盤上の迷宮 (6)
荒れ果てた街の外れを抜け、カルマはアルを連れて一軒の目立たないバラック小屋へと足を運んだ。
雑草が生い茂る屋外で、錆びた鉄の扉をカルマが押し開けると、耳障りな摩擦音が響いた。
中は薄暗く狭く、壁には符紋入りの布片や魔界の古文書が並ぶ。
机の上には黄ばんだ紙束や使い古された薬瓶が山のように積まれ、
空気には長年の埃と薬草の入り混じった、何とも言えない古びた匂いが漂っていた。
この小屋にいるのは、ただ一人。
暗赤色のローブをまとった小柄な影が、書物の前に立ち、黙々と分厚い書巻をめくっていた。
カルマが扉を押し開けるわずかな音にも、その人物はすぐに反応し、顔を上げる。
黄金色の瞳がゆるりと揺らめき、一瞬の静寂ののち——
その視線は、カルマの肩に乗るアルにぴたりと固定された。
やがて、彼の口元に薄く笑みが浮かぶ。
その笑みには、狡猾さと何かを見透かしたような含みがあった。
「ほう、まさかそれを連れてくるとは。」
しゃがれた声に興奮と好奇心が滲む。
カルマは扉の枠に手を置き、冷ややかな口調で言い返した。
「アルは『それ』じゃない。名前がある。」
学者は否定も肯定もせず、相変わらずアルをじっと見つめていた。
まるで、その存在の奥に隠された何かを読み取ろうとするかのように——。
やがて、彼は目を細め、低く呟く。
「……この小さな魔獣、ただの使い魔ではないな。契約の痕跡が残っているが、完全にお前のものでも、お前の仲間のものでもない……実に興味深い。」
その声には、自問自答のような響きすらあった。
アルは何かを察したのか、わずかに身を縮める。
警戒するように、カルマの肩の上で尾を小さく打ち振るい、喉の奥で低く唸った。
カルマは軽く手を伸ばし、その小さな頭を撫でる。
そして、僅かに苛立ちをにじませた声で言った。
「私はアルの話をしに来たんじゃない。」
学者はようやくアルから目を離し、カルマの顔を見つめる。
金色の瞳には、ほんの少しの戯れと期待が浮かんでいた。
カルマは扉にもたれ、腕を組んで彼を見据えた。
「知りたいことがある。父はどうやってエリヴィアが人間界にいると確信した?」
学者は短く息を吸い、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「アレスが私を訪ねた。それくらいは、お前も察しがついていただろう?」
「……」
「だが、彼も最初から確信していたわけではない。」
「じゃあ、何を根拠に?」
カルマの眉がわずかに寄る。
学者は、書巻をめくる手を止め、指先で表紙を静かに撫でる。
その動作とともに、彼の声が低く沈む。
「彼が頼ったのは曖昧な噂と推測——そして『執念』だ。」
カルマの顔が一瞬曖昧になる。
「執念?」
「そんなもので動いて、どれだけの影響が出るか……父がわからなかったはずない。」
学者はその言葉に微かな笑みを返した。
しかし、その笑みには冷たさも含まれていた。
「理解していたさ。それでも、彼は進むことを選んだ。」
彼は、書巻を静かに閉じる。
そして、金色の瞳をカルマに向け、静かに告げる。
「その噂話は、おそらく巧妙に仕組まれた『罠』だった。」
「……」
「アレスは、とうの昔に『盤上の駒』となっていたのかもしれんな。」
カルマは沈黙する。
胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻いていた。
彼女はゆっくりと息を吐き出し、声を抑えて問いかける。
「……誰の仕業?」
しかし、学者はすぐに答えなかった。
机の上の古い書物に手を置き、意味ありげに目を細めると、言葉を選ぶようにゆっくりと語る。
「お前は疑問に思ったことはないか?」
「何を?」
「エリヴィアほどの存在が、なぜわざわざ人間界に隠れた?」
カルマの表情が微かに揺れる。
学者の言葉には、核心を突く何かがあった。
彼は続ける。
「本当に身を潜めるだけなら、もっと安全な場所はいくらでもあったはずだ。」
その言葉が、まるで冷たい水のように、カルマの胸に落ちていく。
この問いの答えを知ることが——
彼女の探し求める「真実」につながるのかもしれない。
その言葉に、カルマの胸が一瞬強く脈打った。
彼女は思わず視線をそらし、深く思案する。
そして、低い声で問うた。
「……つまり、エリヴィアは人間界に“逃げた”わけじゃない?」
学者はゆっくりと頷く。
その声は、先ほどよりもさらに深く、低く響いた。
「彼女の行動は、逃亡ではなく“選択”だ。何かに干渉し、あるいは均衡を図っている
——そう考えたほうが自然だな。
すべてを断言することはできないが……
これは、ただの隠遁ではない。」
言葉の端々に、何かを暗示するような響きがあった。
カルマの思考はさらに絡まり、内心の焦燥を隠せないまま問い詰める。
「じゃあ、どうして父はそれを信じたの?
なぜ“ハンター”に追われる危険を冒してまで、次元の門を開けた?」
学者の黄金色の瞳がわずかに冷えた。
その声には、皮肉めいた響きすら混じっている。
「アレスは信じていたわけじゃない。だが、他に選択肢がなかった。」
「……?」
「彼が心から従っていたのか、それとも強制されていたのか……真意は定かではない。
だが、いずれにせよ——彼は“退くことを許されなかった”のだ。」
言葉に込められた重みが、カルマの胸を静かに圧迫する。
「彼の行動は、試みだった。 だが、お前の父親は自分の結末を知っていたかもしれない。」
彼はそう告げたあと、一拍置く。
そして、より低く、沈むような声で言った。
「そして今——そのすべてが、お前と“お前の仲間”の肩にのしかかっている。」
カルマの目が鋭くなる。
彼女の指先が無意識に肩の上のアルを軽く押さえた。
その小さな魔獣はピクリと動くが、何も言わず、じっと彼女に寄り添っている。
カルマはゆっくりと息を吐き、抑えた声で問いかけた。
「つまり、私たちはもう……抜け出せない?」
学者は、くつくつと笑う。
その笑みには、理解者としての憐れみと、忠告としての厳しさが入り混じっていた。
「真実を追い求めると決めた時点で、お前も覚悟していただろう?」
「……」
「答えというものは、しばしば問いよりも危険なものだ。」
そして、彼の視線がカルマの肩に乗るアルへと移る。
その目は、冷静な分析者の光を宿していた。
「そして、お前の仲間たち……“エン”も、“アル”も——彼らの存在こそが、盤面を回し続ける歯車だ。」
カルマの眉がわずかに動く。
「……盤面の回転?」
彼女の問いに、学者は静かに書物を閉じる。
「エリヴィアの力は“ただの守護”ではない。」
「アルの存在も、単なる偶然ではない。」
彼の声は、どこか悟ったように静かだった。
「彼らはこの盤上における“要”だ。」
「そして——お前の父、アレスは“開局の捨て駒”だった。」
カルマの拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「……捨て駒?」
「アレスが門を開けたのは、ある“計画”を成就させるためだった。
だが、それはもはや人間、魔族、そして神界の争いを超えた——
“別の戦い”だ。」
カルマの心が、大きく波打つ。
彼女の目が静かに燃えるような光を宿す。
そして、力強く告げた。
「だったら——私は“答え”を見つけなければならない。」
学者はその言葉に微かに目を細め、静かに微笑む。
彼の微笑みが何を意味するのか——それは、誰にもわからなかった。
老学者は、微かに笑みを浮かべた。その声は、どこか冷ややかだった。
「その答えの重さ——お前に耐えられるか? アレスの娘よ。」
彼の金色の瞳には、軽く揶揄するような光が宿っていた。しかし、その奥底には、微かに隠された哀れみが滲んでいた。
カルマは何も答えず、ただ静かに背筋を伸ばし、アルの頭を優しく撫でた。
彼女の声は、冷静でありながらも確固たる決意を秘めていた。
「どんな答えでも受け止める。
父の選択を無駄にはしない。」
老学者は首を振って小さく笑った。
「ならば、お前が進む道は……さらに険しいものになるだろう。」
「後悔しなければいいがな。」
カルマはそれ以上言葉を交わさず、アルの頭をもう一度軽く撫でると、古びた鉄の扉に手をかけた。
ギィ……ッ
金属が擦れる冷たい音が響き、屋外の空気が勢いよく流れ込む。
夜の街は、まるで重い幕が降りたような静寂に包まれていた。
湿った風が頬を撫で、どこか陰鬱な匂いを運んでくる。
カルマの目は、ただ前を見据えていた。
揺らぐことのない歩み。
淡い街灯の光を浴びて、彼女の赤い髪が静かに揺れる。その色は、まるで内に秘めた決意を燃やすかのように、鈍く光を放っていた。
「エン……エリヴィア……」
低く呟く。
その声には、拭いきれない困惑と不安が滲んでいた。
しかし、それを凌ぐほどの決意がそこにあった。
肩に伏せるアルが、静かに尾を揺らし、カルマの腕にそっと触れる。
まるで「お前は一人ではない」と伝えるように——
遠ざかる足音。
街灯の淡い光の下、彼女の背中は静かに闇へと溶け込んでいった。
そして、次の瞬間——
その姿は夜の闇の中に、完全に消えていった。