曖昧な鏡像 (3)
治療が終わると同時に、炎とカルマは視線を交わした。
互いに抱える疑問は多い。
沈黙を破ったのはアイデンだった。少し探るような口調で問いかける。
「リア……お前は、なぜあの病院に閉じ込められていた? 」
「それに……シャドヴェルのことを知っているか?」
リアは小さく俯き、その瞳にどこか捉えどころのない感情が宿る。
そして、ゆっくりと首を振り、低い声で答えた。
「ごめんなさい……あまり覚えていないの。」
「気がついたときには、すでにあそこにいて……それより前の記憶が、はっきりしなくて。」
その言葉には、わずかな重みと戸惑いが滲んでいた。
まるで、何かを隠しているかのように。
カルマは眉をひそめ、さらに問い詰めようとした。
しかし、リアの不安げな表情を見て、一度口を閉ざす。
無理に聞き出すのは得策ではないと判断したのだ。
炎とアイデンは一瞬目を合わせた。
疑念は消えないが、今は無理に追及するべきではないと、暗黙のうちに決める。
部屋には静寂が訪れた。
リアはまだ、語っていない何かを抱えている——
その思いが、三人の心にわずかな影を落としていた。
——しかし、その静けさも長くは続かなかった。
「……ぐぅ~」
不意に響いた小さな音に、カルマとリアは思わず顔を見合わせる。
そして次の瞬間、くすくすと笑い声が漏れた。
「……はいはい、俺の腹の音だよ。」
アイデンがわざとらしく咳払いをし、気まずそうに頭をかいた。
「笑うなよな?」
「いや、別に笑ってないわよ?」
カルマは口元を隠しながら、明らかに愉快そうな表情を浮かべていた。
アイデンは大げさに肩をすくめ、
「もういい、とにかく何か食べようぜ。腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ?
ちょうど外に出るついでに、買ってくるよ。」
そう言いながら、彼は隣に座っていた炎に向かって軽く手を振った。
「エン、お前も来いよ。ちょうどリハビリがてら、少し歩くのもいいだろ?」
カルマがいたずらっぽく目を細める。
「あら、優しいのね。でもどうせ、またエンに奢ってもらうつもりなんじゃない?」
「ちょっ、なんで俺がそんなセコい奴扱いされてんの!? たまには信じろよ!」
アイデンは両手を広げて大げさに嘆いてみせたが、カルマはただ微笑むだけだった。
そんなやり取りを見ていた炎は、クスッと笑いながら立ち上がり、
「まあ、ついでに付き合ってやるよ。」と軽く頷いた。
二人が部屋を出ていくのを見送ると、カルマは小さく息をつきながら、ぽつりと呟く。
「……あの二人って、ほんといいコンビよね。」
リアもそれを聞いて微笑んだ。
重たい話ばかりだったが、こうして肩の力を抜ける時間があるのは悪くない。
そう思いながら、二人は穏やかな空気の中、しばしの安らぎを味わった。
◆ ◆ ◆
アイデンと炎は並んで歩きながら、静かな朝の街を進んでいった。
日が昇るにつれて、ちらほらと人の姿も増えてきたが、まだ落ち着いた雰囲気が漂っている。
アイデンはスマホを取り出し、影幕の正体に関するデータを開くと、素早く信頼できる数人の連絡先に送信した。彼がかつて区議員選挙に出馬していたことや、最近の行動履歴など、手がかりとなりそうな情報も添えておく。
「これで調査のスピードが上がるはずだ。」
アイデンは満足げに呟きながら、スマホをポケットにしまった。
「前より手際が良くなったんじゃないか?」
炎が何気なく言いながら、少しだけ茶化すような目でアイデンを見た。
相変わらず、彼のやり方には一歩引いて観察する姿勢を崩さない。
アイデンはくすっと笑い、軽く炎の肩を叩いた。
「お前と一緒にいる限り、こういう仕事はいつまでも鈍らないってことさ。」
そんな軽い会話を交わしながら、二人は街を歩き続けた。
途中、角を曲がったところにある粥専門の店の前で、アイデンが足を止める。
「ここの焼きそばとお粥、結構うまいんだよな。どうだ? 買って帰るか?」
炎はちらりと店を見て、静かに頷いた。
「悪くない選択だな。」
こんなふうに穏やかに朝食を買うなんて、ずいぶん久しぶりのことだと炎はふと感じた。
こういう些細な日常が、どこか懐かしい。
アイデンは店のカウンターに向かいながら、気軽な調子で言った。
「カルマもきっと文句は言わないだろ。」
「俺の腹の音のせいで気まずくなったお詫びとして、ご馳走するさ。」
炎は小さく笑い、何も言わずに頷いた。
そして、ほんの少しだけ意地悪な笑みを浮かべながら、
「でも、どうせ奢るなら、もうちょっと豪勢にな。カルマは簡単には誤魔化されないぞ。」
アイデンは思わず笑い、肩の力を抜いた。
朝食の袋を手に提げ、二人は並んでハンター公会の住宅へと戻っていく。
朝の微光が街並みに降り注ぎ、先ほどまでの軽やかなやり取りが、空気をより穏やかに感じさせた。
静かな朝の街――。
しかし、その静けさは突然、鋭いクラクションの音によって破られた。
「――ッ!」
横断歩道の向こうで、大型トラックが急ブレーキをかけた。
タイヤがアスファルトをこする耳障りな音が響き渡り、歩行者のすぐ目の前で車体が停止する。
道の真ん中に立ち尽くした歩行者は、恐怖に凍りついたように動けない。
周囲の人々も足を止め、ざわざわと騒ぎ始めた。
その瞬間――。
炎の視界が、ぐにゃりと歪む。
――血に染まった白い猫が、腕の中を飛び出す。
脳裏に、鮮明すぎる記憶の断片が突如として流れ込んできた。
小さな影が、車道へと駆け出す。
「待て――!」
自分もすぐさま後を追う。
耳をつんざくようなクラクションの音。
タイヤがスリップする音。
そして――轟音。
その一瞬で、視界が真っ赤に染まる。
炎の心臓が、まるで鷲掴みにされたかのように激しく跳ねた。
意識の中で過去と現在が入り乱れる。
目の前のトラック、ブレーキ痕、呆然と立ち尽くす歩行者――
――それらすべてが、あの日 と重なり合う。
呼吸が乱れ、喉が締めつけられるような感覚に襲われる。
鼓動が早鐘のように鳴り響き、胸の奥にある何かが警鐘を鳴らしている。
――やめろ。思い出すな。
――だが、映像は止まらない。
血まみれの白い猫が、道の先に横たわる。
遠くで誰かが叫んでいる。
あのとき――俺は、一体……?
「エン?」
隣から聞こえてきたアイデンの声は、強い心配の色を帯びていた。
だが、炎にとってそれはどこか遠く、厚い霧の向こう側から響いているように感じられた。
指先が微かに震え、無意識のうちに近くの手すりを掴む。
何かにしがみついていなければ、自分が現実から引き剥がされてしまいそうだった。
アイデンは異変に気付き、すぐさま炎の肩を掴んだ。
その手にはしっかりとした温もりがあり、現実へと繋ぎ止める確かな存在だった。
「おい、大丈夫か? 何があった?」
炎の瞳は焦点を定められず、宙をさまよう。
唇がかすかに震え、言葉を発するのも躊躇うほどに、記憶の檻に囚われていた。
あの時の――轟音、悲鳴、血に染まった白い影。
深く息を吸い込み、何とか鼓動を落ち着かせようとする。
そして、掠れた声でかろうじて言葉を絞り出した。
「……大丈夫だ。ただ、ちょっと……記憶が急に……」
自分に言い聞かせるような、頼りない声だった。
だが、その言葉とは裏腹に、胸の奥で冷たく渦巻く恐怖は、依然として影のようにまとわりついていた。
アイデンは短く息を吐き、炎の肩を優しく叩く。
その仕草には、無理に詮索しないという配慮が込められていた。
「無理しなくていい。まずは呼吸を整えろ。公会に戻ったら、落ち着いて話そう。」
炎は僅かに頷き、強張っていた指をゆっくりと開いた。
だが、あの光景――
――車輪の軌跡と赤い染み、路上に横たわる小さな影――
――は、まるで焼き付いた痕のように、心の奥深くに刻まれたままだった。