曖昧な鏡像 (1)
「エン!」
耳元で響くアイデンの声が、炎を現実へと引き戻した。
車の窓から差し込む淡い朝の光が、車内をぼんやりと白く照らしている。
夜の帳が徐々に薄れ、地平線には朝焼けが広がり始めていた。
後部座席ではカルマとリアが静かに眠っている。
二人ともひどく疲れているのか、穏やかな寝息が聞こえるほどだった。
車内には心地よい静寂が漂っている。
だが、副座に座る炎の表情はどこか曖昧だった。
迷いを帯びた瞳が、まるで霧の中を彷徨っているかのように不安定な光を宿していた。
「どうした?」
アイデンはハンドルを握りながら低い声で問いかける。
ちらりと横目で炎の様子を伺い、その違和感を敏感に察していた。
炎はわずかに首を振ると、淡々とした口調で答えた。
「……なんでもない。ただの夢だ。」
そう言って、窓の外へと視線を移す。
それ以上、何かを語るつもりはないという意思が、その横顔から伝わってくる。
しかし、その目の奥には微かな混乱が見え隠れしていた。
夢の中の情景がまだ脳裏に焼き付いていて、簡単には振り払えないようだった。
炎は静かに目を閉じる。
再び浮かび上がる夢の断片——アレスの姿。
「闇紋会」という言葉。
そして、
自分と瓜二つの男。
それらの映像が重なり合い、現実と虚構の境界線を曖昧にする。
あれは、一体何だったのか。
記憶の残滓なのか、それとも——ただの夢にすぎないのか。
炎は唇を引き結び、心の奥にある疑念を確かめるように、静かにスマホを手に取った。
検索バーに指を滑らせながら、慎重にいくつかのキーワードを入力する
——ある年の地区議員選挙。
画面をスクロールしていくうちに、炎の目はある一枚の写真で止まった。
そこには、見覚えのある人物の姿が映っていた。
それは、かつての影幕——地区議員選挙に出馬していた頃の数少ない記録のひとつだった。
写真の中、彼はスーツを着こなし、演説台の上で爽やかな笑顔を浮かべている。
今の影幕とはまるで別人のようだった。
他の写真にも、地域のイベントで住民たちと親しげに交流する彼の姿が映っている。表情は明るく、自信に満ち溢れ、まさに理想の候補者といった雰囲気を醸し出していた。
だが、記録はそれだけだった。
選挙活動の途中から、彼の姿は公の場から徐々に消えていく。まるで意図的に歴史から身を引いたかのように——。
それでも、このわずかな写真だけで十分だった。炎の心に、小さな衝撃が走る。
今の影幕と、写真の中の彼は、本当に同一人物なのか?
スマホの画面を見つめる炎の目に、朝の光が差し込む。
夢の中で見た曖昧な記憶が、現実に残る痕跡と少しずつ重なり合う。
——あの夢は、ただの幻想ではない。
何かがある。
彼らが直面するこの謎を解く鍵が、確かにここに存在している。
スクリーンに映る名前は、ごく平凡なものだった。特に特徴もなく、印象に残らない。
しかし——それこそが、今の「影幕」としての姿との決定的な違いを浮き彫りにしていた。
炎の胸に疑念が広がっていく。
かつては正々堂々とした候補者だった男が、一体何を経験し、今や闇紋会の陰謀に関わる謎の存在へと変貌を遂げたのか?
視線を写真と現実の間で行き来させながら、炎の疑問は深まるばかりだった。
選挙時代の彼の姿と、今の影幕は、まるで別人のように見える。
何が彼を変えたのか?
何が彼の運命をねじ曲げたのか?
運転席のアイデンは、時折助手席の炎を気にしながらハンドルを握る。
彼の険しい表情が、ただの沈思とは思えなかった。
「……エン?」
問いかけようとしたその瞬間、炎は無言のままスマホの画面をアイデンへと向けた。
「……これは……?」
アイデンの視線が画面に映る写真と名前を捉えた瞬間——。
ガクンッ
思わず手が震え、ハンドル操作を誤りそうになる。
車がわずかに揺れ、炎も肩の傷を衝撃で刺激され、思わず痛みに顔をしかめた。
反射的にスマホを落としそうになりながらも、炎は歯を食いしばって手を握り直し、かろうじて端末を掴み直す。
アイデンは慌ててハンドルを立て直しつつ、驚愕の表情で画面を見つめた。
「……こいつは……どういうことだ?」
アイデンは炎の異変を察し、すぐさまハンドルを安定させた。
そして、バックミラー越しに後部座席を一瞥する。
カルマとリアは、まだ深い眠りの中だった。
車内のわずかな揺れにも目を覚ますことはなく、静かな呼吸音だけが聞こえる。
その様子を確認し、アイデンは小さく息をついた。
「……マジかよ、エン……」
声を潜めながら、彼はスマホの画面を凝視し、信じられないという表情を浮かべる。
「こいつが……シャドヴェルだと?」
画面に映るのは、かつての選挙ポスター。
スーツ姿の男が、意志の強さを感じさせる眼差しで微笑んでいる。
その姿は、今の影幕とはまるで別人だった。
影に包まれた冷酷な男。
そして、かつて理想に燃えていた政治家——。
どう見ても、結びつかない。
アイデンは言葉を失い、ただじっと画面を見つめたまま、理解が追いつかないといった様子で息を呑む。
炎はスマホをゆっくりと手元に戻し、低い声で呟いた。
「……昔、俺たちの地区にも、このポスターが貼られていた。」
「今になって思い出したんだ……この選挙が、全てを変えたのかもしれない。」
その言葉に、アイデンはさらに目を見開いた。
炎の記憶の正確さについては気に留めなかった。
今の彼にとって、何よりも衝撃的だったのは——
「……区議員を目指していた男が、どうしてこんなことに?」
深いため息と共に、アイデンは呟いた。
炎は何も答えず、ただ窓の外を見つめる。
彼の頭の中には、ある疑問が渦巻いていた。
——この男は、一体どんな絶望を経験したのか?
——どうして、彼は今のシャドヴェルになったのか?
光と影、その狭間に何があったのか——。
アイデンは微かに興奮した様子で、声を潜めながら言った。
「正体と本名が分かったなら、あとは詳しく調べるだけだな。今すぐ知り合いに連絡して、情報を集めたいところだけど……」
そこまで言いかけて、アイデンはふと気づいた。
まるで炎が運転できないことを遠回しに愚痴っているような言い方だった、と。
しまった。
ちらりと隣の炎を見て、彼の表情を伺う。
何か言おうとしたが、結局口をつぐみ、申し訳なさそうに短く付け加えた。
「……いや、そういうつもりじゃない。ちょっと余計なことを言ったな。」
炎は何も気にしていない様子だったが、ふと先ほどの夢の記憶が蘇る。
紅い髪の少年と、アレスの会話——
それが頭の片隅に浮かぶ中、彼は何気なく口を開いた。
「まあ、確かに……免許を持っていれば、運転できるし便利だよな。」
何気ない独り言のような言葉。
しかし、アイデンはそれを聞いた瞬間、目を輝かせ、口元に小さな笑みを浮かべた。
「お、いいね。傷が治ったら、運転交代してくれよ。
ずっと気を張ってるのも、さすがに疲れるからな。」