霧の中の真実と絆(2)
朝焼けの街を、二人は並んで歩いていた。
空がようやく白み始め、微かに冷たい朝の風が肌を撫でる。
まるで、これから直面する真実の熱を冷ますかのように。
カルマの表情は静かだった。
しかし、その歩調には、隠しきれない緊張が滲んでいる。
「影幕は病院にいるが、他の組織に狙われる可能性はないのか?」
炎は低く呟く。
胸の奥に、ほんのわずかだが、不安の影がよぎった。
影幕が握る秘密はあまりにも大きい。
それは、多くの者を引き寄せ、そして──殺し合いを生むには十分すぎるほどのものだった。
「公会の情報によれば、影幕は厳重に管理された病室に収容されているわ。
警察が厳戒態勢を敷いていて、専任の監視もついている。
少なくとも短期間では、誰も簡単には近づけないはず。」
カルマはそう答える。
言葉は冷静だったが、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
二人は沈黙のまま歩き続けた。
しかし、その沈黙は重苦しいものではなく、どこか微妙な信頼関係を感じさせるものだった。
炎は無意識のうちに拳を握りしめる。
脳裏には、夢の中で見たアレスの記憶が何度も浮かんでは消えていった。
やがて、病院に到着した。
炎とカルマは何重にも設けられたセキュリティチェックを通過し、影幕のいる階へと足を踏み入れる。
静寂に包まれた廊下。
時折、巡回中の警官が無言ですれ違う。
そして、影幕の病室の前には──
二人の武装した特殊警察が立っていた。
その視線は鋭く、まるで敵の侵入を許さぬ城門の番人のようだった。
カルマは静かに証明書を取り出し、平静な声で告げる。
「私たちは公会の者です。今回の訪問は、あくまで見舞い目的です。」
特殊警察の隊員は、慎重に証明書を確認すると、無言で頷いた。
そして、一歩横に下がり、道を開けた。
病室の扉がゆっくりと開かれた。
薄暗い灯りの下、影幕は病床に横たわっていた。
その顔色は青白く、肩には分厚い包帯が巻かれている。
痛みに耐えているのか、呼吸は浅く、体は見るからに衰弱していた。
扉の音に気づき、影幕はゆっくりと瞼を開く。
目に映ったのは、入り口に立つ炎とカルマ。
その視線には、一瞬、言いようのない感情が浮かんだ。
「……来たか。」
かすれた声が室内に響く。
影幕は薄く笑い、皮肉めいた口調で続けた。
「やはり、お前たちは俺の持つ情報が忘れられなかったか……。」
カルマは冷ややかな視線を向け、感情のこもらない声で言い放った。
「父のことを聞きに来たわ。アレスの最後がどうなったのか……どこまで知っているの?」
影幕は口元にわずかに笑みを浮かべる。
その表情にはどこか遠い過去を懐かしむような色があった。
「アレスか……」
そう呟き、しばらく沈黙する。
「……彼は、自分を守ることができない男だったよ。」
影幕は天井を見上げるようにしながら、静かに言葉を紡ぐ。
「俺はずっと思っていた。もしかすると、あいつこそが唯一、本気で理想を信じた悪魔だったのかもしれない、と。」
その言葉には、どこか寂しげな響きがあった。
そして、ゆっくりと炎へと視線を移す。
「お前たちが彼に執着する理由は分かる。だがな……運命は、決して巻き戻せない。」
「……お前の言うことのどこまでが真実だ?」
炎の声は冷たく響いた。
その鋭い眼差しは、まるで影幕の内側を貫こうとするかのようだった。
影幕はわずかに微笑し、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「俺が知っていることなんて、たかが知れているさ……」
低く呟き、彼は静かに語り始めた。
「アレスは、闇紋会の計画の中で、ある役割を担っていた。
だが、その後……最後に目撃されたとき、すでに深く沈み込んでいたよ。
自分の信念こそが正しいと信じ込み、後戻りできなくなっていた。」
影幕の視線が揺らぐ。
「……そして、彼の運命を決めたのは……“あの人”だった。」
炎は眉をひそめ、胸の奥にざわめくものを感じた。
影幕の言葉が、あの夢の光景と重なっていく。
「……彼はどうやって死んだ?」
短く問う。
影幕は静かに目を伏せ、そして言った。
「俺には分からない。ただ、聞いた話だと……彼を追っていたのは、赤い髪の狩人だったそうだ。」
「……狩人?」
カルマの指がかすかに震える。
獅子のように生きた父が、まさか獵人の手で討たれたのか。
そんなこと、考えたこともなかった。
彼女の拳が無意識に強く握られる。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
ゆっくりと視線を炎へと向ける。
彼は獵人だ。
そして今、この場にいる。
その事実が、彼女の胸に複雑な感情を生じさせた。
怒り、悲しみ、困惑……どれも言葉にできない。
やがて、彼女は低く問いかけた。
「エン……今の話、どう思う?」
その声には、探るような響きがあった。
しかし、その奥には、抑えきれない何かが確かに存在していた。
影幕の言葉は、鋭い針のように炎の胸に深く突き刺さった。
あの戦いの記憶が、鮮やかに蘇る。
それは、まるで重い鎖となって心を締め付けるようだった。
──あの時、俺は……
炎は内なる波を押し殺し、静かにカルマを見つめる。
「影幕が何を知っていようと……俺たちに必要なのは、確かな答えだ。」
その声は平静でありながら、どこまでも揺るぎない強さを秘めていた。
カルマは小さく頷いた。
だが、心の奥に渦巻く憤りは、消え去ることはなかった。
彼女の中で、言いようのない感情がざわめく。
父の真実を知りたい。
だが、その答えが新たな痛みをもたらすのではないか──
そんな不安が、彼女を捉えて離さなかった。
影幕の意識が徐々に薄れ、病室は静寂に包まれた。
炎とカルマはしばし無言で見つめ合う。
お互いの瞳の奥には、言葉にできぬ決意が宿っていた。
もう、迷うことはない。
この霧に覆われた真実を、必ず突き止める。
二人は静かに病室を後にした。
病院を出たあと、カルマは静かに炎の隣を歩いていた。
だが、その目はわずかに伏せられ、心の奥では激しい嵐が渦巻いていた。
──父は、魔界で名を馳せた悪魔だった。
だが、そんな彼が「狩人」によって討たれたという現実を、今、自分は突きつけられている。
それが何を意味するのか……カルマには分からなかった。
「狩人に討たれる存在だったということは……父は、何か罪を犯したの?」
心の中で、そっと問いかける。
狩人に討たれた者は、"悪"なのか?
父は、本当に清算されるべき存在だったのか?
カルマの脳裏には、長年思い描いてきた父の姿が浮かぶ。
強く、誇り高く、誰よりも理想を掲げた存在。
そんな彼が、「狩るべき悪魔」として裁かれたというのなら……
彼女は、どうすればいい?
もし、自分が父を殺した狩人の前に立つことになったら──
自分は、何をする?
憎しみに駆られ、復讐を誓うのか。
それとも、ただ問いかけるだけなのか。
「なぜ?」
彼女の胸の奥に、冷たい感情が静かに広がっていく。
カルマは、ふと隣を歩く炎を見た。
彼は静かに歩を進めている。
彼女の隣で、ただ、無言のまま。
──炎は、狩人だ。
だけど、彼は今、私の側にいる。
それが救いなのか。
それとも──
カルマは、ふと胸の奥に、言い知れぬ孤独を感じた。
彼女はもう一度、静かに炎を見つめる。
……今だけは、考えないでおこう。
小さく息を吐き、
彼女は炎と並んで歩き続けた。
淡い朝陽の中、二人の影は、
ゆっくりと溶けていった。