9.おつるのかんざし
「──はぁッ、はぁッ! 勝てない……! あんなの、勝てるわけないよぉッ!!」
そこかしこで火の手が上がり燃え盛る堺の都で、桃姫は悲痛な声で叫びながら一心不乱に大通りを走り続けた。
「──逃げなきゃ……! 殺されるっ! 雉猿狗、ごめん──ごめんなさいッ!!」
桃姫は宿屋に置き去りにしてきた雉猿狗に対し、泣き叫ぶように謝罪の言葉を口にした。あまりの情けなさに目に浮かんだ涙を着物の袖で拭う。
そのとき──助けを求める女性の悲鳴が、大通りを走る桃姫の背中に向けて投げかけられた。
「──誰かぁッ……! 誰か、助けてぇっ!」
「……ッ──!?」
悲鳴を耳にした桃姫の足がピタリと止まる。通り過ぎた道を戻り、声の発せられた路地裏を恐る恐る覗き込んだ。
「──誰かぁ……! お侍様っ……! 会合衆の方っ……! 誰か……! ああ、お助けくだされぇっ!」
路地裏の奥で尻餅をつき後ずさりする女性に対し、後ろ脚で立ち上がったカブト型の鬼虫がジリジリと迫る光景を目にして、桃姫は息を呑んだ。
「っ……だめだ……だめだ、だめだ……今は逃げないと……」
桃姫は震える身体に言い聞かせるように呟きながら、"頭"の中で鬼虫に襲われている女性を"見捨てる"ことを考えた。
しかし桃姫の思考とは裏腹に、"心"はその行動を拒否し、右手に握りしめた仏刀〈桃月〉の柄にメキメキと強い力が込められていく──そして桃姫は、濃桃色の瞳をカッと見開いた。
「──ッ……ああァアアッ!!」
吠えるように大口を開けて叫んだ桃姫は、路地裏に向けて全力で駆け出す。両手で構えた〈桃月〉を後方に引き下げ、その切っ先を翅を大きく広げた鬼虫の肉々しい赤い背中に向けた。
「──桃ッ──心呀ァアアッ!!」
裂帛の声とともに突き出された桃姫渾身の一撃──身体に溜め込んだ爆発力が一斉に解き放たれ、怒涛の突風を巻き起こしながら鬼虫の背後に鋭い渦となって迫った。
「グッ──!? ギュ……ピッ!」
ドンッ──という鈍い破裂音とともに、鬼虫の背中に〈桃月〉の刃が深々と突き刺さる。
己の身体にいったい何が起きたのか理解できないまま断末魔の鳴き声を発した鬼虫は、節足で身体を支える力を失ってその場にしゃがみ込むように崩れ落ちると、赤い複眼から光を失って絶命した。
「ハァッ……! ハァッ……!」
桃姫は〈桃月〉を鬼虫の背中からズッと引き抜くと、左手で胸を押さえ、暴れ狂う心臓の鼓動を落ち着かせるために激しい呼吸を繰り返した。
「……あ、ああ……」
動かなくなった鬼虫を見ながら戦慄の面持ちで弱々しい声を漏らした女性は、鬼虫の脇から姿を現した少女と目を合わせた。
「……逃げてください……早くッ……」
「……あ、嗚呼アア──」
苦悶の表情を浮かべた桃姫が女性に向かって告げると、女性はよろよろと立ち上がり、悲鳴を上げながら一目散に桃姫の前から走り去っていった。
桃姫はその女性の背中を黙って見送った──自分も走り出したいのは山々だったが、心臓の激しい鼓動がそれを許さなかった。
「……くっ──お願いだから……静まって……」
"桃心呀"──桃姫が雉猿狗との半年におよぶ剣術稽古の成果として生み出したこの技は、突風すら巻き起こす爆発力を持つが、まだ成長過程にある桃姫の身体に大きな負荷をかけ、体力を根こそぎ奪う諸刃の剣であった。
鬼から逃げているこの状況で、絶対に使ってはならない大技であることは桃姫も重々承知していた──しかし"頭"でそう理解していても、"心"が窮地に追いやられた女性を救うために放ってしまったのであった。
「──あらァ……お礼くらい、言えばいいのにねェ……?」
そんな桃姫の"心"からの行動を嘲笑うかのように、背後から妖艶な声が投げかけられた。
「──でも人助けってね……そんなものなのよ、桃姫ちゃん」
「……ッ」
桃姫は額から流した汗を地面にぽたりと落とすと、ゆっくりと声の主に振り返った。
燃える大通りに立つ鬼蝶──にんまりとした残忍な笑みを浮かべながら、大通りから路地裏へとしなやかに足を向ける。
「……う、うう……ッ!」
赤い"鬼"の文字が光る鬼蝶の黄色い瞳を見た桃姫は、あまりの恐怖に声を漏らしながら後ずさりし、背後に横たわる鬼虫の死骸にぶつかって盛大に尻餅をついた。
「ん──? あーはっはっはっ!! なァっさけないッ! なーに、そんなに私のことが怖いわけェ?」
「……くるな……くるなぁっ!」
左目から炎を噴き上げながら高らかに笑う鬼蝶に対し、桃姫は〈桃月〉の柄を両手で握りしめ、切っ先を向けながら叫んだ。
「ふふふ──虫ちゃんを一撃で仕留めたから、いったい何をしたのかと思ったけど……ただの偶然──だったみたいねェ」
鬼蝶は言いながらカラン、コロンと赤い鼻緒の黒い下駄を鳴らし、一歩一歩桃姫に近づいてくる。
「──ねェ、桃姫ちゃん? 私が鬼になってからこの十年で、いったいどれだけの人を殺してきたと思う……?」
鬼蝶は恐怖に震える桃姫に対し、笑顔で問いかけた。
「──そうねェ、今日だけで三百人は殺したから……合わせて三千は下らないんじゃないかしら」
鬼蝶は桃姫の前で立ち止まると、燃える左目で怯える顔を見下ろしながら赤い唇をにんまりと開いた。
「もちろん……あなたの母上も、その中にいるのよ──♪」
「──嗚呼アアッ!!」
鬼蝶の言葉を受けて、桃姫は固く目を閉じて絶叫した。身体の芯から沸き起こる激しいふるえが治まらず、ただ〈桃月〉の切っ先を鬼蝶に向けて耐えるほかなかった。
「私ね、あなたをとっても殺したいのだけれど……どうやら巌鬼が、あなたを殺してほしくないみたいなのよ……ああ、巌鬼っていうのは──桃太郎を殺した鬼の名前ね」
「ッ……あ、ああっ……!」
鬼蝶が困ったように頬に指を当てて言うと、桃姫は目を開けて大粒の涙をあふれ流した。
「それに行者様も、桃太郎に対してなにやら思い入れがあるみたいで……娘のあなたを殺すのを躊躇しているのよ。はァまったく、鬼ヶ島の男たちには困ったものよねェ」
鬼蝶は、影が差した濃桃色の瞳からポタポタと涙を落とす桃姫の顔を見下ろしながら、黄色い鬼の瞳を嗜虐的に細めた。
「だから、私は考えたの。あなたを怒らせて私に斬りつけてきたところを反撃すれば……これは"正当防衛"になるから、巌鬼も行者様も納得せざるを得ないんじゃないかってね……なァのに、このざまよ──どうしたのよ、泣き虫桃姫ちゃん」
桃姫に対して、吐き捨てるように投げかけられた鬼蝶の言葉。桃姫がふるえる両手で握る〈桃月〉の切っ先は、すでに力なく地面に向かって垂れ下がっていた。
「──はァ。まぁ、あのふたりには後で謝ればいいわよね……あなたたちのお気に入りの"玩具"、壊しちゃってごめんなさァいってね──あははははッ!!」
鬼蝶は開き直ったように言って笑うと、自身の顔の前に右手を突き出し、ズズズと黒く鋭い鬼の爪を指先から長く伸ばした。
「──桃姫ちゃん、特別に死に方を選ばせてあげてもいいわよ……炎に包まれて死にたい? それとも切り刻まれて死にたい? ねェ、どちらで死にたい?」
「……う、うう……」
炎を噴き上げる左目と黒く鋭い鬼の爪を重ねながら、嗜虐的な笑みを浮かべて問いかける鬼蝶に対し、心が恐怖に支配された桃姫は弱々しい嗚咽を漏らすことしかできなかった。
「ねェッ聞いているのよッ!! どちらで死にたいかってッ!! さっさと答えなさいなッ──!!」
怯える桃姫にしびれを切らした鬼蝶が怒号を発しながらしゃがみ込むと、桃姫の眼前に顔を近づけてギンと睨みつけた。
そのとき、ふるえる桃姫の瞳が鬼蝶の左耳を見た。
「……っ!?」
桃姫は瞠目した。鬼蝶の左耳の上に挿された赤いかんざし──それは紛れもなく、おつるのかんざしであった。
桃姫より二ヶ月早く14歳の誕生日を迎えた"大親友"のおつるに対し、桃姫が愛情と友情をふんだんに込めて贈った赤いかんざし。
「……なんで、鬼が、つけてる──」
「──あン……?」
低い声で唸るように告げた桃姫。その暗い濃桃色の瞳にグググと怒りの赤みが増していくさまを見て、鬼蝶が眉をひそめた。
「──なんで鬼が……おつるちゃんのかんざしを、つけてる……ッ──!」
「ん……ああ……"これ"のこと──? ふふふ」
桃姫の言葉の意味をようやく理解した鬼蝶が笑みを浮かべながら立ち上がると、左耳の上、深緑色の髪に挿した赤いかんざしに鬼の爪の先でカツンと触れた。
「──おつるちゃんねェ……鬼になるの、イヤだったみたい──」
「……ッ」
鬼蝶の言葉を耳にした桃姫は、開いた口から怒りにまみれた熱い息を吐いた。
「──せっかく、私の手下にしてあげようと思ったのに……可哀想なおつるちゃん──死んじゃった」
「ッ──!?」
"大親友"の死をあっけらかんと告げる鬼蝶の言葉を聞いた桃姫は両目を大きく見開いた。もはや涙はこぼれず、激しくふるえだした体は、恐怖からくるものではなかった。
「あーあ。生きてれば、鬼女になった姿で桃姫ちゃんと感動のごたーいめーん……なァんて、お涙頂戴モノの展開になったかもしれなかったのにねェ……愚かなおつるちゃん──」
「──わけないだろ」
わざとらしく首を横に振って残念がる鬼蝶の振る舞いを睨みつけた桃姫は、激しい怒気の込められたふるえる声を発した。
「──なるわけないだろ……ッ!!」
「……何?」
「──おつるちゃんがッ!! 鬼になんかなるわけないだろォオオッ!!」
桃姫は怒号を上げて勢いよく立ち上がると、右手に握りしめた〈桃月〉の刃をブォンッと鬼蝶の喉元めがけて斬り上げた。
「……ウァっ──」
完全に油断していた鬼蝶は、予期せぬ斬り上げに危うく顔面を縦に斬り裂かれそうになるが、咄嗟にうめきながら鬼を殺す銀桃色の刃をかわす。
しかしその切っ先は、鬼蝶の左耳を掠めると深緑色の髪を斬り、おつるの赤いかんざしを宙空に打ち上げた。
「──虫も殺せないようなおつるちゃんがッ!! 鬼になんかなるわけないだろってッ!! そう言ってるんだよッ──!!」
濃桃色の瞳をカッと見開き、激怒にふるえる桃姫が咆哮するように叫ぶと、カラカラと音を立てながらおつるのかんざしが地面に落ちる。
桃姫はおつるのかんざしを左手で拾い上げると、亡き"大親友"への想いを込めて力強く握りしめてから、腰帯の中に仕舞った。
「……何よ、この娘……ちょっと……危ないじゃないのよ……」
「──謝れよッ……!! 今すぐおつるちゃんに謝れよッ──!!」
全身から白銀色に光り輝く"殺気"の波動を放ち始めた桃姫。鬼蝶は恐ろしいまでの気迫に圧倒されながら、一歩二歩と後ずさるのであった。