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夢幻の追憶 (3)

 

 放課のチャイムが鳴り響く中、少年は帰り道を歩いていた。


 夕陽の残光が街を染め上げ、その影を長く伸ばす。

 微風が赤みがかった短髪を揺らし、ほんのりとした涼しさを運んでくる。

 彼は気ままに歩きながら、今日の授業での些細な出来事を思い返していた。


 ふと気づけば、近くの小さな公園に辿り着いていた。


 そこで目に入ったのは、ベンチに腰掛ける黒縁眼鏡をかけたスーツ姿のアレスだった。

 冷峻な表情を浮かべ、端正な姿勢で座るその様子は、まるでどこかの企業戦士のよう……


 しかし、黄昏の光に照らされるその姿は、どうにも滑稽だった。

 つい最近まで巨大な魔人だった男が、今やきっちりとしたビジネススタイルに身を包んでいるのだ。

 周囲のくつろいだ雰囲気とあまりにも釣り合っておらず、場違い感がすさまじい。


 少年はわずかに眉を上げ、心の中で苦笑しながらアレスの前に立つ。

 そして、どこか皮肉めいた口調で声をかけた。


「てっきり、もう少し目立たない格好をするかと思ったけど……意外と目を引くじゃないか?」


 彼はアレスのスーツと眼鏡をじっくりと眺め、口元をわずかに吊り上げる。

 目の奥には、隠しきれない茶目っ気が宿っていた。


 アレスはちらりと少年を見上げ、目の奥に微妙な光を宿した。

 軽く鼻を鳴らし、不満げな口調でぼやく。


「お前の言うとおりに人間の姿に変えて、わざわざこんな服まで着たというのに……

 まさか文句をつけるとはな」


 少年はくすりと笑い、手をひらひらと振る。

「いやいや、文句じゃないよ。

 ただ……なんというか、妙に気合い入りすぎてるっていうか」


 そう言いながら、彼はアレスの姿を再び眺める。

 まるでビジネス雑誌から飛び出してきたような完璧なスーツ姿。

 端正な顔立ちに黒縁眼鏡という組み合わせは確かに理知的ではあるが、それが逆に浮いていた。


「ここで普通の人間みたいに座ってるつもりかもしれないけど……」

 少年は口元に笑みを浮かべ、肩をすくめる。

「すれ違った人、みんな『迷子の営業マンかな?』って思ってるんじゃない?」


 アレスの眉がぴくりと動いた。

 どうやらこの指摘が少し気に障ったらしい。

 だが、彼はぐっと堪え、深く息を吐いた後、仕方なさそうにスーツの襟元を正し、より堂々とした姿勢をとる。


「……俺はただ、少し考え事をしていただけだ。この人間界……やはり、厄介なものだな」


 少年は軽く頷きながら、ベンチに寄りかかる。

 視線はどこか余裕を含みながらも、好奇心を帯びていた。


「ふーん、で?何をそんなに考え込んでたのさ?」


 アレスはわずかに眉をひそめ、遠くを見つめる。

 まるで思考を整理するかのように、しばし沈黙した後、低く冷静な声で口を開いた。


「この数日……俺は多くの人間を観察していた。

 彼らの生活――つまらなく、退屈なものだと思っていたが……

 実際には、それだけではなかった」


 少年は小首を傾げ、口元に笑みを浮かべる。

 その瞳には、探るような光が宿っていた。


「へえ? お前がそこまで熱心に研究するなんて、こいつらもなかなか面白い存在らしいな」


 アレスは少年の軽口には取り合わず、静かに言葉を続けた。

「彼らは、一見すると取るに足らないことに多くの時間を費やす。

 ほんの些細な成功や、一瞬の感情に喜びを見出し……未来が不確かでも、迷いなく前へ進む」


 ふと、アレスは眼鏡を軽く押し上げた。

 まだこの動作には慣れないらしく、僅かにぎこちなさがあった。

 しかし、気づかぬうちに再び同じ仕草をしていた。


「脆弱な存在のはずの人間が、無意味とも思える日々の中に『支え』を見出している。

 それは、俺たちが追い求める理想と、案外、そう変わらないのかもしれない」


 少年は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 アレスが人間の生き方について、ここまで静かに語るのは初めてだった。

 その言葉の端々には、どこか共感にも似た響きがあった。


 しばらくの沈黙の後、少年は静かに頷く。

 目を細め、どこか満足げな微笑を浮かべながら、ぽつりと呟いた。


「ふむ……お前、思ったよりこの世界に馴染んでるんじゃないか?」


 アレスは沈黙したまま、わずかに目を伏せる。

 そして、ふっと鼻で笑い、どこか自嘲するように呟いた。


「適応なんて大それたものじゃない。ただ……理解しようとしているだけだ」


 そう言いながら、彼の視線がゆっくりと少年の顔に落ちる。

 その瞳はどこか遠くを見つめるように深く、まるで過去の記憶を辿っているかのようだった。


「エリヴィア……俺たちが目指していた理想の世界とは、どんなものだったと思う? 

 秩序に満ちた、完璧な世界……だが、この人間たちは、俺たちが決して縛ることのできない『自由』を持っている」


 少年は静かに聞き入る。

 その瞳の奥に、かすかな感情が揺らめく。

 アレスの言葉が、彼の心の奥深くにある何かをそっと揺さぶった。


 しばらくの沈黙の後、少年はぽつりと呟くように言った。

「……だからこそ、俺はここに残ることを選んだのかもしれない。

 人間の脆さは……ある意味では、彼らの強さでもある」


 アレスは僅かに首を傾げ、少年の言葉を意外そうに聞く。

 そして、ゆっくりと問いかけた。


「……つまり、お前はこの脆弱な人間たちを守るつもりなのか?」


 少年は俯きながら微かに微笑む。

 その眼差しには、ほんのりとした温かさが滲んでいた。


「誰かを守るためじゃない。」

「ただ……この場所で、自分の選択が正しかったのか、もう少し確かめてみたいんだ。」


「それに……この身体の持ち主は、俺に人間の『別の勇気』を見せてくれた。

 俺は……その責任を果たすべきなのかもしれない」


 アレスはそれ以上何も言わなかった。ただ、その瞳にはこれまでとは違う、理解と沈思の色が宿っていた。


 少年もまた、静かにその隣に座っていた。

 公園のベンチに並んで腰掛け、二人の影は夕陽の光の中で細く、長く伸びていく。


 言葉はなかった。だが、この沈黙こそが、二人の距離をほんのわずかに縮めていた。



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