第四章 (3)
「死にたいんですか?」
教会に辿り着いたところで待ち構えていた真宵後輩に拉致られ、開口一番に罵倒を頂戴するはめになった。
銀色の杖を片手にし、底の知れない絶対零度の瞳で俺とニーナを見下ろしている姿は阿修羅のごとし。まともに目を合わせられなかった。
隣にいるニーナなど涙目でパーカーを握りしめ、ぷるぷると震えている。
おいやめろよ。俺は慣れてるからいいけどニーナは耐性がないんだぞ。
「あれだけ余裕綽々な発言をしていたくせになんですか。全然やられてるじゃないですか。こんな満身創痍な姿を見せられて勝利したと言われても信用できませんよ」
腰に手を添えて片足立ちに呆れたように言う。
「おにい、さんは……勝ちました……!」
ぷっくりと頬を膨らませるニーナは心なしか怒っているように見える。
しかし悲しいかな。もともと優しい顔立ちのニーナが怒っても可愛いだけである。
同じことを思ったらしい真宵後輩と視線が絡み合う。
「わかってますよ。先輩が負けるはずありませんから」
「わわっ」
ぐりぐりと頭を撫でられたニーナが目を回していた。
妙な信頼に背中にむず痒さを覚えた。
「ひとまず治療をしますので動かないでくださいね」
数歩後ろに下がって地杖を前に掲げる。真宵後輩の足元から水系統波動の粒子が渦巻きながら立ち昇っていく。杖の尖端は竜の手のように三本の刺が中心にある水晶を守るように伸びている。水晶に粒子が吸い込まれていき、激しく明滅する。
ニーナはその光景に目を奪われ、溜め息にも似た息をこぼしていた。
薄暗い礼拝堂。木製の大きなドアから一直線に伸びた通路の両脇には雑多に扱われた長椅子があり、正面には祭壇が置かれている。
そのバックには天使か何かをイメージして作られたステンドガラスがある。月明かりが反射してちょうど真宵後輩の頭上から降り注ぎ、渦巻く光の粒とも相まって幻想的に彩られていた。
俺はつい真宵後輩の横顔に見蕩れてしまう。
「綺麗だな」
「……っ!?」
無意識にそんな言葉を紡いでしまった俺の脇腹に真宵後輩の手刀がクリーンヒットした。
「お、お前……俺いちおう怪我人だぞ……!」
情けない悲鳴と共に踞り、恨めしく睨み付ける。
真宵後輩は地杖を掲げて回復波導を持続させたまま、あたかも自分は悪くないとでも言いたそうにそっぽを向いていた。
「せ、先輩が変なことを口走るのがいけないんです」
そう言った真宵後輩の頬がほんのり赤く染まっている。なんだと不思議に思っているよそで、ちらちらと俺を見ては気まずそうに視線を逸らすを繰り返していた。
「思ったこと素直に言っただけじゃねぇかよ。いてて……」
「わ、私が綺麗と、ですか……?」
「言わせんな恥ずかしい」
「台無しです先輩」
一転して無表情に戻った真宵後輩に凍えるような目線をいただいた。
落胆したように肩を落とす姿を見ながら、俺は内心で吐き捨てる。
だって仕方ねぇだろうが。自分で言ったことをあとから理解して恥ずかしくなっちまったんだからよ。
赤面している顔を見られないよう腕で隠して、帯びた熱にさっさと引っ込めと念じる。
「そのままでいいので聞いてください」
「ああ」
なるべく平気を装って相槌を打つ。
「やはりここには引き取られた子供が大勢いました。二十六人だったはずです。あそこの祭壇に地下室へと続く隠し通路があって、下りたところに数人の科学者がいました」
「やっぱりか」
「とりあえず二度とこんな真似ができないよう同じ目に遭わせてお引き取り願いましたけど、正直足りなかったのではないかと後悔しているところです」
「同じ目って……」
横目でニーナを見る。手足を義肢にされ、眼球も脳に埋め込まれたニューロチップと直接繋がった義眼に差し替えられている。これと同じということは――と想像して思考を中断する。
ヤツらは往復されても仕方のないことをやってきたのだ。自業自得である。命があるだけでも逆に感謝してもらいたいほどだ。床に引き摺られたような血の痕跡があったのは科学者共がここから逃げるときについたものらしい。
「今はアウルさんが子供たちを介抱しているところです。なかには暴行を加えられた子もいましたので」
「……そっか」
予想してはいたが、実際に聞かされると言い知れない感情が沸き上がってくる。
何人もの子供を引き取っても全員を実験台にするわけではない。ヤツらの欲望の捌け口として使われた子供たちはおそらく少なくないだろう。
バチン、と硬く握られたニーナの義手が短い火花を散らした。
きっとニーナは施設にいたころ、それを目撃したことがあるのだろう。言葉にしなくても今のニーナの表情がそれを物語っている。
悔しさから一文字に結ばれた唇の端から血線が伸びた。
真宵後輩は回復波導をかけたまま取り出したハンカチでそれを拭う。
「子供たちは『組織』で保護するそうです」
「ほかのヤツらに狙われたら堪ったもんじゃねぇからな」
機鎧人の技術を欲しがる連中はたくさんいる。ようやく光を掴んだ子供たちをまたも闇に落とすようなことになってたまるか。
「ただ、一般の移動手段で『組織』の施設に連れていくわけにいかないからと、しばらくはこちらに滞在するそうです」
「……なんでそんな嫌そうにしてんだ?」
真宵後輩があからさまに不機嫌なのでつい気になって訊ねていた。
「ホテルに泊まるにしても未成年が子供をぞろぞろ引き連れていたら怪しまれます。それにもしほかの機関に足跡がバレて襲撃されでもしたら自分だけでは対処しきれないからと、準備が整うまで私の家にいさせてほしいと言われたんですよ」
そりゃあ真宵後輩が不機嫌になるわけだ。アウルだけでも泊めたくないと言うのに、そんな大人数を家に敷居を跨がせるなど考えられないことだろう。
「……まったく」
文句を言う気力さえ失くしていた真宵後輩が嘆息するすると同時に、俺たちを覆っていた水の膜が弾け、ステンドガラスから差し込む色鮮やかな光をキラキラと反射させながら消えていった。
ディクトリアにやられた骨折や火傷、裂傷やその他もろもろが治っている。今回はさすがに怪我が重度だったためか肌が引っ張られるような違和感があるが、取り立てて言うほどではない。
しかし左目だけは痛みこそないが視界がぼんやりとしている。
どうしたものかと思っていると真宵後輩が俺の頬に手を添え、急接近してきた。
「お、おい、なんだよ」
「動かないでください」
ぴしゃりと言われるが、この状況で動くなって注文が無理難題すぎるだろう。
俺と真宵後輩の距離はわずかに数センチ。彼女の吐息がかかり、少しでも前のめりになればほどよく湿った柔らかそうな唇に俺の唇がくっついてしまいそうだ。
隣ではニーナが両手で顔を覆っているが指の隙間からしっかりとこちらを観察している。ばっちり見られていた。
七色の光の下で抱き合うよう身を寄せる男女。第三者から見なくとも、今の俺たちの体勢は愛し合っているようにしか映らないだろう。
しかし真宵後輩はいつもの無表情で俺の目をじっと覗いている。
「眼球は無事のようですけど、波脈までは再生しきっていないようです。視界がぼやけているでしょうけど、数日もしたらすぐに元通りになります」
「そ、そうか。わかったから、とりあえず離れてくれないか? すげぇ近い」
「え?」
真宵後輩が俺との距離を実感して肩を大きく震わせて身動いだ。よほど慌てているのか足元がおぼつかず、足を滑らせて俺の方に倒れてきた。
そこでキスハプニングでも起これば嬉しかったが世の中そう甘くない。ごつんとおでこ同士を衝突させ悶絶するはめになった。
「い、いてぇ……大丈夫か真宵後輩」
呻きながらの声に「だ、大丈夫です」という明らかに大丈夫ではない返事が返ってきた。
見れば頭を押さえてその場にしゃがみこんでいた。俺より打ち所が悪かったらしい。
ニーナが控えめに真宵後輩の頭を撫でていた。
そのとき祭壇の下にある地下室へと続く階段から複数の足音が聞こえてきた。それはゆっくりとだが近づいてきており、おでこの痛みが引くより早く、アウルを先頭にした集団が姿を見せた。
アウルは全員が揃っているか点呼して確かめている。元気よく返事とまではいかないが、しかし軽く挙手するくらいの反応はあった。よくこの短時間で全員の名前を聞き出して覚えたものだと、俺は場違いな感想を抱いた。
くるりと振り返り、俺を見つけると控えめに手を振ってくる。怪我は治っても過剰なブーストのせいで立ち上がるのも億劫なので俺も手を振り返しておく。
「勝ったみたいだな」
クールで凛とした雰囲気に似合わず子供っぽい笑顔で駆け寄ってくるアウルに勝利のピースサインを作る。
「おう。つってもニーナがいなかったらヤバかったけどな」
「そうだったのか。よくやったな、ニーナ」
アウルに誉められて嬉しくなったのか、ニーナは恥ずかしそうに指をツンツンさせたあと、照れたような笑顔を俺たちに見せた。
「あの子たちがここにいた?」
アウルが連れてきた子供たちは、出会ったときのニーナのように怯えで暗い瞳を色濃く彩っていた。身を寄せ合うようにして集まっているのはせめてもの抵抗なのだろう。きっと、どこにも連れていかないで、ひどいことをしないでという心理が働いているのだ。
なかでも十四歳くらいの少女は俺を見て特に怯え、見ているこっちが辛くなる有り様だ。ヤツらに拾われてからどれだけの仕打ちを受けたのかなど簡単に想像できた。
ほかにも肌に青痣を作り、手足がない子供までいる。もとからなかったことはあるまい。義肢と取り替えるために切断したのだろう。
怒りが込み上げてくる。己の欲求を満たすためにはどんなこともするというのか。
「ああ。今ここにいる子供たちはあの子たちで全員だ」
「ほかにはなんかあったのか?」
「いいや。データや通信履歴を汲まなく洗ってみたが、出てくるのは機鎧人の資料とニーナのパーソナルデータだけだった。どうやらディクトリアから得た金で遊び呆けていたらしい」
つくづく反吐がでる。
「……能力者ってのはこんなんばっかなのかよ」
口をついて出た本音を訂正する気にもなれなかった。ふざけてる。私欲のために子供たちを実験台にしたかと思えば手に入れた金で豪遊だというのだから、真宵後輩に手足をもがれたとてまだ生ぬるいとさえ思える。
「冬道。力を得た人間は例がいなく特別なことをなそうとする。ディクトリア=レグルドが世界に超能力を広めようとしたように、我々『組織』が超能力者を保護しようなどとエゴイズムを掲げるように。力を持たない人間もそれに感化されて自分たちも何かを成し遂げようとする。……だ、だが、それは必ずしもマイナス方向に向くわけではないんだ。だから能力者全員がこんな行いをするとは思わないでほしい」
アウルの言葉はどんどんと窄みになっていく。
困惑と懇願がごちゃ混ぜになった表情で必死になる姿は、彼女の言ったことが事実なのだと証明になっている。
俺は天井を見上げ、ひらひらと手を振る。
「お前のことはイイヤツだと思ってるから心配すんなよ」
「むっ? そ、そうか。イイヤツか」
まあ、ほんとうなら隠密行動しなければならなかったのに、俺と真宵後輩を利用しやすいからとあっさり超能力事情を話したのはマイナス評価だけれど。
「ん? なんだよ真宵後輩」
真宵後輩がじとっとした目付きで俺を見ていたので気怠く訊ねる。
「……なんでもありません」
しかしそっぽ向かれてしまう。
なにか機嫌の悪くなるような失態をしたのかと行動を振り返ってみるが思い当たるところはない。そもそもさっきまでご機嫌だったのに急に不機嫌になられても困る。だけど異世界にいたころからなのでなれたものだ。
それがなんだかおかしくて、つい笑ってしまう。
みんなが困惑して顔を見合わせていたが、やがて伝染したように至るとことから明るい声がこぼれる。子供たちも俺たちの様子を見て安心してくれたようだった。
ひとしきり笑い、さて帰ろうかと腰をあげた――そのときだった。
教会のドアが爆発し、木製の外観に燃え移った炎が俺たちを包囲するかのように一気に広がっていった。突然のことに悲鳴が響き渡る。
黒煙がそこかしこに立ち込め、その向こう側で武骨な影が揺らめいた。
電撃を流されたような直感で天剣を復元、第三段階までブーストすると長椅子を蹴って飛び上がり、間に割って入り着地する。
「マジかよ……」
俺は渋面を作り、呻く。
このタイミングでここに現れる人間など一人しか思い当たらない。
黒煙が急速に引き寄せられ、そして振り払われる。
ディクトリア=レグルドがそこにはいた。
***
「よくもやってくれたな小僧がァッ!!」
眼球が飛び出すのではないかというほど目を剥きいて血走らせディクトリアが、まるで爆炎を従わせているような出で立ちで、数メートルも離れた位置からでもはっきりと感じ取れる憎悪を迸らせている。
俺はあり得ないと叫びだしたくなるのをぐっと堪え、ディクトリアを注視する。もし不穏な挙動を見せれば即刻斬りかかるつもりだが、ブースト状態でもすでに一歩踏み出すのでさえ辛い。
ぐらりと視界が歪む。遠近間が崩壊した世界。たった数メートルしかないはずなのにそれが遥か彼方に見え、追い付けないのではという負の思考が頭を巡っていた。
戦いは気持ちひとつが致命的になる。
激情が追い風となり、感情が普段以上の力を発揮させる。逆もまた然り。剣速を鈍らせ、不運を引き寄せる。
急激に循環し始めた波動に対処しきれないらしく、全身のありとあらゆる箇所が限界を訴えてくる。呼気は乱れに乱れ、喉奥からは血塊が押し寄せてきた。
「貴様がいなければ、我が崇高な計画は成就されていたはずだというのにッ!! 何故だ、何故わからぬのだ。この世界にはいかようの価値もないということがッ!! 先の一戦で私は確信した。ニーナはガラクタなどではなく、私たちと共に歩むべき同士です。かしぎくんにニーナよ、君たちはそちら側にいるべきではありません!! 早く私の元に来るのですッ!!」
「ざけんじゃねぇよ。何度も、言ってんだろうが」
我慢しきれず咳き込めんだのに乗じて逆流してきた血液の味が口内に広がり、床にびちゃびちゃと吐き出される。
力が抜けて前のめりに倒れそうになるのを真宵後輩に支えられながら、狂乱する魔術師に言う。
「俺はお前の仲間になんかならねぇ。ニーナも渡さねぇよ」
「ならば私の前から消えろおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉッ!!」
ディクトリアは両腕を翼のように広げる。法衣がはためき、その下の肉体が露になった。ニーナの必殺の蹴りを喰らったアンダーアーマーは粉々に粉砕され、相殺しきれなかった衝撃が屈強な体躯に多大なダメージを蓄積させていた。胸骨が抉られたように陥没しており、動けるどころか意識を保っていることが信じられなかった。
男の体は、いっそ風に吹かれれば飛ばされてしまいそうなほど不安定にふらふらと左右に揺れている。かといって弱々しさはない。ただ俺たちを殺そうとする、ほかの一切の思考を削ぎ落とした究極形とも言える隙のない構え。
はためき舞い上がったマントの内側から何かが大量に落下するのを歪んだ視界で見た。
プラスチック爆弾だ。
さっきの戦いでてっきり全て使い切ったと勘違いしていた自身を呪った。あれは超能力で製造できる代物だ。おそらくあの場で使い切っていたのは事実だが、ここに来る間に爆弾を作っていたのだろう。
俺は冷静を取り繕いながら内心は焦りでいっぱいだった。
天剣を復元して威嚇しているが、すでにガス欠。まともに剣を振ることだってできやしない。
だがディクトリアがバラ撒いた爆弾を、それに火の手もどうにかしなければ、俺たちに待っているのは永遠なる闇だけだ。
――どうすりゃあいい……!
縋るように柄を握り締め、思考をフル回転させる。
ここまで来てくたばってたまるかよ。絶対に生き延びる。死んでたまるか。
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考え――、
「先輩」
耳元で誰かが囁いた。
誰だ? いや、一人しかいねぇだろ。
真宵後輩だ。
「全て一人で背負おうとしないでください。私たちは、二人で勇者です」
はっとして真宵後輩を見る。
碧色の瞳が俺を優しく見つめている。
――ああ、そうだった。
憑き物が落ちたように心が楽になった。歪んでいた視界は元通りになっている。
何を一人でやろうとしてるんだろう。俺たちはどこでだって二人で戦ってきたではないか。
「私が精霊の代わりに術式を組み上げます。それなら今の私たちでも、異世界にいた頃と同じように波導を発動させることができるはずです」
「ばか言うな。それじゃあお前に負担がかかりすぎるだろ」
精霊の代わりに術式を組み上げるなどまず不可能だ。それ以前に精霊の代理などという発想がまずないからだ。異世界では波導なんて呼吸するように行える。このように一度の発動に試行錯誤することはない。
だからこそ言える。
「でしょうね。下手をすれば死んでもおかしくありません」
あっけらかんと言ってのける真宵後輩。
そうだ。一歩踏み外せば、膨大で莫大な、人間という種族を超越した概念の真似事をしようとすれば代償として命を払う可能性がある。
いや、むしろ死なない可能性の方が低い。
「ですが私は先輩に死んでほしくないんです。たとえここにいる全員を犠牲にしたとしても、私は先輩だけには生きていてもらいたいんです」
なので、と真宵後輩は笑顔を浮かべた。
異世界でにこりともしなかった彼女が、この土壇場で――?
「やっちゃってください、先輩」
「おいお前……」
「勘違いしないでください。これは先輩のためであって、死ぬつもりはありませんから」
背中を押され転ぶかと思ったが、不思議と柔らかに踏み出せた。
体が羽になったように軽く、重石をつけられたみたいだった腕があっさりと正眼に構えた。
真宵後輩が地杖を掲げる。銀色の輝きが俺のなかに吸い込まれていき、全身に幾何学的な模様が浮かび上がり脈動する。
「何をしても無駄だあああああァァッ!!」
大きく二回、深呼吸して正眼に構えた天剣を頭上に持っていく。ぱっと弾けた燐光が刀身を覆っていき、一個の塊となる。
異世界で各系統を極めた波導使いにはある称号が与えられた。
天上天下に並ぶ者なし――その意をこめた『天』の称号。
氷系統の波導を極めた勇者に与えられたのは『氷天』の二文字。
無駄かどうか確かめてみろよ魔術師。こいつが元勇者の全力だ――!
「――氷姫よ、天焦がす地獄の花束を」
どちらかと言えば小さな呟きになっただろう。
しかしその直後、ほんの刹那の瞬間で、世界は銀氷に支配された。
――氷系統最上級詠唱波導・発動。
炎が揺らめいた形のまま凍結、奇妙なオブジェはそこかしこに完成している。炎熱によって上昇していた温度は一瞬で氷点下になり、熱い吐息を吐けば白く尾を引いて上空に昇っていった。
剣で床の表面を引っ掻きながら天井に向ける。
「なんだ、それは……!」
無数に形成された氷の槍がずらりと並び、そのすべてがディクトリアを捉えている。
「――貫け、氷槍よッ!!」
俺の号令で停止していた槍が堰を切ったようにディクトリアに降り注いでいく。
ディクトリアはプラスチック爆弾を次々に爆発させて迎撃する。氷槍は巨躯を貫通することなく、破砕音を奏でていくつもの破片となって空中に溶けていく。肌を焦がす熱風が銀氷世界を崩壊させようとするが、そんなことは許さない。
破壊された氷槍は爆風ごと取り込み、氷の花を咲き誇らせていく。
「無駄だぜオッサン。お前じゃあ俺たちの波導は破れない」
全身を氷漬けにされていくディクトリアに俺の声は届いていないだろう。
それでも俺は告げる。
「チェックメイトだ」
おそらくディクトリアは自分が敗北したことにさえ気づけなかっただろう。
牙を剥き、おぞましき形相のままディクトリアは沈黙した。
「綺麗、です……」
ぽつりとニーナが銀氷世界を見上げ、呟いた。
子供たちもそれに習って周囲を見渡しては綺麗だと口々にしている。
光芒の散った刀身は薄く氷をまとい、未だに放出し続ける冷気が氷の塵を作っていく。天剣をひと振りして刀身に的割りついた氷を払って真宵後輩に向き直る。
「やったぞ真宵後輩。お前やっぱり流石だよ!」
柄にもなく大袈裟に喜びを表現してみるが反応がなかった。
それどころか、地杖を掲げて顔を俯かせた姿勢のまま微動だにしない。
「真宵、後輩……?」
声が震えていた。
俺は込み上げる不安を必死に抑えて真宵後輩に近づく。
「おい真宵後輩、冗談はよせよ。それは洒落になんねぇって」
嫌な妄想が脳裏を駆け巡る。やはり精霊代行など無理だったのではないのか。あまりの負担に耐えきれなくて真宵後輩は――。
そのとき真宵後輩の肩がぴくりと震えた。
よかったと安堵したのも束の間、地杖がするりと真宵後輩の手からすり抜けて地面に落ちる。鈴のような澄み切った音が響き、氷に気をとられていた全員がこちらを振り向いた。
真宵後輩の体が地面に傾いていく。それがひどくゆっくりに見えた。
俺は絶叫しながらとっさに抱き抱えて受け止める。
「真宵後輩! おい――」
最後まで俺の叫びは続かなかった。
真宵後輩の全身からそれが噴き出し、俺を濡らしたからだ。
おそるおそる頬に付着したそれを拭い取る。
それは夢であってほしかった。誰かに嘘だと言ってほしかった。けれどこれは、現実だ。
「うあああああああああああああああああああああぁぁぁぁッ!!」
俺は皆が絶句するなか、喉が裂けんばかりに慟哭し続けた。




