第一章 (4)
屋上に続く階段を上がりきりドアを開ける。照りつける日差しについ目を細めた。
落下防止のフェンスに囲まれた空間をぐるりと見渡すも真宵後輩の姿はどこにもない。いつもなら俺が到着する前にやってきているのだが、珍しいこともあるものだ。
アウルも用事があるからと今日は一緒ではない。
俺は定位置に腰を下ろし、ぼんやりと太陽を見上げる。
昼食はいつの間にか真宵後輩に作ってもらうのが当たり前になっていたから、こうして彼女が俺より遅いとお預けを食らうということに今さら気づいた。
これから俺より遅いなんてことはめったにないとは思うが、いつまでも真宵後輩に頼りきりというわけにもいくまい。少しは自分で作る努力をしてみようか。
そのためにはまず、つみれに台所の出禁を解除してもらわなければならない。
……しょっぱなから厳しいな。
あの賢妹は俺にとにかく家事をやらせたがらないのだ。
掃除はできないくせになんなんだよあいつは。どこに兄に自分の部屋を掃除させる妹がいるってんだ。
まあ、文句を言いつつもやってしまう兄にも問題はあるのだろう。
つまり俺のせいか。
「……なに考えてんだ、俺」
平和だとこんなことを考えてしまうのか。気が緩みすぎにも限度があるだろうに。
異世界にいたころは、こんなふうにのんびりできなかった。
春休み、俺は魔王を斃す勇者として異世界に召喚された。そのときに一緒だったのが当時まだ中学生だった真宵後輩だ。
つみれが気にしていた俺たちの出会いである。
五年間の旅路の果てに目的を達成して、元の世界に帰ってきた。
あのころはまともな寝床を用意するのも大変で野宿が常だった。魔物が闊歩する空間で警戒もなしに寝ようものならヤツら食事になるだけである。睡眠していても眠りは浅く、張り巡らせたセンサーに敵の気配が引っ掛かろうものなら一瞬で覚醒、武器を片手にして戦闘態勢に入らなければならなかった。
この世界はそういう意味では平和だ。
こんなふうにのんびりしてても襲われるなんてことはまずない。
だからほんの気まぐれだった。
そっと目を閉じて、意識を俯瞰的に広げる。
――背後に、誰かがいる。
弾けるように立ち上がって背凭れにしたフェンスから離れると、だらりと下げた両手がアスファルトにつくほど低い体勢で睨み上げる。
フェンスの上に、誰かがいた。
逆光でシルエットしか見えないが、小柄な体躯とフリフリした格好からして女子生徒だろう。
しかし問題なのはそこではない。
俺が屋上に来たとき、気配を探ったわけではなかったが、見晴らしのよい位置で見渡して誰もいないことは確認している。もし見落としていたとしても、気づかれずに背後に回り込むなどできるものではない。
だが現実として、そいつは俺の背後を気配を悟らせることなく奪っていた。
どうやって?
考えられることとしては、俺が油断していたから。十分にありえる理由だ。けれどそれだけではないだろう。
俺のなかで結びついた確信めいた答えを、自然と言葉にする。
「――超能力か」
「ピンポーン。大正解だよ、冬道かしぎくん」
フェンスの上でしゃがんでいた女子生徒は飛び上がり膝を抱えて前に回転、体操選手のような軽やかさで着地した。
最初に受けた印象が猫だったのは仕方のないことだろう。
まず目に付いたのは首に巻かれたマフラーだ。夏に向けて暑くなり始めたこの時期には不釣合いな代物だ。
まんまるの瞳にちらりと覗く八重歯、肩あたりでざんばらに切り揃えられた黒髪。幼く子供っぽい容姿に年下かとも思ったが、生徒会長の白波先輩と一緒に見たことがある。
たしか、生徒会の会計だっただろうか。
「思ったより時間かかったねぇ。ディクトリア=レグルドを倒したっていうからどんなものかと期待してたんだけど、これは拍子抜けかもしれないねぇ」
「なんでお前がそいつを知っていやがる」
「んん? 後輩クン、言葉遣いは気をつけろよ。ボクは君の先輩だぜ?」
「だったら名乗ったらどうだよ先輩。そっちは俺を知ってるかもしれねぇが、俺はお前のことなんて知らねぇんだからよ」
「あはは、それはボクが悪かったねぇ」
八重歯を覗かせ、不適な笑みを見せる彼女の視線に気味悪いものを感じた。
まるで内心を見透かされるようで、嫌悪感すら抱くほどだ。
「ボクの名前は翔無雪音。よろしくね」
「その翔無先輩が俺に何の用だよ?」
白波先輩といい翔無先輩といい、今日はよく生徒会の人間に絡まれる。
くそ、嫌な予感がさらに強まってんぞ。
「だから言葉遣いには気をつけろって言ってるじゃないか。……まあいいや。何か用かってことだけど、そうだねぇ。君に会うことが目的だったんだよ」
「で?」
「それだけだよ。ディクトリア=レグルドを倒した君が見てみたいってさっきも言ったじゃないか。拍子抜けだったけどねぇ」
神経を逆なでする声のトーンに苛立ちを覚えた。
「俺をそう評価すんのは早とちりがすぎんじゃねぇか? あんま嘗めんなよ」
「どうだろうねぇ。誰かを評価するのなんて一目見ただけで十分だとボクは思うんだけどねぇ。不服なのかい?」
「ああそうだな。初対面でいきなり雑魚認定されんのは気分がわりい」
あの魔術師は強かった。直接刃を交え、死闘を繰り広げた俺がそれを一番理解している。
目的や信念は許容できないものだったが、老練された武術は一本筋が通って気持ちのいいものだった。それを否定されれば黙ってなどいられない。
「それは申し訳ないことをしたよ。まあ気にしなくてもいい。誰も雑魚とは言っていないしねぇ。ただ、拍子抜けしたってだけのことさ」
「どっちも同じだろう」
「んふふ」
楽しげな彼女の態度に舌打ちがこぼれる。
とことん琴線に触れてくる女だ。
「わかりやすい挑発をして、お前は何がしてぇんだよ」
「いやぁ何がしたいって言われてもねぇ。それに挑発なんてしてるつもりはないんだよ。思ったことを口にしてるだけでさ。――君はしたいことがあるのかい?」
「とりあえずお前のお喋りな口を塞ぐことだな」
「ならやればいいじゃないか。まさかできないからって希望を言ってるだけかい?」
ああ言えばこう言いやがって。真宵後輩みたいに真っ向から言い負かすんじゃなくてのらりくらりと躱していくものだから、さっきからフラストレーションが溜まってしょうがない。
「にしても、君はほんとに先輩に対して言葉遣いがなってないねぇ。もしかしていっつも一緒にいる君の後輩もこんなふうに失礼なのかな?」
「あ? てめぇ調子こいてんじゃねぇぞ」
一気に沸点を突破した。
眼球が激しい熱を帯び、全身に波動が循環していくのをはっきりと感じた。
翔無先輩が一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに楽しそうな笑みを作り直す。
「怒んないでよ怖いなぁ。あ、そういえば一ついいかい?」
翔無先輩は右手を銃の形にして、人差し指をこめかみに押し当てながら、
「――君の後輩、なんでここにいないんだろうねぇ?」
「死ね」
身体強化Ⅲを施し、翔無先輩に肉薄する。握り締めた拳を彼女の顔面に振り抜く。
これはキレた。このアマ、真宵後輩に何しやがった。
感情は溶岩のように煮え立っているというのに、思考はこれ以上にないほど冷静さを保っていた。
翔無先輩の一挙手一投足がスロー再生のごとくゆっくりに見え、この拳が完璧に彼女の顔面を捉えたのを確信していた。
「……っ!?」
しかし、結果は空振りに終わった。
忽然と目の前から翔無先輩が消え去っていたのだ。
体重の乗った一撃を躱された俺は前のめりにバランスを崩してしまう。とっさに踏み出して体勢を立て直すと、背後に感じた気配に躊躇いなく後ろ蹴りを繰り出す。
軸足が激しく砂利を噛み、不愉快な音を奏でる。
「わお」
足裏に手応えはない。代わりに翔無先輩の危機感を一切感じさせない楽しそうな響きだけが聞こえてくる。
「危ないねぇ。今のほんきで蹴ったでしょ?」
「…………」
さっきまで後ろにいたはずの彼女が、いつの間にかフェンスの上に佇んでいた。
「女の子にも容赦なしなんてどうなんだい? 男の子としてダメなんじゃないかな」
「うるせぇ。こっちはお前の超能力に付き合ってる暇はねぇんだよ」
手を軽く振って拳を構えると、俺を見下ろす上級生を睨み上げる。
俺の攻撃をどうやって躱したのかはわからない。見た目からは俺の感覚を凌駕する速度で動いたとは考えにくい。
ならば何をしたのか。
超能力だ。
以前に一度だけ超能力と対峙したが、それは爆発の力だった。異世界では炎系統と土系統の混合術式でも爆発の効力を生み出していたので対処法はある程度心得ていたし、何よりハルバートを駆使した肉弾戦を主軸に置いていたため、超能力と戦ったとは言いにくい。
知識のない専門外をあれこれ思考したところで無意味だ。
俺は腰を落として跳躍すると翔無先輩にアッパーを見舞う。
「ダメだよ。もう少し付き合ってもらおうか」
「なっ!?」
翔無先輩は後ろに倒れると、そのまま地面に自由落下していく。
飛び出しかけた体をフェンスを掴んで引き止めると、重力に従って落ちていく翔無先輩を呆然と見た。
あのままでは頭から叩きつけられる。超能力者は常人よりも頑丈にできているといっても無敵ではない。頭をかち割られれば死亡は逃れられない。
一瞬先の光景を想像して血が凍えるような錯覚を味わっていた。
翔無先輩は指を三本立て、こちらに向けている。にやりとすると、指を順番に折りたたんでいく。
何かの、カウントダウン……?
そしてカウントがゼロになり――翔無先輩が消失した。
彼女に遭遇して何度目かになる驚愕に身が硬直したが、これまでの経験を忘れていなかった反射が次なる行動を実行していた。
フェンスを飛び越えて屋上内に戻ると即座に反転。両腕を重ねるように交差させると同時に強烈な衝撃が全身を襲った。
「へえ。初見でここまでついてこれるなんて、これはさっきの言葉は撤回しないといけないかもしれないねぇ」
またも消える。気配までも完全に消え失せる現象は、まるでほんとうにこの世界からいなくなったかのようだ。
激痛に顔を歪めながらセンサーを広げる。俺が察知できる範囲はせいぜい半径二十メートル前後が限界だ。逆に言えば、その範囲にさえ捉えてしまえば、反応が追いつく限り先手を打つことができる。
魔王にでさえ通用した俺の持つスキルだ。
刹那、翔無雪音はそれを嘲笑うかのように、すぐ真後ろに現れた。
慌てて転がって距離を稼ぐも、回避位置を予測していたように喉元を狙った爪先が飛び込んでくる。
身を仰け反らせるが間に合わず頬が抉られ、血飛沫が舞った。
翔無先輩は避けられるとは微塵も思っていなかったのか、感嘆の声をこぼす。
ブレザーのうちに着込んだパーカーの袖で血を拭う。
「……なるほどな」
推測が確信に変わる。こいつの超能力の正体は――
「テレポートか」
「お見事! よく見抜いたねぇ。大正解だよ」
よく言うよ。こんなの専門外だろうと簡単に看破できるだろう。
翔無先輩の超能力の正体はテレポート、あるいは空間移動と呼ばれる類だ。
点と点による究極的な移動術。完全に世界から消失し、再び出現するテレポートを見切るには出現ポイントを予測するか、現れた瞬間を狙うくらいしか思いつかない。
真宵後輩ならもっとうまくやるんだろうけど、俺にはそれくらいが限界だ。
「じゃあ、こっからが本番だねぇ」
「――いいや、チェックメイトだ」
胸元で輝く剣を模した首飾り――天剣の属性石に手を添える。
「――氷よ、雪女の甘い吐息を」
硬質な咆哮を迸らせ、アスファルトから鋭い氷の槍が無数に伸びる。それらは滑るようにして翔無先輩へと殺到していく。四方八方から飛び出した氷槍に驚愕を見せたが、転瞬して余裕の笑みに切り替えた。
それもそうだろう。テレポート能力を持つ彼女は攻撃回避のスペシャリストだ。たとえ周りを取り囲まれようと大した危機ではない。
案の定、唯一の安全地帯である空中に転移し、槍衾をやり過ごしていた。
……予想通りすぎて笑いを堪えられない。
円を描くようにして疾駆し、氷槍を駆け上がって翔無先輩の襟首を掴んで捕まえる。しかし、すぐにテレポートして魔手から逃れる。
いや、逃がさない。
靴裏に波動を凝縮させ、即座に爆発。衝撃を受けて砕け散った氷の礫が辺りに撒き散らされる。
ジェット機めいた速度で着地した俺のすぐ前方に翔無先輩が出現した。
翔無先輩の表情から余裕の消え失せる。
まるで、どうしてここに現れるのがわかったのかと言いたげだ。しかし難しいことなど何もしていない。凍りついた屋上で逃げられるポイントは限られている。翔無先輩に遠距離の攻撃手段があるのなら別だが、おそらく彼女には肉弾戦しか武器がないだろう。
いかにテレポートがあれど結局は接近しなくてはならない。そうなると俺の隙を窺える場所に動く必要がある。注意深く確認したわけではないが、その条件を満たせるのは数箇所しか見つからなかった。
あとは短時間で把握した翔無先輩の性格と行動パターンから出現場所を予測して先回りするだけだ。もちろん間違う可能性もあった。しかしそうなったところで負うリスクはほとんどなかった。
翔無先輩は硬直して動けない。
俺は右拳を突き出す。
乾いた炸裂音が響き渡った。
「うぉわいったああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
女の子にあるまじき悲鳴を上げた翔無先輩はデコピンを喰らって赤く腫れ上がった額を押さえ、みっともなく転がり回る。
属性石に波動をこめるのをやめると、天高くそびえ立っていた氷の槍衾が霧のように空気に溶けていった。
「い、いったぁ。君、どんな力してるんだい? デコピンで人の頭ぶっ飛ばすとか普通じゃないって」
「超能力者に言われる筋合いはねぇよ。テレポートする女子高生の方がおかしいだろう」
膝を折ってしゃがみ、座り込む翔無先輩と目線を合わせる。
涙目の翔無先輩は額を撫でながら、
「いいのかい? 絶好のチャンスなのに何もしなくて」
「なんだよ。もっと痛くしてほしいのか?」
デコピンの構えを作ると、テレポートしてまで俺から距離を置いた。
「ボクが言いたいのはそういうことじゃないんだけどねぇ」
呆れぎみに呟く翔無先輩。どうやら気づいていないらしい。
俺は腰を上げてドアの方を指差す。最初は首を傾げていた翔無先輩だったが、そこに立つ人物を見て、攻撃の手を緩めた理由を悟ったようだった。
「ついカッとなったけど、よく考えりゃあ真宵後輩をどうこうできるわけねぇんだよ」
俺のところにやってきた真宵後輩を横目にしながら言う。
「あはは……なんだ、あっちもやられちゃったのかぁ」
「俺たちに喧嘩ふっかけて何がしたかったんだよ、お前」
ディクトリアと戦ったことも知っていたようだし、目的は俺たちの実力を自分の目で確かめたかったのだと推測している。
真宵後輩のところにも別の能力者が接触していることから、少なくとも二人以上で動いているのだろう。
……まあ、この人が生徒会会計で、今朝の白波先輩の「またね」発言からして生徒会が敵の正体であるのは確実だ。
さっそく嫌な予感が的中してんじゃねぇか。
「んふふ、それはあとのお楽しみだよ」
「駆逐しますよ」
「ちょっと、この子、目が本気なんだけど」
碧色に染まった瞳に見下ろされる翔無先輩は、引き攣った笑みを浮かべている。口角がヒクヒクと震え、冗談ですまされないことを肌で感じ取ったらしい。
「ま、まあ、すぐにわかるから今は秘密ってことで一つ。それで藍霧ちゃん、君の相手をした子はどこにいるんだい?」
「そこらへんに転がってるんじゃないですか。口上を述べていたみたいですけど、目障りだったのですぐに蹴散らしてきました」
「きょ、キョウちゃーん!」
真宵後輩の無表情を見た翔無先輩は慌てた様子で屋上を飛び出していった。
「マジで転がしてきたのかよ?」
「ええ。それがどうかしましたか?」
「……いや、なんでもねぇ」
真宵後輩が言うのだから、ほんとうに転がしてきたのだろう。容赦ねぇなオイ。
「そんなことより先輩、お弁当です」
「サンキュ」
渡された赤い包みを受け取る。
どうせ面倒事が舞い込んでくるのだ。
ひとまず今は腹ごしらえをしておくとしよう。




