曖昧な鏡像(6)
炎は息をのむと、無意識に新聞を手に取り、記事の内容をじっくりと目で追った。
記事にはこう書かれていた。
事故当時、トラックの運転手は「少年が猫を追いかけて突然道路に飛び出した」と証言し、急ブレーキをかけるも間に合わず、結果的に少年と猫をはねてしまった。少年は重傷を負い、すぐに病院へと搬送。しかし、現場にはその猫の姿はなく、警察は「驚いて逃げた可能性が高い」との見解を示していた。
——猫の姿は、見つからなかった。
炎の指が、わずかに震えた。
少年が飛び出し、白い猫が血に染まり、耳をつんざくブレーキ音が響き渡る。
バラバラだった記憶の断片が、ひとつに繋がっていく。
炎の目は、新聞の文字に釘付けになったまま動かない。
その様子を見ていたカルマが、静かに口を開いた。
「……エン? どうしたの?」
彼女の声は優しく、だがどこか慎重だった。
「この記事……もしかして、あなたと関係あるの?」
炎は深く息を吸い込み、胸に渦巻く動揺を必死に押さえつけた。
目の前の新聞を見つめながら、彼は静かに顔を上げる。
カルマと視線が合った。
彼の瞳には、言葉にできないほどの感情が揺れている。
やがて、炎はゆっくりと頷いた。
「……たぶん、これが俺がずっと探していた答えだ。」
その言葉には、確信とも戸惑いともつかない響きがあった。
炎は新聞の記事の日付に視線を落とすと、心臓の鼓動が自然と速くなった。
彼はすぐに、事故発生後の新聞を手に取り、続報を探し始める。指先がわずかに震えながらも、次々とページをめくっていった。
そして——ついに、見つけた。
「先日、トラックにはねられた少年は現在も危険な状態が続いており、依然として意識不明のままだ。警察は少年の家族を捜索中。事故の目撃者、または少年を知る人物がいれば、情報提供を求めている。」
炎は息をのんだ。
さらに詳しい情報を探そうと、記事の続報をめくり続ける。
だが、それから数日後——
この事件に関する新しい記事はどこにもなかった。
報道はここで途切れ、まるで事故そのものが時間の波に飲まれたかのように、人々の記憶から薄れ、消えていった。
炎の胸の奥で、じんわりとした痛みが広がった。
脳裏に浮かぶのは、あの夢の中で聞いた言葉——「二年」。
二年。
それは、何か重要な意味を持つのか?
現実と夢の記憶が交錯し、まるで手を伸ばせば届きそうで届かない、そんな曖昧な距離感が炎を包み込んでいた。
彼は息をのむと、迷わず二年後の新聞を探し始めた。
ページをめくる手が、焦燥感と共に次第に速くなる。
カルマはそんな炎の様子を静かに見守っていた。
彼の切迫した表情に、自然と眉をひそめる。
彼女の視線は、テーブルに広げられた新聞へと移った。
——いったい何を必死に探しているのか?
カルマもまた、記事を読もうとしたが、どれだけ目を凝らしても炎が注目している部分が見つからない。
時間が過ぎるほど、部屋の空気は緊張感を増していく。
——そして。
炎の手が、ふと止まった。
その視線は、新聞の片隅に小さく書かれた記事に釘付けになる。
あまりにも小さな見出し——「昏睡状態から二年、奇跡の生還」。
——心臓が、跳ね上がった。
視線が、その一行に釘付けになる。
「昏睡状態から二年、奇跡の生還」
脳内で、何かが弾け飛んだような感覚に襲われる。
息が詰まり、呼吸が急激に浅くなる。胸が苦しい。
手がかすかに震え、まるでこの現実を受け入れることを拒んでいるかのようだった。
——全部、現実だったのか?
断片的な記憶、夢の中の映像、かすれた声——。
そのすべてが、まるで鮮明な絵となって、今この瞬間、目の前で形を成し始める。
炎は、強く新聞を握りしめた。
瞳に宿るのは、驚愕と信じられないという色。
まるで、過去の記憶が想像以上に鮮烈で、想像以上に自分を揺さぶるものだったかのように——。
「お客様?」
不意に、穏やかな声がかかった。
図書館の職員が眉をひそめながら、そっと炎とカルマに近づいてきていた。
「申し訳ありませんが、ここは閲覧スペースですので……静かにお願いいたします。」
しかし、炎の顔色を見た職員の表情が、一瞬で変わる。
異常なまでの蒼白。
その額に滲む冷や汗と、どこか虚ろな瞳の奥に浮かぶ焦燥——それを目にした瞬間、職員の声色が僅かに和らいだ。
「……お客様、大丈夫ですか? 体調が悪いように見えますが……?」
炎は呼吸を整えようとしながら、何とか視線を新聞から離し、職員に向き直る。
「……大丈夫です。ご心配ありがとうございます。」
低く、静かな声でそう告げると、再び新聞に目を落とした。
——病院の名前。
それを、一言一句逃さぬように目に焼き付け、心に刻み込む。
……落ち着け。
炎は自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと手を動かし、散らばった新聞を一枚ずつ元の場所へ戻していく。
その仕草は、まるで自らの動揺を隠すかのように、冷静さを取り戻そうとするための行為だった。
隣に座るカルマは、彼の指先がほんのわずかに震えていることを見逃さなかった——。
カルマは何も言わず、ただ静かに炎を見つめていた。
彼の内に渦巻く感情を感じ取りながらも、余計な言葉を挟まず、ただそっと——彼の腕に軽く手を置く。
その掌から伝わるのは、無言の支えだった。
炎は一瞬目を閉じると、ゆっくりと息を吸い込み、静かに頷いた。
——ここを出よう。
思考が、少しずつクリアになっていく。
仮説が、一つの輪郭を成し始めた。
——あの白い猫。
それは、エリヴィアだった。
事故の後、猫は「消えた」とされていた。
しかし、本当にそうなのか?
もしかすると、彼女は消えたのではなく、「俺の中に入った」のではないか——?
その瞬間、すべてが繋がった。
俺が持っている、エリヴィアの断片的な記憶。
俺の成長とともに、内側で膨れ上がる得体の知れない力。
ずっと感じていた「もう一人の存在」。
——そうか。
エリヴィアは、俺の中に宿ったんだ。
彼女はあの事故の後、俺の体に宿り、俺と共に生きることを選んだ。
だから俺は、夢の中で彼女の記憶を見ていたのか。
……いや、もしかすると、これは「夢」なんかじゃない。
俺の人生そのものが、彼女の存在と混ざり合っていたんだ——。
だが……。
この「夢」は、まだ終わっていない。