らし、やわらかな声で続ける。
「この力は、あなたを苦しめるためのものじゃない。」
「あなたの一部になれば、もう怖くなくなるわ。」
エリヴィアの言葉は、まるで彼を導く光のようだった。
しかし、それでも炎の心から不安が消えることはなかった。
彼は目を伏せ、低く呟く。
「でも……こんなふうに使ってもいいのか?」
「これは“神の力”だろう?」
「俺みたいなただの人間が、そう簡単に扱っていいものなのか?」
その言葉には、深い自問自答と迷いが込められていた。
神の力──それは、本来ならば触れることすら許されない崇高なもの。
それを「自分のもの」として受け入れることに、どこか違和感があった。
そして何より──
(俺は、そもそも……生きていていいのか?)
炎は静かに視線を落とし、その問いの答えを探していた。
しかし、まだその答えを見つけることはできなかった。
エリヴィアは静かに炎を見つめた。
紅の瞳には、揺るぎない優しさと確かな意志が宿っている。
彼女はそっとため息をつき、しかしその声には断固たる温もりがあった。
「エン、この力は決して“上から与えられた恩恵”なんかじゃないわ。」
「これは、あなたと私が“共に生きている”からこそ生まれたもの。」
彼女の声は柔らかくも、どこか確信に満ちていた。
「確かに、この力の根源は“神”である私から来ているかもしれない。」
「でも今、それはあなたの命と深く結びついている。私たちが共有する一部なのよ。」
エリヴィアは一度言葉を切り、炎をまっすぐに見つめる。
彼女の紅い瞳には、確かな想いが込められていた。
「それに──エン。」
「生きることは、決して罪じゃない。」
彼女の声は、どこまでも穏やかで、どこまでも強かった。
「あなたが今、ここにいるのは“あなた自身の選択”でもあり、同時に“私の選択”でもある。」
「私は、この力があなたにあるからといって、あなたが“存在する価値”を疑うことなんて許さない。」
炎は驚いたように顔を上げた。
彼女の目に宿る“確信”は、まるで彼の迷いを全て包み込むように、あたたかく、そして真っ直ぐだった。
炎の胸の奥で、ゆっくりと何かがほどけていくのを感じる。
この力は、ただの“重荷”なんかじゃない。
それは、彼とエリヴィアが共に歩む証。
彼と彼女を繋ぐ、確かな“絆”だった。