3.招来、八天鬼
「──アラ・メラ・グラ・ハラ・ガラ・ヌラ・ゼラ・ネラ──」
温羅の不気味な詠唱が突如として広場全体に響き渡ると、石畳の亀裂が妖しく光り始め、桃太郎の背筋に寒気が走った。
紫色をした怪光が広場の中央に八重の円を描いて光り輝くと、八方向に迸り、石畳に刻まれていた鬼文字を次々に浮かび上がらせる。
「これは……鬼の名だ」
辺りを見回して紫光する八つの鬼文字を確認した桃太郎は、温羅が詠唱する言葉の意味に気づいた。
「──荒羅・滅羅・愚羅・波羅・餓羅・怒羅・絶羅・燃羅──いでよッ! 八天鬼ィイイッ!!」
温羅の雄叫びを合図にして上空で雷鳴が轟くと、天から八本の紫光する稲妻が降り注ぎ、八つの鬼文字それぞれに命中する。
稲妻が命中した鬼文字が桃太郎の目をくらませるほどの閃光を放つと、鬼文字の上に巨影が浮かび上がった。
巨影の正体は八体の大鬼。それもただの大鬼ではない。鬼ノ城にたどり着くまでに退治してきた鬼とは明らかに異なる屈強にして強靭な鬼であった。
「こいつらが八天鬼……御師匠様の言われたとおりだ」
周囲に顕現した八天鬼の姿を見回した桃太郎は静かに呟きながら白鞘にそえた右手に力を込める。
三獣も三方向を向いて、取り囲むように現れた八天鬼に対して唸りを発しながら睨みを効かせた。
「日ノ本各地に散らばっておった特級の鬼・八天鬼を──今ここ、鬼ヶ島に招来した」
声とともに鬼ノ城の大扉が勢いよく左右に開かれると城内から毒々しい紫色の肌をした隆々たる筋肉を持つ大鬼が姿を現した。
大鬼は、円陣を成す八天鬼の背後に仁王立ちすると、不敵な笑みを浮かべた。
「鬼ヶ島首領・悪鬼温羅。ようやく姿を現したな」
桃太郎が告げる。広場の右側に四体の大鬼、左側に四体の大鬼、そして鬼ノ城の前に立つ温羅。
計九体の大鬼が桃太郎一行を包囲しているこの絶望的な状況下にあって、桃太郎は冷静だった。
「桃太郎、よいことを教えてやろう。城外の鬼はすべてが雑魚──この八天鬼こそが鬼ヶ島の主力。歴戦の大悪鬼どもよッ!」
温羅が丸太のように太い腕を広げて吼える。その両手には鋭い黒爪がギラリと光り、温羅が武器を持たない理由が否応なしにわかった。
己の肉体こそが凶器である温羅の雄叫びに呼応して、桃太郎一行を取り囲む八天鬼もそれぞれに唸り声や笑い声を上げた。
「これですべてか……特級の鬼は、お前も含めて九体、そうだな」
「ハッ! 今から死ぬ者がそんなことを知ってどうするよ、桃太郎!」
温羅は鬼特有の黄色い瞳をこれでもかと大きく見開き、桃太郎の問いかけを一笑に付した。
「……では、城内にいるのは」
「城にいるのは俺たちの"女"よ──そして、鬼ヶ島の次代を担う子鬼ども! 貴様を通せぬわけが俺にもあるのよッ!」
桃太郎は温羅の背後、鬼ノ城を見上げながら問いただす。それに対して温羅は牙を剥き出しにして叫んで返した。
「俺たちの女だと……もとは日ノ本各地からさらってきた、罪なき村娘だろうに」
桃太郎は鬼ノ城から視線を下げると、城を護るように仁王立ちする温羅を嫌悪の眼差しで睨みつけながら告げた。
「鬼ヶ島のモノを食べ、鬼ヶ島で暮らすことによって人は鬼になると聞いた……そしてもう人には戻れないと」
「そうよ! 今では立派な鬼女だ! 子鬼を産み育て! ともに人間どもに対する残虐を味わう! 立派な鬼ヶ島のはらからよ!」
「抜かすなッ……外道が!!」
温羅が発する言葉の数々に対して、桃太郎は激昂すると、強い憤怒を込めて叫んだ。
「外道で結構ッ! それが我ら鬼の性分よッ!!」
「──悪鬼・温羅ッ!! 死すべしッ!!」
分厚い胸板を張りながら悪びれることなく声を張り上げた温羅に対して、桃太郎は〈桃源郷〉を白鞘から引き抜きながら怒号を発した。
「その刃ッ! 鬼を殺したのはその刀だなァ!」
桃銀色に光る刃をひと目見て、鬼の心臓を穿つ仏刀と見抜いた温羅は八天鬼へ発破をかける。
「八天鬼ども油断するなッ! 全員で桃太郎に取りかかるのだッ!!」
温羅の号令と同時に武器を構えた八天鬼は一斉に駆け出した。桃太郎はそれらを睨みつけながら小さく口を開く。
「……もっと近づけ──悪鬼ども……」
広場の中央へ迫ってくる八天鬼──次の瞬間、桃太郎は〈桃源郷〉の切っ先を天高く掲げて、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「今だイヌッ!! やれぇええッ!!」
「──アオォォオオオオンッ──!!」
雄叫びと遠吠えが広場全体に響き渡る。曼荼羅模様の青い法衣が黄金に閃くと、白犬の全身から稲妻が迸った。
稲妻は激しい音を立てながら赤い空へと一直線に駆け昇っていく。
「なんだ……!?」
黄金の稲妻が打ち上がった空を見上げて温羅が声を上げる。八天鬼も足を止め、何事かと空を見上げた。
一瞬の沈黙──まるで何事も無かったかのような静寂が広場を包むと、赤い霧が覆う鬼ヶ島の空が黄金に輝き出した。
──ドドドドドッ──!!
霧の中を幾本も走る稲光とともに太鼓のような雷鳴が轟くと、一本の"極光"が白犬目掛けて降り注いだ。
爆ぜるように九つへ分かれた極光の稲妻は、猟犬のごとき速さで八天鬼と温羅のもとへ迫る。
「まずい……ッ!」
いの一番に叫んだのは、白犬に最も接近していた餓羅であった。身軽な餓羅は八天鬼の中でも俊敏性に自信がある鬼である。
自身に向けて飛来する極光の稲妻から逃げようと即座に身をひるがえしたが時既に遅し──。
稲妻は黄土色の背中から体内に入り込むと、鬼の心臓を刺し貫いた。
「──嘘だろッ!? ギァアアッ!!」
その光景を見た他の八天鬼は、自身に向けて迫りくる極光の稲妻に視線を戻す。
「──ぬゥッ!」
紺碧色の肌をした波羅は得意の水の鬼術を用いて、前方に突き出した両手のひらに分厚い水盾を形成した。
しかし、極光の槍はいとも容易く貫通すると左手の中に侵入し、そこからさらに突き進んで鬼の心臓に突き刺さった。
「──グガァアアッ!!」
波羅は初めて味わう激痛に黄色い鬼の目をひん剥きながら断末魔の声を張り上げる。
八天鬼の中でもひときわ筋肉量の多い朱肌の荒羅に飛来した稲妻は、槍ではなく手の形となって左胸に突き刺さった。
太い血管を額に浮かべた荒羅は、鉄板のような分厚い両手で稲妻を掴むと、咆哮を発しながら引きちぎって破壊しようとする。
「──グラァアアッ!!」
しかし、それよりも早く極光する手は鬼の心臓を締めつけて容赦なく握り潰した。
白犬の体から伸びた九本の極光の帯は、次々と着実に鬼の心臓を仕留めていった──それは温羅とて例外ではなかった。
「──ぐ……グゥウウッ!! グガッ、ガガアアッ……!?」
広場の石畳に片膝をついた温羅は、苦悶の表情を浮かべなら自身の心臓を抑えて、牙の間からよだれを垂らしながらうめいた。
「貴様ッ……! 貴様の犬……ッ! いったいなにをしやがったァ……!!」
温羅以外の特級鬼はすべて絶命して倒れ伏している広場。温羅だけが桃太郎を憤怒の形相で睨みつけて低い声を発した。
桃太郎はしゃがみ込むと、冷たい石畳に四肢を投げ出しながら目を閉じて倒れる白犬の頭を愛おしそうに撫でた。
白犬の体からまたたく間に体温が失われていき、尊いその命を完全に使い切ったのだと桃太郎の手のひらに伝えた。
「イヌ……お前の命、決して無駄にはしない」
桃太郎は白犬の頭から手を離して静かに立ち上がる。そして、まだ生きている温羅の姿を見やりながら口を開いた。
「……御師匠様のおっしゃられたとおりだな」
桃太郎の言葉を受けて、温羅の顔が憎々しげに歪んだ。
「おししょう……だとォ!?」
「悪鬼温羅、お前は命を二つ持っている。それゆえ、お前だけは"二度"殺さねばならない」
「ッ!? な……なぜ、俺の秘密を!?」
温羅が驚愕する中、桃太郎は〈桃源郷〉を両手で構えると、全身から白銀の波動を放ちながら静かに口を開いた。
「……私が、"ただの獣"を率いて鬼ヶ島にやって来たと思ったか?」
桃太郎は静かに、しかし力強い熱を込めて温羅に向けて言葉を発した。
「このイヌは、ただの犬ではない──自らの命と引き換えに鬼に殺された数だけ鬼を殺す力を持つ、恐山の大イタコが飼っていた霊犬である!」
桃太郎は告げる。温羅は八天鬼を一度に葬った恐るべき白犬の亡骸を睨みつけた。
「このサルは、ただの猿ではない──鬼に殺された者を蘇らせる力を持つ、高野山の大僧正が飼っていた祈り猿である!」
桃太郎はさらに告げる。茶猿は事切れた白犬に寄り添うと、その体を慈しむように優しく撫でた。
「このキジは、ただの雉ではない──鬼の急所を的確に攻撃する力を持つ、武田軍の大将軍が飼っていた戦雉である!」
三獣の名誉を代弁した桃太郎の声は広場中に響き渡り、呼応するように緑雉がケェンと高らかに鳴きながら翼を大きく広げて天高く飛翔した。
「そして、私の名は桃太郎──鬼ヶ島に巣食うすべての悪鬼を退治する者だッ!!」
桃太郎は盛大に名乗りを上げると、残る一つの命を斬り捨てるため、鬼ヶ島の首領・悪鬼温羅に向けて駆け出すのであった。