第三章 (3)
「なあ、帰っていいか?」
「ダメに決まってるでしょう。ほら先輩、これなんてどうですか?」
真宵後輩がそう言って広げたのは『ばいおれんす!』の文字がプリントされたティーシャツだ。
「お前のセンスが壊滅的なのはわかったから、帰っていい?」
「この斜め文字シリーズのよさが理解できないなんて可哀想な人ですね。あと煩いので事あるごとに帰りたいと言わないでください鬱陶しい。もう十六回目です。いい加減に諦めてください」
諦めるも何もないだろう。
俺が連れてこられたのはレディース物のアパレルショップだった。華やかな衣類がずらりと並び、小物類も綺麗に置かれている。馴染みのない空間だ。当然女性比率は高く、見渡す限りでは俺のほかに男性客はいなかった。
オシャレな空気が着回した一張羅のパーカー姿の俺を拒んでいるようで居心地が悪い。女性客の俺に向ける胡乱げな視線もそれを助長させていた。
「つうかそんなシリーズのよさを理解したいとは思えねぇよ。そのセンスがバイオレンスだっての」
「上手くないですね」
「上手く言うつもりもねぇよ。さっさとしまえ」
「もう買ったので私のものです」
買ったのかよ。やっぱり俺には真宵後輩のセンスは理解できそうにない。
俺のそんな思考を見透かしたように、一張羅のパーカーを指差した。
言われることを何となく察して、今のうちにいくつか台詞のパターンを用意しておく。
「先輩にセンス云々を言われる謂れはありませんよ。そのパーカーずっと着てますけど、恰好いいと思ってるんですか? ちょっと周りと違う俺カッコイイーとでもナルシスってるんですか?」
「思ってねぇしナルシスるってなんだよ」
聞いたことのない言葉にすかさず突っ込む。
「私が先駆者です。これから社会に根付くことになるでしょう」
「なるわけねぇだろ」
正直そうなったら引く。逆説的に言えば、それが根付くほど自分が大好きだと公言する輩がいるということだ。内心でそう思うのは自身の勝手だが、堂々と言われるとなるとお近づきにはなりたくなかった。
「というか先輩は勘違いしてるみたいなので言っておきますけど、斜め文字シリーズは私が欲しいだけであって、それが今風ですとか思ってるわけじゃありませんから」
「あん? それがどうしたよ」
変なことを言うヤツだ。俺だってそんなこと言ってないだろうに。
「私にセンスがないとは心外ですからね。いいですか先輩、センスと趣味は別物なんです。例え先輩にとって斜め文字シリーズはセンスのないものだとしても、だからといってイコールで私のセンスがおかしいことにはなりません」
見なさいと傲岸不遜に言って真宵後輩は試着室のカーテンを開ける。
そこには爽やかな色合いの上着に、明るい感じのスカートを来た碧眼の少女がいた。
ニーナは恥ずかしそうに頬を上気させ、自信なさげに視線を彷徨わせている。右手左足をさらすわけにはいかず肌を隠す服装になり、左目には包帯が巻かれているが、そんなのはお構いなしに彼女の魅力を引き上げていた。
「どうですか?」
いつもの無表情なのに勝ち誇っているように見えるのは、俺が無意識に敗けを認めているからだろうか。
「……ぁぅ」
認めるのが癪で喉を鳴らして唸っていると知らずのうちにニーナを凝視してしまっていたらしく、羞恥心が限界を突破したニーナが小さく悲鳴をこぼして背中を向けてしまった。
「私はファッションセンスがどうかと訊いただけで、ニーナを視姦しろとは言ってないのですけど」
「やってねぇよ!」
周囲の女性客がぎょっと目を剥いていた。
咳払いして空気を切り替えると、
「あー、えっと、似合ってる。お前のセンスには脱帽だ」
ひとまず賛辞を送っておく。
実際、真宵後輩がニーナに選んだ服はよく似合っている。
ニーナの雰囲気はどこか陰があるようで、暗い色合いの服装だとマイナスの印象を受けがちだし、かといって明るいだけの仕上げにしても似合わなかっただろう。
適度に明るく爽やかな色の組み合わせにすることで、儚げなさを作り出していた。
ふわふわとして、風に吹かれただけで消えてしまいそうとでも言うべきだろう。手を取って、ずっとそばにいてあげたいという気持ちになる。
「ほんとうに、似合って、ますか……?」
ニーナは両手で覆った指の隙間から俺を覗き見ている。
「うん。似合ってる」
素直に褒めるとまたもニーナに背中を向けられてしまった。
「そうやって先輩は褒めるときだけは素直に誉めますよね」
どうしてか複雑そうな表情を浮かべて真宵後輩が言う。
「お前がどうだって訊くから言っただけだろ。褒めるのだって悪いことじゃねぇだろ」
「ええ、ええ悪いことではありませんよ。ですけど先輩はそうやってですね! ああもう!」
急に不機嫌になったかと思えば、ずいっと真宵後輩が顔を近づけてくる。
つま先立ちになって上目遣いで見上げてくる様子は、ともすればキスをせがまれているようで、どきりと心臓がひときわ大きく跳ねる。心音が大きすぎて真宵後輩に聞こえてないか心配になるほどだ。
「先輩が褒めるのは私だけでいいんです」
「はい?」
「だから先輩は私だけを見ていればいいと――」
背後から笑い声が聞こえて真宵後輩の言葉が途切れた。弾かれたように振り返れば、何人かの女性客が俺たちを見て朗らかに笑っていた。
その声を真宵後輩も聞いたようで不快感を露にして睨み付けている。彼女のつい屈服してしまう暴力的で怪奇的な美貌に睨まれては笑ってなどいられなかった女性客たちが、そそくさと去っていった。
「まったく……どこに行ってもこれです」
そうぼやいた真宵後輩は俺から離れ、おどおどとするニーナの手を握る。
「さっさと服を買って次に行きましょう。不愉快です」
さっきの続きが気になったが、訊ねたところで答えてはくれないだろう。
俺は遠くなっていく二人の背中を慌てて追いかける
「ん? どうかしたか?」
隣に並んだところでニーナが自分の右手と俺を見比べているのに気づいた。
「え……? ち、ちが、あの、ご、ごめんなさい……!」
「先輩はニーナになにをやらせてるんですか」
真宵後輩の軽蔑の眼差しに思わず息が詰まる。
こいつの目付きはある意味俺より悪いかもしれない。
「家を出る前に言ったではないですか。外ではニーナの手を握っててくださいと。……迷子になったらどうするつもりなんですか」
最後にもっともらしい理由を付け足したのはニーナが普通の子供に比べて敏いからだろう。下手に見透かされると後々面倒になると踏んだらしい。
好意的に見えても所詮は上辺だけだ。
真宵後輩のなかでは複雑に分別されるはずの人間関係が二つしかない。対象になるかならないかだけだ。
今のニーナは情報を引き出す対象であるから優しく接しているだけで、決着がつけば関係などなかったように振る舞うことだろう。異世界ではいつもそうだった。
こうして真宵後輩になつくニーナを見ていると、胸が苦しくなる。
それを払拭するようニーナの右手を握る。
「……あった、かい……」
ほにゃりと頬を弛緩させたニーナは控えめな笑顔を浮かべている。
ほんとうに楽しそうだ。
***
ニーナは見るものすべてが珍しいという顔ではしゃいでは、思わず腕を引っ張ってしまったに俺に怒られるのではないかと萎縮して、大丈夫だと苦笑するを繰り返していた。
歩くこと三十分。
外国人の子供と両手を繋いで歩く俺たちが周りからはどう見えているのか。こちらを見てひそひそとする噂好きそうな主婦たちの言葉を盗み聞きした感じでは、あまりいい印象ではなかった。
俺や真宵後輩はそういう無責任な悪意になれているので腹を立てることはなかったが、普通の子供より賢いニーナはそうではなく、顔面を蒼白にして何度も嘔吐いていた。
ニーナは悪意に敏感だ。自分にそれが向けられると思い、それが重圧となってしまう。
悪い兆候だと判断した俺たちは、人目のない場所に移動することにした。
一度は帰ろうとしたが、ニーナが首を激しく横に振ってそれを拒否してきたのだ。
そうしてやってきたのは公園だった。
子連れで遊びに来る大人もいるので、俺たちもそうだと思ってくれたのか、はたまた関心がなかったのか。真宵後輩とニーナの容姿に一瞬だけ見惚れただけで、あとは何の反応もしなかった。
「水でも買ってくるので先輩はニーナを見ててください」
ベンチに座り踞るニーナを一瞥して真宵後輩は公園から出ていく。
荒く呼吸を繰り返すニーナの背中を擦る。買ったばかりの上着は汗でびっしょりと濡れ、豪雨にでも打たれたような有り様だった。よく見れば小さな背中が小刻みに震えている。
「ごめん、なさい……」
嘔吐きながらニーナはそう口にする。
「叩かないで、ください……痛いのは、いや、です……」
必死に吐瀉物を堪えるニーナは縋るように懇願してくる。
まさかニーナが震えているのは、俺に殴られると思っているからなのだろうか。
そういえば真宵後輩が言っていた。ニーナの背中や腹部にいくつもの痣や擦過傷を確認したと。
ニーナにまともな衣服や食事を与えてないことから想像すると、暴力をも加えているのは間違いないだろう。痛みに恐怖を覚えているのは、ディクトリアが何度もニーナに暴力を振るったからだ。
きっとニーナは真宵後輩にしか心を許していない。真宵後輩にすれば情報を引き出す対象にでしかないが、ニーナにとってはそこだけが安らげる空間なのだ。
俺と二人きりの今は、いつ殴られてもおかしくない状況なのだろう。
「大丈夫。大丈夫だよ」
癖っ毛でわずかにウェーブのかかったブロンドの髪を撫でる。
「俺はニーナを殴ったりしない。痛いことなんてしないよ」
「どうして、ですか……?」
はっとしたニーナはぎゅっと目をきつく瞑る。
ディクトリアはニーナから言葉の自由さえ奪っているのか。
俺はぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜると、ニーナは目を白黒させて顔をあげた。
「どうしては俺が訊きたい。なんで俺がニーナを叩かなきゃいけないんだ?」
「だ、だって、マスターも、ほかの人も……みんな、わたしを……」
「待て。ほかの人だって?」
「ひっ! ご、ごめんなさい……!!」
俺の剣幕にニーナが頭を抱えて怯える。
やっちまったと渋面を作り思っていると、頬に冷たい感触が伝わった。
「ニーナだって怯えてるではないですか。そうやってすぐに眉間に皺を寄せるのは先輩の悪い癖ですよ?」
缶ジュースを片手にした真宵後輩が呆れたとばかりに嘆息していた。
ひょいと投げられたそれをキャッチしている間に、真宵後輩はニーナの隣に座る。
「いくらニーナが可愛いからといってロリコンを拗らせないでください」
「変な言いがかりはやめろ」
そう半眼で見返す俺を、しかし真宵後輩は構わず続ける。
「隠さなくたっていいんです。先輩はちっちゃくて年下の女の子に欲情して興奮する変態さんなのでしょう? 心配しなくてもわかってますよ」
「お前なぁ……」
わかって言ってるのか無意識なのか。
俺は缶ジュースのプルタブを開け、口をつける。
「ちっちゃくて年下の女の子って言ったらお前もそうだろ? つうことは俺はお前に欲情するってわけだけど、別にお前相手ならおかしくはねぇだろ」
その発言がもはや変態です、と言われる光景がよぎったが、一度吐き出した言葉を止められず最後まで言い切ってしまった。
二口ほど嚥下して、ふと違和感を覚える。いつもなら間髪いれず飛んでくるはずの言葉がいつまで経っても返ってこなかったのだ。
「おい、どうしたよ?」
「……え?」
マジでどうした。なんで呆然としてる。いつもの軽口だぞ。
やや困惑気味の俺だった。
「な、なんでもありません変た……かしぎ先輩」
「なんで言い直したんだよ。調子狂うな」
毒を吐きつけられなくて物足りなく感じるのもおかしい気もする。
ニーナも真宵後輩の様子がおかしいと感じたのか、遠慮がちに手を握っている。気分が悪いのも忘れ、どういった言葉をかければいいか迷っているようだった。
優しい少女だ。そして自己防衛機能の希薄な少女だ。
ニーナの元来の性格なのか、あるいは彼女を『機械人形』にした人間がそのようにしたのか。
「――と、まあこんな感じだ」
「……?」
脈絡のない俺の台詞にニーナが首を傾げた。
「俺も真宵後輩も、もちろんアウルもお前を傷つけたりしない」
ニーナが驚愕に目を剥いた。
「お前が自分の居場所を選ぶのは自由だ。誰にだって選ぶ自由がある。だから俺たちは、お前をオッサンから助けたいと思ってる」
「どう、して、ですか……? わたし、は……おにいさん、たちを、傷つけたのに……」
理解できないと言うように、ニーナは途切れ途切れに言葉を紡いでいく。
「なん、で……わたしを買った人は、みんな、わたしを叩いて――痛くて、苦しくて……おにいさんは、どうして助けて、くれるの……? 変、です……」
ニーナは嫌なことを思い出したのか目を伏せ、拳を固く握って身震いする。
ディクトリアが最初の主人ではないらしい。
いったい何人の人間がニーナを道具として売買していたのだろう。計り知れない恐怖と苦痛を味わい、泥を啜って生かされてきたニーナにとって、生きるとはどういうことなのだろう。
痛くて苦しくて――きっとニーナの世界は、それだけだったのだと思う。
誰かに優しくされるなんて幻想で、だからニーナの目の前にいる俺たちは、彼女が口にしたように変な人でしかないのだ。
「俺がしたいからするだけだ。お前はどうだ?」
「わた、し……?」
誰かを誰かを助けることはできない。
魔王を斃した――しかしそれで、異世界が平和になったと言えるだろうか。
結束した種族たちも共通の敵がいたからというだけで、魔王がいなくなった以上、禍根の残った者同士が協力する理由はない。国家間、種族間の戦争で多くの犠牲が出ることだろう。
魔王に家族を、土地を住む場所を、何もかもを失った人々の生活は果たして変わっただろうか。
たとえ諸悪の根源がいなくなっても、飢餓に苦しむ生活がすぐによくなるわけがない。
魔王を斃して誰かが助かったかと問われたならば、俺は否と答える。
だけど、これからよくしていくことはできる。
「このまま痛いだけの人生で終わるのか、それとも足掻いてでも新しい人生を始めるか」
選べよ――俺は選択肢を突きつける。
いくら俺が助けるだの救うなどほざいても、最後はニーナの意思がすべてだ。
「わたし、は……」
ニーナは涙で顔をぐちゃぐちゃにして、言う。
「わたしを、助けてください、おにいさん……!」




