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第五十七章 海の要塞

ドン・ペドロ二世が崩御し、若きジョアン五世が即位したことで、リスボンの政治は新たな、そして不安定な季節を迎えていた。エドムンドは、亡き王との約束どおり、新王の後見人としてその影響力を静かに、しかし確実に宮廷の奥深くへと浸透させていった。


 その動きを、イングランド商人たちはもはや指をくわえて見ているだけではなかった。サー・リチャード・スターリングが失脚した後、商人団の新しい代表となったハリントン卿は、スターリング以上に狡猾で冷酷な男だった。彼は、エドムンド・ヘイルという存在が単なる商業上のライバルではなく、ポルトガルにおけるイングランドの国益そのものを脅かす政治的な脅威であると、ロンドンの本国政府に訴え続けた。


「若きジョアン王は、完全に、あの正体不明の商人ヘイルに籠絡されている。このままでは、ブラジルから来る全ての金がフランスの息のかかったあの男の手に落ちるだろう。これは、スペイン継承戦争の第二戦線と言うべき事態だ」


 ハリントン卿のこの危機感を煽る報告は、ついにイングランド政府を動かした。その報せはナフマンのネットワークを通じて、アゾレス諸島の秘密の拠点にいるエドムンドたちのもとへ届けられた。


――イングランドは王国の威信をかけ、ファーストレート戦列艦「ロイヤル・ソブリン号」を、リスボン航路へ派遣する。

逃げよ、さもなくば滅びる。


 エドムンドは深く息を吐き、羊皮紙を握りしめた。


「……ロイヤル・ソブリン号。名は聞いたことがあるが、実際にどれほどの船なのだ?」


 机の向かいでワインをあおっていたルネ・デュゲ=トルアンが、口角を上げる。


「ファーストレート――イングランド海軍の切り札よ。三層の砲列甲板に百門を超える大砲。乗員は八百以上。ひとつの街をそのまま海に浮かべたような、最強の怪物だ」


 エドムンドは絶句した。


「……八百? それはもはや軍隊ではないか」


「そうだ。正面から挑めば、我らのフリゲートなど紙切れ同然に吹き飛ばされるだろう」


 デュゲは指で机上の海図を軽く叩いた。


「だがな、エドムンド。あの巨艦は鈍重だ。大砲の実用射程はせいぜい三百メートル。精度はさらに劣る。つまり――奴の土俵で戦わなければいい」


「正面から挑まねば……いい?」


「そういうことだ」デュゲの目は夜の狼のように光った。「俺は罠を仕掛け、奴を動かす。源八の牙を見せつけてプライドを砕き、冷静さを失わせる。そうすれば、海の要塞といえど、ただの獲物にすぎん」


 エドムンドは苦笑を浮かべた。


「君は狼かと思えば、狐のようでもあるな」


「狼でも狐でも構わん。だが一度、俺の罠にかかった獲物は二度と海へは戻れん」


 蝋燭の炎が揺れ、部屋の外には海の匂いが漂ってくる。エドムンドは羊皮紙を見下ろしながら、心の奥底に冷たいものが広がるのを感じていた。


――イングランドの切り札。――海の要塞。


 彼は軍事には疎い。だが、目の前の男が「勝機はある」と断言する以上、信じるしかなかった。そして、史上最強の艦と、たった四隻の黒いフリゲートとの、常識を覆す戦いがいよいよ幕を開けようとしていた。

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