第六十九章 疑心暗鬼
エドムンドとナフマンが蒔いた「聖なる毒」は、ローマ教皇庁という、ヨーロッパで最も神聖で、同時に最も権力欲にまみれた土壌で、驚くほどの速さで芽を出した。
ヴァチカンの壮麗な回廊や、枢機卿たちの私邸のサロンで、囁きが始まる。
「聞いたか? オルシーニ枢機卿が、またポルトガル王から莫大な献金を受けたらしい。甥の昇進は、そのおかげだとか」
「おかしい。ポルトガル王は我らハプスブルク派の修道院にも寄進している。まるで両天秤にかけているようだ…」
ナフマンの蜘蛛の巣は、火に油を注いだ。
偽の証拠——フランス派の枢機卿がハプスブルク派と裏で通じているという文書。
偽の帳簿——ハプスブルク側がポルトガル金で仲間を買収しているという記録。
真実と嘘を織り交ぜた情報が、静かに、しかし確実にヴァチカン全体を覆っていく。
かつて鉄の結束を誇ったフランス派の枢機卿たちにも、疑心暗鬼が生まれた。互いを裏切り者と疑い、もはや外の敵――ハプスブルク派と戦うのではなく、内部で犯人探しと醜い権力争いを繰り返す。エドムンドとナフマンの毒は、ゆっくりと効き始めていた。
その頃、リスボン。
エドムンドは「ハーグリーヴス商会」の主人として穏やかに振る舞っていた。彼は定期的に国王ジョアン5世の元を訪れ、ローマから届いた「感謝の手紙」を恭しく報告する。
「陛下。陛下のご支援により、教皇はポルトガルをカトリック世界で最も忠実な息子と見做しております。フランスでさえ、陛下の影響力に敬意を払わざるをえません」
若き王は満足げに笑い、次の寄進のための国債に快くサインをした。
彼が想像もしないのは、その金が同盟国フランスの外交的生命線を断つ毒の矢となっていることだ。
秘密の島の作戦司令室。
デュゲ=トルアンは苛立ちを隠せない。
「ヘイル! お前、最近は陸にばかりいるな。次の獲物はどうする? 俺の剣が錆びるぜ」
エドムンドはローマから届いたナフマンの報告に目を走らせ、ゆっくり答えた。
「待て、提督。もう少しだ」
報告書の一節を読み上げる。
「…内部対立の激化により、フランス派のオルシーニ枢機卿、失脚。フランスは教皇庁における重要な影響力を失った。第一段階、完了…」
エドムンドはその紙片を静かに暖炉の炎へ投げ入れる。
炎が黒紙を舐め、言葉はゆっくり消えた。彼の表情には、フィリップを失った悲しみの影はもはやない。あるのは、巨大な敵の腕を一本確実にもぎ取った者だけが抱く、冷徹で恐ろしい満足感だった。
「そろそろ、次の狩りの時間かもしれぬな」
彼の声は柔らかく、しかし揺るがない。
エドムンドのフランスへの復讐は、まだ始まったばかりだった。




