第8章:復讐の火
側頭部への鈍い痛みに、エドマンドの意識はゆっくりと現実へと引き戻された。口の中に鉄の味が広がり、手足はきつく縄で縛り上げられている。目を開けると、薄汚れた部屋の床に転がされた自分の姿と、その傍らで腕を組み、冷ややかに自分を見下ろすギデオンの姿があった。
「目が覚めたか」
ギデオンは部下の一人に顎でしゃくった。
「そいつを袋に詰めろ。足に重しを括り付けて、テムズ川に沈めてこい。物盗りに失敗して、足を滑らせた。それで話は済む」
死。その冷たく絶対的な響きが、エドマンドの脳を貫いた。
こんな場所で、こんな連中の手にかかって、全てが終わるのか。父の無念も、私の復讐も、闇に葬られたまま。父が信じた「信用の道」が、こんな形で踏みにじられて、たまるか。
「……させるものか!」
最後の力を振り絞り、エドマンドは床を転がるようにして起き上がると、近くにいた男の足に頭から突っ込んだ。不意を突かれた男が体勢を崩し、部屋は一瞬の混乱に陥る。
「何をしている! 押さえつけろ!」
ギデオンの怒声が響く。
だが、死を目前にした人間の抵抗は、彼らの予想を遥かに超えていた。エドマンドは獣のように暴れた。縛られたままの体で体当たりし、蹴りつけ、噛みついた。部下の一人が彼を組み伏せようともみ合いになる。
その時だった。
振り払われたエドマンドの手が、壁際の古い木机に置かれていたランプに、激しく叩きつけられた。ガラスが砕け散り、中の鯨油が床に飛び散る。芯の灯していた炎は消えることなく、油の染みた床板や、近くに無造作に積まれていた防水用の油布へと、まるで生き物のように燃え移った。
「しまっ……!」
誰かが叫んだが、もう遅い。部屋は瞬く間にオレンジ色の光に包まれ、黒い煙が充満し始めた。
炎を操ってきたはずのギデオンの顔に、初めて焦りと恐怖の色が浮かんだ。彼は制御された炎の支配者ではあったが、己の意のままにならない野生の炎には、本能的な恐怖を覚えるらしかった。
その一瞬の怯みが、エドマンドに隙を与えた。彼は燃え盛る油布を足で蹴り上げ、ギデオンの部下たちとの間に火の壁を作る。そして、唯一の出口へと走った。
「逃がすか、小僧!」
我に返ったギデオンが、炎を回り込んで追いすがろうとした、まさにその時だった。
火の勢いに耐えきれなくなった天井の梁が、轟音と共に彼の真上へと落下した。いや、落下したのは梁だけではなかった。天井裏に保管されていた大量の油布が、巨大な火の塊となってギデオンの巨体を直撃したのだ。
「ぐあああああああああっ!」
この世のものとは思えぬ断末魔の叫びが、部屋中に響き渡った。自らが操ってきたはずの炎に焼かれ、ギデオン・ブラックソーンは巨大な火達磨と化し、その場に崩れ落ちた。
エドマンドは、入口の戸口で呆然と立ち尽くしていた。復讐は、果たされた。憎むべき仇は、目の前で燃え尽きていく。だが、彼の心を満たしたのは、勝利の歓喜ではなく、ただ空虚な虚しさだけだった。
その時、外から突風が吹き込み、割れた窓から室内に渦を巻いた。炎は風をたっぷりと吸い込み、まるで竜が天に昇るかのように勢いを増す。火はヤードの建物を完全に飲み込むと、隣の建物へ、そのまた隣の建物へと、恐ろしい速さで牙を剥き始めた。乾ききった木造家屋が、次々と新たな薪となっていく。
十四年前の悪夢の再来。
煙の中を命からがら逃げ出したエドマンドは、理性を失ったまま、ただ一つの場所を目指して走った。トマスのアパートだ。
「私が……私が火を……」
煤にまみれ、錯乱したように繰り返すエドマンドを、トマスは力強く抱きとめた。
「ギデオンは死んだ。だが、街が、私のせいで街が燃えている……!」
「落ち着け、エドマンド!」トマスの真剣な声が、エドマンドの耳に突き刺さる。「君は真実を見た。そして、悪党は裁かれたんだ。だが、もう誰も君の言葉を信じはしない。街を焼いた放火犯として、君は追われることになる」
トマスはエドマンドの肩を掴み、その目を見据えた。
「君は生き延びるんだ。生き延びて、この先を、この世界の理不尽さの行く末を見届けろ」
その言葉に、エドマンドはかろうじて頷いた。復讐の代償は、街を焼く罪人という、決して消えることのない新たな烙印だった。彼は、この灰の街から逃げることを、決意した。