第三章 (6)
義手の指先から極細のワイヤーが射出され、剥き出しになった骨組みの一部に絡み付く。全身運動で振り子の要領で勢いをつけ、一番高い位置まで飛ぶとワイヤーを切り離す。
幼い少女の体躯は重力に従って人工灯がひしめく街中に吸い込まれるように落ちていく。すると自由落下の腹の底を掬い上げられる不快感が込み上げてくる。足場のない空中に安定感の乏しさを感じながら、すかさずワイヤーを伸ばして跳躍する。
シルバーフレームの腕のなかで金属が高速で摩擦する音が響く。手首から肘にかけて上腕部分が開閉するようになっており、そこからワイヤーを補充する仕組みになっている。異音がするのはそれらと、組み込まれたギミックに負担が大きくのし掛かっているためだ。
油で固まりきっていた髪は今や清潔で、ビル風になぶられ暴れる髪を左手で押さえつける。右腕と左脚、左目を覆う包帯の端も波打つよう靡いていた。
休日の夜なだけはあり、夜更けでも人気は多かった。
蒼く不気味に発光する左眼の熱感知センサーには、その人々が映し出されている。
しかし誰ひとりとしてニーナに気づかない。
それもそうだろう。こんな子供が空中を目にも止まらない軌道を描いて移動しているなどとは夢にも思うまい。こんなふうに空を駆けているニーナが異常なのだ。
『機械人形』の少女は、そんな彼らを羨ましく思った。
思ってから――心臓が食い破られるのではないかと錯覚した。
これまでは絶対に考えないようにしてきた。自分が痛みから解放され、人並みの幸せを得られるとは到底思えなかったからだ。
何人もの主人に出会い、そのすべてがニーナを苛んだ。
殴られ、蹴られ、ときには義肢があるのだからと骨を折られたこともあった。
それらは苦痛の日々だった。
けれどそれが日常なのだと思い込めば、どんな痛みも我慢できた。
これが自分の一番の幸せ。殴られても蹴られても、実験によって苦しんだ末に見るもおぞましい姿になって死ぬよりは、ずっと幸せなのだと言い聞かせた。
しかしニーナはほんとうの幸せの味を知ってしまった。
もう今までのように生きてはいけない。
「――来ましたか」
鉄骨の剥き出しになった電波塔の足場に降り立ったニーナに一瞥もくれず、神父姿の魔術師が厳かに呟いた。
ディクトリアが自分をほんとうの意味で見てくれたことは一度としてない。向ける眼差しはいつも口にしている道具としてだった。
つい数時間前まではそれが当たり前で、そのように見られることなど気にもならなかったのに。
ニーナは自分がディクトリアに人間として扱われていないことに、今になって言い様のない奇妙な感情が胸中を渦巻いた。
「次からはもっと迅速に行動しなさい。お前などに貴重な時間を削るなど許されざる行為だ」
「……了解、我が主」
ニーナがこの場を訪れたのは、意識を睡魔に委ねてからすぐに、ディクトリアから呼び出しがあったからだ。携帯電話は敵を欺くためのダミーであり、通信は脳に埋め込まれたニューロチップを用いて行っている。
網膜に焼きつくほどの警報に、ニーナは強引に覚醒させられた。
何が理由で呼び出されたのかは不明だ。ディクトリアは短く指示こそ出すが、理由も目的も話してくれたことはない。今回もそのようだった。
ディクトリアはニーナが今までどこにいたのか知らないだろう。彼らを仲間に引き込もうとしているのだから、知っていれば呼び戻したりしない。
ニーナは頭を垂れ、ディクトリアの指示を待つ。
「『組織』の鼠が私のことを探っているようです。お前は偽の情報をばら撒いて撹乱しろ。この都市を破壊するためにはもう少し時間が必要です」
ニーナは我が耳を疑った。
目の前の大男が言ったことを理解できなかった。
(ここを、壊す……?)
この場所はニーナに初めて優しくしてくれた人たちがいる。
おねえちゃんは一緒にお風呂に入ったり、楽しいことをたくさん教えてくれた。
おねえさんは美味しいご飯を食べさせてくれたり、優しく頭を撫でたりしてくれた。
おにいさんは、こんな自分でもいてもいいのだと言ってくれた。
暖かくて、とても居心地のいい空間。
ディクトリアは、ここを壊そうとしている。
(いや、だ……)
ニーナの瞳に生気が宿る。
濁りきっていた眼に、緋色の灼熱が灯る。
「返事はどうした?」
左肩に鈍痛が走り、そのまま腹這いに押し潰される。返事をしなかったことに腹を立てたディクトリアが肩を踏んで地面に押し倒したのだ。
ニーナの口から声にならなかった悲鳴が空気として押し出される。足を暴れさせもがく様子にディクトリアは感情のこもらない眼差しを向けている。
こんな男に、この暖かい空間が壊されてしまうというのか。
「いや、です……」
自然と、そう口にしていた。
「なに?」
ディクトリアは足を退けるとニーナの頭を鷲掴みにし、己の視線の高さまで持ち上げる。
「道具の分際で私に口答えするとは、ずいぶんと偉くなったものですね。別に私はお前でなくともいいのですよ? 替えはいくらでも利きますからね」
ニーナの目が大きく見開かれる。
刹那。
脚部に仕込まれた計六発のカードリッジの一つが爆発。回転式弾倉が重々しく音を鳴らす。炸裂音が響き、脚部から黄金色の空薬莢が回転しながら排出される。踵から黄色の炎が噴き出し、機鎧人の脚力とも相まった強烈な蹴りがディクトリアの側頭部に突き立てられた。
ディクトリアは驚愕に一瞬だけ硬直するが、素早くニーナを投げ飛ばして飛び退く。
渾身の一撃はわずかに頬をかするだけに終わる。からぶった蹴りの威力を体を回すことで殺しきり、両手足を地面につけた姿勢で着地した。
「やら、せません……!」
噴出口に残った火の粉が脚部を包む包帯に飛び移り、瞬く間に焼き焦がしていく。もうこれは必要ないとニーナは腕と目を隠す包帯も取り払い、吹き荒れる風に乗せて捨てる。
緋色と蒼色の瞳を鋭く尖らせ、体勢を崩して膝をつくディクトリアを睨む。
「――いよいよもって許しがたいぞ、ガラクタ風情が私に逆らうか」
怒気が立ち込め、傍らにあったハルバートを片手で持ち上げる。尖端が描きながらディクトリアの肩に乗り、重量ゆえに巨体がずしりと沈んだ。
「躾が必要なようですね」
音もなく魔術師が弾けた。二メートルを越えそうな巨体のどこにそこまでの機動力があるのか、一瞬前まで安全圏にいたニーナ目掛けてハルバートを振り下ろしている。避けられると思っているのか、はたまた壊してしまっていいと思っているのか――おそらく後者。一切の躊躇いもない一撃に、肌が焦げるような殺気を感じた。
義眼に仕組まれたセンサーがディクトリアの動きを捉え、脳に埋め込まれたニューロチップがとるべき最適な行動の演算を開始する。
ニーナの『機械人形』としての性能はディクトリアが思っているよりも遥かに高かった。
義肢による絶大な破壊力は、元となった医療の副産物であり本質ではない。物体の動きを正確に捉える義眼に、それを確実に対応するニューロチップ、さらにそれを再現する義肢が揃ってこそ真価を発揮する。
今、ニーナの脳内ではただの降り下ろしを回避し、いかに最適な行動に繋げられるか演算が行われている。――その時間、わずかに〇.二秒。
導き出された演算結果が電気信号となって全身に伝達され、義肢が反応する。
「ぬぅっ……!?」
「いぎぃっ……!!」
後ろ蹴りでハルバートを打ち上げられたディクトリアは驚愕し、ニーナは接続面を襲った激痛に喉から悲鳴を上げた。
冬道かしぎの振り下ろしも華奢な体にしては威力があった。それでもニーナの小柄にそぐわない義手で跳ね返したとしても接続面に小さな違和感が広がるだけで、痛みには繋がらなかった。
しかしディクトリアとは倍ほども体格に差がある。加えてハルバートの重量も合わさり、受けきれる容量が限界を越えてきたのだ。
溢れ出る涙を拭い払い、人間の筋反射を無視した機鎧人はすでに次なる行動を起こしている。右腕を軸にしてディクトリアの頭を飛び越えて背後を奪い、素早く上下を入れ換えて着地する前に右拳打、左脚裂を体幹に繰り出す。
「嘗めるなガラクタ風情が!!」
「ひっ……!」
ハルバートを手放したディクトリアが反転する。拳と爪先が叩き込まれるのも構わず握りられた拳が、攻撃後の硬直で無防備になった少女へと吸い込まれていく。
しかし『機械人形』文字通り人間離れした速度で反応する。
「……っ!」
指先から射出されたワイヤーが空中を踊るハルバートに絡め、強力な引力で拳の軌道上から脱出する。さらに回転を加えて位置を入れ換え、ディクトリアの図上に巨大な処刑斧を誘導する。
ディクトリアは背を向けたままだ。
このままいけば――そう思ったとき、ニーナの脳裏に戦慄が広がった。
このままいけば、どうなるというのだろう? ハルバートが勢いよく脳天に突き刺されば、いかにディクトリアといえど即死は間違いない。
そう、即死だ。
自分は今、人間を殺そうとしているのだ。
痛いのがとても苦しいとニーナは知っている。
そして死はそれ以上に重い。ずっと目にしてきて、次は自分なのではないかと怯えてきたニーナは、それをよく知っていた。
(だ、だめ……!)
機械の義肢は宿主を守る鎧にして槍だ。常に最善を選択し、行動を起こす。
その最善とは危険を排除するということ。それが不可能な場合は逃走が選択されるが、そもそもニーナは逃げを放棄していた。
つまり機鎧人はディクトリアを殺すまで停止しない。
だが、ニーナにも意思はある。
自分を虐げてきた相手だろうと、殺したくないという意思が。
「あああああああああああああああああっ!」
左手で右手を強引に押しどけ、ハルバートの軌道を逸らそうとする。
人間としては非力なニーナでは『機械人形』の腕力に抗えず、ほとんど動かせない。
それでもギリギリのところで軌道が修正され、ディクトリアを巻き込まずに済んだ。
しかし安堵する暇はない。
予想外の事態で標的を仕留めきれず、脳内で再演算される。膨大な数の数式が流れるように処理されていき、ディクトリアが憤怒を露に突撃してくる様子を義眼が捉えたときには、解が導いた一手が放たれていた。
全方向からのワイヤーの檻。
ディクトリアを殺したくない以上、身動きできなくするくらいしか、ニーナには彼を止める手段が思いつかなかった。
「この私を……この私を貴様のような塵が見下すかァ!!」
激昂したディクトリアは中指と親指をくっつける。フィンガースナップのポーズだ。
ニーナは檻を一旦解除して、ワイヤーを敷き詰めて盾状に編み込む。
ふと頬や腕に小さな物体がぶつかった。普段なら無視してしまうような小さな感触だったが、戦いの緊張感で極限まで高められた集中力が一切のタイムラグなく、それを脳に伝心した。
ディクトリアが凄惨に嗤うのを、視界が遮られる直前に見た。
「――死になさい」
肌を打つ音が嫌によく届いた。
紅蓮に世界が包まれる。
肉が焦げる臭いが充満する。
遅れてじわじわと痛みがやってきた。
「いぎゃああああああああっ!?」
じゅうじゅうと皮膚が溶け落ち、肉が焼け焦げた。
かろうじて直撃は避けていた。さすが『機械人形』と言うべきだろう。気にも留めないほど小さな感触ひとつでありとあらゆる可能性を計算しつくし、ニーナ自身は知らなかったディクトリアの超能力を看破してとっさに回避行動を行ったのだ。
もっともダメージが低い体勢で受けたが、ほぼゼロ距離での爆風だ。無傷ではいられない。
剥き出しだった腕や足に大きな火傷ができている。顔半分の皮膚が焦げ落ち、幼いながらも綺麗な顔立ちは苦痛に歪められていた。
「おや? 私は死ねと言ったはずなのですがね」
あまりの激痛にのたうち回るニーナに、ディクトリアはにこやかに語りかける。
「お前はもう必要ありません。ほかにも駒は用意できますからね」
ハルバートを蹴りあげて柄を握り締める。声すら出せずに苦しむニーナがよほど愉快なのか、クツクツと喉を鳴らしながらニーナを見下ろす。
「私に従うだけだった道具が、あろうことかこのような愚行に移るとはな。驚きましたよ。せめて最後に聞いてあげましょう。どんな心境の変化ですか?」
「あぐっ……」
ニーナの黄金色の髪を鷲掴み、無理やり頭を持ち上げる。
そこにはディクトリアの望む歪んだ表情があった。
しかし気に入らない。あとは気分ひとつで生死が左右されているというのに、緋色の瞳には光が宿っている。その瞳は、絶対に諦めないと悠然と語っていた。
「おにい、さん……たちは、わたしにも……優しくして、くれました……」
ニーナはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「わたしも、いていいんだって……言ってくれました……」
ディクトリアは小馬鹿にしたように肩を揺らした。
「どこの誰が言ったのかは知りませんが、お前ような欠陥品が生きていていいと? 笑わせるな。お前ら『機械人形』は道具として使い潰され、さっさと死ねばいいのですよ」
「――違う!」
火がついたように叫んだニーナはディクトリアの手を振り払い、義足が空薬莢を吐き出す。ニューロチップが計算した最適な一撃でなく彼女自身が意識して薬莢を射出したせいで、骨格がが威力に耐えきれずぎしりと軋む。
反撃はないとたかを括っていたディクトリアはもろに腹を蹴られ、胃のなかのものを戻しそうになった。
「わたし、たちは……ガラクタじゃないです……! みんな、必死に生きて……ます。わたしたち、は……ちゃんとした、人間ですっ!!」
ニーナが絶叫したそのとき、義肢が甲高い電子音を発した。
何の前触れもないことに戸惑うニーナの眼球のなかに文字が浮かんだ。
『――活動限界を突破しました。一時的に機能を停止します』
右腕と左脚が煙を噴く。意思に反して強制的に義肢がぴんと伸び、 解錠音と共に切り離された。急に片手片足を失ったニーナはバランスを崩して地面を転がる。義眼も機能を停止し、半分になった視界で立ち上がったディクトリアを見上げる。
「聞いて呆れますね。……何が人間だ。お前など虫けらだ。ガラクタだ。人間を名乗るなどおこがましいにもほどがあります」
ハルバートを拾い上げたディクトリアの歩みには淀みがない。
ただ真っ直ぐに、ニーナを殺すためだけに一歩ずつ踏みしめている。
義肢は失われた。頼みの綱である義眼も閉じられ、今やニーナは普通の子供となんら変わらない。――もう、打つ手はなかった。
「よくも手間取らせてくれましたね」
ハルバートが高く振り上げられる。月光を浴びて鈍く輝いた刃が、少女の横顔を照らす。
「死ぬがいい」
――ああ、ここで……死んじゃうのかな。
迫る死を前に恐怖はなかった。
最後に抗うことができて、自分の意思で動けたことが嬉しかったのだ。
清々しい気持ちだった。やれるだけやったのだ。後悔はない。
――ほんとうに?
ほんとうに後悔はないのだろうか。そんなわけがない。
結局ディクトリアの目的を阻止することができず、自分に優しくしてくれた人たちにお礼を言うこともできなかったのだから。
そう思った途端、涙が溢れて止まらなくなった。
死ぬことに恐怖はない。だけど、みんなに会えなくなるのは、すごく嫌だった。
「死にたく、ない……!」
ハルバートが振り下ろされる。
「――おにいさん、ごめんなさい」
ニーナは最期を覚悟した。
せめて目だけは逸らすまいと真っ直ぐにディクトリアを睨みあげる。
最期に見ているのが自分を散々虐げてきた相手だと思うと、あまりいい気分ではない。
どうせ最期になるなら、おにいさんがよかった――。
「――ニーナ!」
ハルバートが遠くで地面を陥没させたのが見えた。
「え?」
ニーナはそんな声をこぼす。どうして自分を潰すはずだった刃が見えているのだろうか。それに誰かに抱えられているような暖かさがある。
体全体を衝撃が襲った。痛みはない。視界がぐるぐると回り、三半規管を揺さぶる。
しばらくして視界が安定し、そこでニーナは誰かが自分を助けてくれたのだと気づいた。
でも、いったい誰が?
ニーナはわずかな期待を抱きながら、顔をその人物に向けた。
「ごめんな遅れて。こんなにボロボロになる前に間に合わなくて」
そんなことはないと、ニーナは首を左右に振った。
場所は伝えてなかったし、そもそも助けに来てくれるとも思っていなかった。
それなのにこうして駆けつけてくれた。
ボロボロなのは同じだ。よほど急いでくれたのか、パーカーはところどころが破け、肌にはいくつもの傷跡や痣ができている。
ニーナは、こんな自分のために必死になってくれたことが、何よりも嬉しかった。
「なぜ、ここがわかったのですか?」
冷静を装っているが、予想外の事態に動揺が隠しきれていない。
ディクトリアはハルバートを構え、油断なく鋭い視線を傾けている。
「どうだっていいだろそんなこと」
ゆっくりとニーナを下ろすと、その大きな背をこちらに向ける。
「決着をつけようぜ、オッサン」
黄金に輝く剣を片手に元勇者の少年が吠えた。




