第二章 (1)〈双璧の監視者〉
白い吐息が夜空に昇って尾を引くようにして消えていく。ぼうとそれを見送り、ポケットに突っ込んでいた携帯電話を引っ張り出して時間を確認する。
もう夜の八時だ。いつもなら自室でのんびりしているはずなのに、今日は冷え込んだ空気にさらされている。鼻頭がじんわりと熱を帯びており、さぞ真っ赤になっていることだろう。
ちくちくと刺さってくる前髪を鬱陶しく思い、ピンを取り出して寄せていると玄関が開き、真宵後輩が現れた。
ラフな格好ではあるが防寒対策は万全のようだ。
「こんな遅くに悪いな。迷惑だっただろう?」
「いいえ、これといってやることもありませんでしたから」
言いながらしゃがめとゼスチャーをしてきた。首を傾げつつ従って真宵後輩に高さを合わせる。
すると真宵後輩はピンを外し、つけ直し始めた。どうやらうまくできていなかったらしい。目の前で小ぶりな胸が揺れるのを堪能しながら、手直しが終わるのを待つ。
「はい。これでいいです」
「サンキュ」
軽やかな足取りで下がった真宵後輩にお礼を告げる。
ちょっと惜しいがあんまり直視しすぎると真宵後輩に咎められるかもしれない。ただでさえ疲労が限界なのだ。さすがに受け止めきれない。
どちらからともなく歩き出し、たった今やってきた道を辿る。
「あの二人が来たというのはほんとうなんですか?」
切り出された話に「ああ」と投げやりに答える。
その言葉にいかほどの疲労感がにじみ出ていたか自分ではわからなかったが、真宵後輩にお疲れ様と労られるほどらしい。
つい嘆息してしまう。
「帰ったら部屋にいやがったんだよ。敵かと思って気絶させちまった」
「妥当な処置ではないですか? 私としてはそれでも手緩いと思いますけど」
「お前にやらせたら大惨事になんだろうが」
容赦することを知らない真宵後輩のことだ。同じことをやられたら、想像するのも恐ろしいことになるだろう。
実際、異世界では暗殺者を――やめよう。思い出すだけで身震いが止まらなくなる。
「それでどうして私を?」
「あれを俺ひとりでどうにかしろっていうのかよ。無理だぜ。ぶっちゃけああいう騒がしいタイプは苦手なんだよ」
「私は嫌いなのですが」
心底嫌そうに言う真宵後輩に乾いた笑みを送る。
「わかってるって。お前にはニーナの傍にいてもらいたいんだよ。あいつらがいると安心できねぇみたいでさ」
「そういうことですか」
納得いったと相槌を打つ真宵後輩。
ほんとうなら真宵後輩に追い出すのを手伝ってもらいたいのだが、厄介なことに翔無先輩の能力はテレポートだ。体力を無駄に浪費するだけで意味を成さないだろう。
それなら話を聞いた上で帰ってもらうのが手っ取り早い。
帰りたくねぇな、と思いながら気を紛らすように話し込むが、現実は残酷だ。むしろ楽しかったせいで行きより早く到着してしまった。
躊躇しながら帰宅すると再度ニーナが飛びついてきた。こうなるのは予想できていたので真宵後輩と一緒に抱きとめる。
「あ、おかえり兄ちゃん。真宵さんはこんばんは」
エプロン姿のつみれがひょこっと現れる。つみれは腰に両手を当てると、下から覗き込むようにして睨んでくる。
「お友達呼ぶなら早く言ってよ。夕飯足りなくなっちゃったじゃん」
「あ? 別にあいつらにご馳走してやる必要ねぇよ。話聞いたら帰ってもらうから」
「何言ってんのさ。生徒会の書類整理のために夜通しするんでしょ?」
「……なんのことだ?」
「雪音さん言ってたよ。新しく生徒会に入った兄ちゃんと親睦を深めるという口実で、溜まった書類の整理を押し付けるんだって。いやー、兄ちゃんが率先して生徒会に入るなんて驚いちゃったよ」
すでに外堀を埋められ、苛立ちのあまり舌打ちする。つうか泊まっていくつもりなのかよふざけんじゃねって。
「それでもだ。勝手に押しかけてきたヤツらにくれてやる飯なんて米一粒ねぇよ」
「作るのはあたしなんだけどなぁ」
やれやれ、とキッチンに戻っていったつみれを尻目に頭を抱えた。
「マジでふざけてやがる……」
「同感です」
しかしぼやいていても始まらない。ニーナを真宵後輩に任せて階段を上がり、話し声が聞こえる俺の部屋のドアを蹴破る。
すると意識を取り戻したらしい二人が部屋を物色する場面に遭遇した。
ぶちり、と俺のなかで何かが切れる音をたしかに聞いた。
「あ、おかえ――」
「てめぇらそんなに殺されてぇのかよ」
一足で詰め寄ると翔無先輩と火鷹のこめかみを挟むように掴むと、力を加えながら宙吊りにする。
「いだだだだだだっ! ちょ、こ、これはシャレにならないよっ!」
絶叫した翔無先輩はテレポートで魔手から逃げるが、そう簡単には逃がしてやらない。
火鷹をベッドに投げ捨てる。身体強化を施すと翔無先輩がテレポートで飛んだ位置に先回り。出現した瞬間、もう一度アイアンクローをお見舞いする。
「うえ!? うそでしょうおおおぉぉぉぉっ。ギブギブギブ――っ!」
「うるせぇ」
一刀両断。俺は翔無先輩の訴えを無視して続行する。
「人の部屋に勝手に上がり込んでさらに荒らして許してもらえると思ってんのかよ? おまけに妹に泊まるなんて言いやがってふざけてんのか。頭砕くぞ」
「ごめんごめん! 謝るからとりあえず離してもらえないかなぁ!? ボクだって仕方なくだったんだよぉ!!」
「そのわりには熱心にあさってたみてぇだが?」
「思春期の男の子が持ってる肌色の本がどこにあるのか見てみたく――」
五指を思い切り閉じる。頭蓋骨がみしりと軋む音が響いた。
じたばたと暴れていた翔無先輩の体から力が抜け、四肢がだらりと垂れ下がった。
気絶した翔無先輩をベッドに寝かせると、今度は火鷹に魔手を向ける。
「お前に選ばせてやる。素直に謝ってここに来た理由を話して痛みなく気絶するか、俺に尋問されて気絶するか。――どっちがいい?」
「……き、気絶は決定事項ですか?」
戦々恐々とした火鷹が自分も翔無先輩の二の舞になると想像してしまったのか、ベッドの隅まで後じさりながら体を震わせた。
「話してそのまま帰るってんなら見逃してやるよ。どうする?」
「……雪音さんだけで勘弁してもらえませんか?」
平然と先輩を売る火鷹に最上級の笑顔をくれてやる。翔無先輩が気絶したときでさえ表情ひとつ動かさなかった火鷹が「ひっ」と悲鳴、顔を真っ青にして戦慄した。
親指で首を掻っ切るゼスチャーを見せてやり、そして、
「却下だ。とりあえず寝とけ」
「……おやすみなさい」
***
「おかえりなさい。どうなりましたか?」
リビングに降りると、ニーナを膝の上に座らせる真宵後輩が振り向かずに訊いてくる。
凝り固まった肩を揉んでほぐしながら隣に腰を降ろす。
いつの間にか着替えている真宵後輩。俺が二階で彼女たちを気絶させている間にお風呂に入っていたらしい。結われていた髪はしっとりと湿っていて、柑橘系のさわやかな香りが鼻孔をくすぐってくる。
急に呼んだせいで着替えを用意できなかったのか、つみれから借りたらしいティーシャツを引っ掛けただけの格好だった。
しかもサイズが合わず胸元が大きく開いていて――!?
「お、お前……!」
うわずった声で立ち上がった俺は慌てて飛び退く。
「な、なんですか?」
風呂上りで火照った真宵後輩が顔を逸らしたまま訊いてくる。
俺の視線に気付いてか、もじもじと太股をこすり合わせ不安そうにしている。
着替えがないのだから、当然ながら下着なんてあるわけがなかった。
パーカーを脱いで投げつける。
「これ着てろ。そんな格好してたら風邪引くだろう。……あと、刺激的すぎんだよ」
「そ、そうですね。すみません。下着を用意するのを忘れてしまって」
「言わんでいい。急に行った俺も悪かったんだ」
「……先輩のえっち」
真宵後輩の呟きは聞こえなかったことにする。好きな女の子が扇情的な格好をしていたらどうしたって目が行ってしまうだろう。
よくわからずに首をこてんと傾げるニーナを撫でている間に、真宵後輩がパーカーをいそいそと着込んでいく。
「それでどうなりましたか? すごく騒いでいたみたいですけど」
「ああ。気絶させてきたからな」
「……先輩、一つ訊いてもいいですか?」
「え?」
その瞬間、真宵後輩の目から一切の感情が消えた。もともと希薄ではあったが完全なる無ではなかった。
しかし今の彼女の表情は俺をしても恐怖を煽られる。全身が総毛立ち、ありえない寒気が『氷天』の称号を有する俺を凍えさせる。
「その気絶させた人たちは、先輩の部屋で、先輩のベッドで寝ているのですか?」
「お、おう。さすがに床に放置するわけにはいかなかったからな」
「……そうですか」
真宵後輩はニーナを脇に退かすとソファから立ち上がる。俯いて表情は窺えないが、感じる雰囲気は不穏なものが立ち込めていた。
「少し用事を思い出しました。先輩のお部屋を掃除してきます」
「ちょっと待てぇ! 俺の部屋で何やらかすつもりだよ!」
「大したことではありません。ちょっと赤く汚してしまうかもしれませんが、構いませんよね?」
「構うわ!」
リビングを出て翔無先輩と火鷹の息の根を止めようとする彼女を後ろから羽交い締めにして食い止めようとするが、そんなものはなんのその。ずるずると引き摺りながら歩みを緩めることはない。
よく見れば彼女の虹彩が碧色に染まっている。こ、こいつ身体強化してやがる――!
「止めないでくださいっ。先輩の部屋でっ、先輩のベッドで寝ている人間を許すわけにはいかないんです」
「なんでだよ! 別にそれくらいいいだろう!」
「だめなんです。だめだから、その事実をもみ消すんです」
「意味わかんねぇよ!」
負けずと身体強化を施し、細身の胴体に腕を回すと彼女の軽い体を持ち上げた。
「なっ!? せ、先輩、なにするんですか。離してくださいっ」
「ばか言うな! そうしたら何しでかすかわかったもんじゃねぇだろっ!」
「大丈夫です。二人分の屍が出来上がるだけです」
「それのどこに安心できる要素があんだよ!」
リビングに連れ戻してソファに座り直させると、おろおろしているニーナを召喚して上に乗っけてやる。
まったく。いったい何が真宵後輩をここまで掻き立てるのだろう。
不機嫌そうに柳眉を歪ませる真宵後輩に思わず嘆息する。
「なんでそんなに怒ってるんだよ。俺なんかやったか?」
「……これだけ言っても先輩は気づいてくれないんですか」
「なんのことだ?」
「もういいです。先輩の鈍感」
真宵後輩はむくれたような表情で言い放つと、ニーナを抱きしめて顔を背けてしまった。二人とも恐ろしいまでの美人なので、そうやっていると周りが華やかになったように見える。
つうか鈍感って言うならお前の方だろう。
俺はわだかまる感情を押し殺すと、
「寝床はどうしたもんかな。真宵後輩はつみれの部屋でいいか? ニーナと一緒でも大丈夫だとは思うけど」
「あの二人を追い出して先輩の部屋で寝ればいいではないですか」
明らかな不満そうな響きが含まれているのを俺は見逃さなかった。これでも五年以上の付き合いがあるのだ。わかりにくい真宵後輩はのご機嫌も俺にかかれば百発百中だ。
……不機嫌になる原因は一切わからないけど。
「あの二人ってたぶん白波先輩が寄越してきたんだと思う。『組織』が俺たちを狙ってくる可能性がある以上、下手に追い出したりすると面倒なことになりそうなんだよなぁ」
アウルや翔無先輩だけで『組織』の戦力を推し量るのは早計だろう。能力者を統括する機関に所属するメンバーがああも簡単に退けられるようではたかが知れる。おそらく彼女たちは末端に位置している。
ディクトリアの一件はことがことなだけに、記憶消去の能力を持つアウルだけに任されたが、彼女が手練であれば補佐として何人か引き連れていたはずだ。しなかったのはやはり、ディクトリアを相手取りながら身内を制御する力がなかったからだ。
俺たちが誘いを拒絶して敵として認定された場合、排除するために強力な能力者を多く投入される可能性は限りなく一〇〇パーセントに近い。
なにせディクトリアという『組織』でも情報が厳重に管理されていた能力者に勝利を収めてしまったからだ。
ほとんど力を失っている俺たちが情報もなしにかち合うことになれば敗北は必至だ。
真宵後輩に、もう無茶はさせられない。
「ふむん。それでは仕方ありませんね。では先輩はどうするんですか?」
「俺は毛布一枚ありゃあどこだって構いやしねぇよ。ソファにでも寝ればいい話だし」
異世界ではベッドどころか毛布だってなかったのだ。敵が彷徨く森のなかで火を炊いて寝ずの番なんて日常茶飯事だったし、いざ横になっても石ころが転がって背中が痛くてやすめたものではない。まともな寝床があるだけでも十分だ。
「だめです」
「いや、だめだって言われても」
俺に一緒の部屋で寝ろとでも言うつもりか。
「先輩がここで寝るのでしたら私もここにします」
「別に無理しなくてもいいんだぞ? つうか……」
どうやったってソファに三人は無理だろう。
「無理なんてしていません。……それとも、先輩は私と一緒は嫌なのですか?」
上目遣いで不安そうにして真宵後輩は訊いてくる。……それは卑怯だろう。
俺は両手を挙げた降参のポーズで「好きにしてくれ」と告げる。
「じゃあソファは無理だから雑魚寝でいいな?」
「はい。問題ありません」
たしか使ってない布団がクローゼットに入ってたはずだ。春休みうちはつみれの友達がよく泊まりに来ていたので引っ張り出してきたのを突っ込んだ記憶がある。
リビングを出た俺の後ろを真宵後輩とニーナが当然のようについてくる。
「なんでついてくるんだ?」と訊けば「手伝うからですけど」と即答された。ニーナもそのつもりらしい。
こうしてとりとめのない会話をしながら、寝る支度を済ませて、夜が更けていった。




