4.討ち取ったり
「殺してくれるわ! 桃太郎ッ!」
鋭い爪が煌めく太い両腕を広げ、真正面から向かってくる桃太郎に叫んだ温羅。
桃太郎は全力で走った勢いそのまま、トンッと石畳を蹴り上げて跳躍すると〈桃源郷〉の刃を光らせて、温羅の眼前に迫った。
「グルラァアアッ!」
咆哮を張り上げた温羅は、目障りな蝿を叩き落とすように桃太郎の胴体めがけて鬼の右腕を振るった。
しかし、ここぞとばかりに振るわれた鬼の右腕は空を切った。
「ぬぅッ!?」
大振りの攻撃を外した影響で体勢を崩した温羅は、咄嗟に頭上を見やった。視線の先には、翼を大きく広げる緑雉の脚に掴まり、上空を飛翔する桃太郎の姿があった。
緑雉の脚から手を離した桃太郎は、裂帛の声を発しながら〈桃源郷〉の切っ先を温羅の脳天に狙い定める。
「──ヤェエエエエッ!!」
高速で迫る桃太郎を睨みつけた温羅は、反射的に両腕を頭上で交差させ、桃太郎の体重が乗った仏刀の一撃を受け止めた。
「ぬぐふゥッ──!!」
聖なる刃が肉を斬り裂き、温羅が今までに感じたことのない激痛が両腕に駆け抜け、噛みしめた牙の隙間からうめき声が漏れ出た。
筋肉の塊とも呼べる太い両腕、さらにその中心にある鉄棒のように堅固な二本の骨までを〈桃源郷〉は刺し貫いた。
しかし、温羅の黄色く濁った眼球を切っ先が突く寸前で刃の動きはピタリと止まった。
「──ちッ!」
舌打ちした桃太郎は温羅の反撃がくる前に太い両腕に足をかけて踏ん張り、深々と突き刺さった〈桃源郷〉をズボッと引き抜いた。
ブシャと黒い血が噴き上がって桃太郎の顔にかかったが、動じることなく飛び跳ね、石畳の上に着地した。
「グぬウウッ! 人の身でありながら、何という芸当を……ッ!」
苦悶の表情を浮かべた温羅は、両腕に穿たれた穴から噴き出す黒い血を止めるため、腕に力を込めた。
「ふんぬッ!」
気合を込めて一息発すると、張った筋肉がモリモリと隆起して穴を塞ぎ、またたく間に止血した。
だが、仏刀によって骨に穿たれた穴までは治すことはできず、温羅はジリジリと焼け焦げる痛みに顔を歪めた。
「鬼を殺すこの痛みッ! 貴様ッ! その仏刀、どこで手に入れたッ!」
温羅は距離を取った桃太郎が両手で構える仏の加護を受けし聖なる刃〈桃源郷〉を睨みつけて叫んだ。
「今から退治される鬼がそんなことを知ってどうする……地獄への土産話にでもするつもりか」
桃太郎は言いながら、ほんの一瞬、わずかに視線を持ち上げた。そのちょっとした動作を温羅の鬼の目は見逃さなかった。
滑空音もなく、緑雉が急降下する。脚にくくりつけられた小刀の切っ先を温羅のうなじに向けて。
「言うじゃねぇかよ……この温羅様が──同じ手を食らうと思うたかァッ!」
咆哮した温羅は天に向かって右拳を突き上げた。その鬼の拳は、小刀を粉砕し、緑雉の胴体をも殴り貫いて粉砕した。
緑雉は開かれた黄色いくちばしから鮮血を吐き出しながら甲高い鳴き声を上げると、飛ぶ力を失って石畳の上にドサッと落下した。
「ッ……キジィ!?」
「──鳥の心配なんざッ! してる場合じゃねぇだろォッ!」
絶命した緑雉に桃太郎が叫ぶのと、全速力で駆け出した温羅が眼前に迫ってきたのは、ほぼ同時だった。
体勢を低くして、まるで岩石が山の頂きから落下するような猛烈な速さで温羅は桃太郎に急接近した。
「──捕まえたァアアッ!」
「ぐッ──!?」
温羅は嬉しそうな声を上げて桃太郎の胴体を拘束すると、万力のような怪力で握りしめ、自身の顔の高さまでその体を持ち上げた。
「ぐぁああッ!!」
桃太郎は太い鬼の両腕による強烈な圧迫によって一瞬で白目を剥くと、声にならない声で絶叫した。
体内の酸素が吐き出され、温羅はさらにキツく締め上げながら満面の笑みを浮かべる。
「鬼の領域でずいぶんとォ! 好き勝手やってくれたじゃねぇか!? オィイイッ!!」
「がッ、ガあッ!! がああッ!!」
温羅の嗜虐的な嘲笑が込められた声。桃太郎は鬼ヶ島の赤い虚空に向けて絶叫した。
桃太郎が声を上げる度に、温羅の両腕がさらに隆起して膨れ上がると、圧迫された体の節々からミシミシと嫌な音が響いた。
「命一つ潰した程度で、この温羅様に勝てると思うたのがッ! 大間違いよォッ!!」
圧倒的に有利な温羅の状況である。しかし、温羅は困惑していた。
温羅は最大限の力を発揮したが、桃太郎は白目を剥き、叫び声を上げるだけで絶命することはなかった。
「並みの人間であればッ! とうにへし折れるというに! ふンぬッ!!」
骨に穴を穿たれた影響かと温羅は考えたが、それだけではない。
この桃太郎という若い男の肉体には、根本的に何か常軌を逸した"超常なる力"が宿っていることに気づいた。
耐え難い痛みは感じているようだが、一向に死ぬ気配がない──これはいったいどういうことだと、温羅は両腕の力を緩めた。
「この圧迫にも耐えるか……貴様、いったい何者だ」
両腕に力を込めすぎて疲れすら感じてきた温羅はそう口にすると、桃太郎の顔を己の眼前に近づけた。
そして、少しでも桃太郎の正体を暴かんがため、鼻を鳴らしてその匂いを嗅いだ。
「桃太郎──なるほど。その名の通り、桃の匂いがするか。そうだな、確かに……ただの人間ではないようだ」
桃色の頭髪に鼻を突っ込んだ温羅は注意深く匂いを嗅いだ。ただの桃の匂いではない。何か、この世ならざる蠱惑的な桃の香りなのである。
このまま嗅ぎ続けるのは鬼ヶ島の首領としてまずいことになると本能的に感じ取った温羅は、桃太郎の頭髪から顔を離した。
「貴様と三獣に大勢の鬼が殺された……だが、鬼はまた増やせばよい。俺さえ生き残っていれば、鬼ヶ島は何度でも蘇る」
温羅は熱くなりすぎた呼吸を整えてから、白目を剥いた桃太郎の顔を至近距離で睨みつけた。
「貴様が何者であるか……俺の秘密を知る御師匠様とやらのこと……気になることは多いが……だが、いずれにせよ」
「う……うう」
苦痛が途切れたことにより、意識を取り戻し始めた桃太郎の白目が濃桃色の瞳に転じる様を見た温羅は、憤怒の形相を浮かべた。
「──俺の勝ちだァッ!!」
「ガァああああッ──!!」
温羅は溜めに溜めた鬼の力を解き放ち、鬼の爪すらも鋭く立てて、桃太郎の体を渾身の力で圧迫する。
「──侵略者・桃太郎ッ! いさぎよく死ねェエエイッ!!」
温羅が桃太郎にのみ、全神経を注いだ──この瞬間こそを茶猿は待っていた。
脇差〈桃月〉を小さな両手で担いだ茶猿が石畳を走り、温羅の背後にひそかに迫る。音もなく飛び上がると、銀桃色の刃を温羅の左肩にドスッと叩き込んだ。
「ッ!? ぬアアッ!?」
突如として左肩に走った焼ける痛み。温羅は驚愕の声を発しながら桃太郎を手放し、振り向きざまに背中に取りついた茶猿めがけて猛烈な裏拳を叩き込んだ。
「ギッ!!」
温羅の裏拳をもろに食らった茶猿は、甲高い悲鳴を上げると石畳に強かに体を打ちつけながら、広場の端へと転がっていく。
「ッ……!」
その瞬間、桃太郎は意識を取り戻した。眼前に晒された温羅の無防備な背中──その左肩に突き刺さった〈桃月〉の柄を睨みつける。
即座に起き上がると、石畳を蹴りつけ、全力で跳躍して飛びかかった。
「ぬッ!? ぐッ……!? やめろ、桃太郎ォッ!!」
自身の背中に取りついた桃太郎に気づいた温羅。叫びながら巨体を振り回すが、桃太郎は〈桃月〉の柄を両手で掴むことに全身全霊を注いで応戦した。
「──悪鬼・温羅ッ!! 討ち取ったりィイイッ!!」
全身から白銀の波動を迸らせた桃太郎が、瞳の波紋を花ひらかせ、白銀色に光り輝かせながら天に向かって勝鬨の声を張り上げた。
全体重と全膂力を〈桃月〉に乗せ、鬼を殺す銀桃色の刃を勢いよく引きずり降ろし、温羅の心臓を真っ二つに切断する。
「ギヤアアアアッ──!!」
両腕を大きく広げた温羅は、壮絶な断末魔の絶叫を張り上げながら、心臓から噴出する黒い鬼の血を天高く飛ばし、黄色い眼球をグルンと上に向けた。
そして、〈桃月〉の柄を掴む桃太郎を背中に乗せ、仁王立ちしたまま息絶えた。
「……やっ、た」
全身にうねらせていた銀色の波動を霧散させた桃太郎は、〈桃月〉の刃を温羅の心臓から引き抜きながら、そのまま石畳の上に倒れ込んだ。
桃太郎は広場に点々と転がる八天鬼と三獣の亡骸を見回しながら、ふるえる声で言った。
「……やったんだ」
よろよろと立ち上がった桃太郎は、三獣の亡骸を一体一体、丁寧に拾い上げて広場の中央に並べると、その前に正座して涙を流した。
「……みんなで、やったんだ」
桃太郎はひざの上で握りしめた両手をふるわせ、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら三獣に勝利を報告した。
「……みんな……ありがとう」
桃太郎は頭を下げて三獣の亡骸に心からの感謝を伝えた。涙で濡れた顔を腕で拭った桃太郎は、二振りの仏刀を両手で固く握りしめた。
ゆっくり立ち上がると、広場の奥にそびえ建つ漆黒の鬼ノ城を見上げる。
「そこで、待っていてくれ……私にはまだ──"殺ること"があるから」
冷たい声で呟いた桃太郎は、白銀の波紋が宿る濃桃色の瞳に暗い決意の色を浮かべた。
「これより桃太郎──修羅に入る」
三獣の亡骸に背を向けた桃太郎は、鬼を殲滅する覚悟とともに、鬼ノ城の大扉へと歩き出すのであった。