動き出す。
「姫紗、姫紗、姉さん-----」
体が重い。
全身が泥の塊になったようだ。
どこかへ落ちていくような気がするのに抵抗する気がおきなくて、子守唄のような優しい声音に耳を傾けてそのときがくるのを待った。
このまま本当に、どこかへ落ちていくことができたなら、私はこの運命から解放されるのだろうか。
「姉さん、姫紗、姫紗、姉さん―――――」
それでも絶え間なく響く呼び声が、私を今生に引き止める。
ぐっと何かに片腕を握られて、遠くに飛びかけていた意識が一気に引き戻された。
暗闇に光が差して、やがてそこに、見慣れた弟の顔を見つけた。
翳んでいた視界がはっきりすると、弟の伊織が柔らかく笑みを作る。
どうやら、嫌な夢を見ていたようだ。
いや、ただの夢ではない。つい先日、血を吐いて倒れたときのことを夢に見ていたのだ。
「いつ、帰ってきたの?」
息がかかるくらいの距離で私の顔を覗き込む琥珀色の瞳が暗闇の中で小さく光を含んだ。
ちらりと時計に視線を走らせると、自分から興味が反れたのが不服だったらしい伊織が「姫紗」とまた私の名を呼んだ。
つい最近まで、可愛い声で「ねえさま」「ねえさま」と私の後を追ってきていたのに何があったのか、ここ数ヶ月で急激に大人びたような気がする。
とは言っても、私の一つ下で、少年と呼ぶのにもまだ早い気がするほどに幼い。
普段は血が通っていることさえ信じられないくらいに色の白い肌を僅かに紅潮させて、私の頬に自分の顔を近づけてくる。
「また、熱があるんだって?」
続けざまに、その小さな手で私の首筋を探る。
「そんなに高くないの」
「ううん、高熱だよ」
「そうかな?」
「うん」
ふと降りた沈黙に、やっと壁掛け時計に目を移せば、ちょうど夕方の4時を差しているのが見えた。
橘がこの部屋を訪れたのが午前中だから軽く7時間は眠っていたことになる。
「ねえ、姉さん」
8歳の男の子が出すには、少し不穏な気配を感じさせる声音に心臓が小さく音をたてた。
少し驚いただけだというのに、私の胸は引き攣れたような痛みに震える。
何とかそれを誤魔化しながら微笑みで返すと、
「僕の通っている小学校に近くに、父様のマンションがあるの知ってる?」
何の脈絡もなくそんなことを問われる。
不自然な話の流れに、何か大切なことを話すのだろうと、ただ肯いた。
父親から直接聞いたわけではないが、数年前、使用人たちがそのようなことを噂し合っていたような気がする。
めったにこの部屋から出ることはないのに、それでも偶然、その話を聞くことになったのだから、よほど頻繁にこの話をしていたのだろう。
『旦那様がマンションを購入されたらしいわよ』
『また?こんどはどこなの?』
『伊織様の小学校に近くですって』
『誰のお部屋なのかしら』
『最近は、綾燕のお嬢様を可愛がっておられるとか』
『まあ!じゃあ、その方の為のお部屋なのね』
綾燕というのは家名だろうか?と、そんなことを思ったのを覚えている。
その後、私が立ち聞きしていることに気づいた彼女たちは慌てて口を噤み、笑顔で取り繕った。
全く誤魔化しきれていなかったけれど。
まだ幼い私が、会話の内容を理解しているとは思わなかったのだろう。
実際、そのときはまだ前世の記憶などなかったのだから、話の内容が理解できたわけでも、使用人たちの他愛もない噂話に関心を抱いたわけでもなかった。つまり、年相応の思考だったわけだが、記憶が戻ってみれば、当時、彼女たちが何の話をしていたのかがはっきりと分かった。
父の愛人の話だったのだろう。
「何で姉さんが知ってるのか追求したいところだけど、時間の無駄だから今はやめておくね」
にっこり笑った伊織がおもむろに私の背中の下に、その細い腕を差し込んできた。
起きろ、ということだろう
寝起きの気だるい体では体を起こすのも一苦労だ。
それでも伊織が介助してくれるからだいぶ楽ではある。
幼少期は女の子のほうが体格が良いはずであるのに、一つ上であるにも関わらず、私のほうがだいぶ小さく、ほとんど持ち上げられるような格好になった。
起き上がると、すかさずクッションを背中に入れてくれた。
一度体調を崩すとなかなか本調子に戻ることができないので、ただ座っているだけの動作でもしんどい。
それほどに、今生の肉体は脆弱なのだ。
体勢が整うまでベッドの上でもぞもぞと動いていると、その間に、伊織がどこから出したのか旅行カバンを洋服ダンスの前に放り投げた。そしてそのまま、私の服をばさばさと詰めていく。
「伊織?」
いつもだったら名前を呼べば、どんなに遠くにいたとしてもすぐに反応をしてくれるのだが、何かに焦っているのか、こちらを見ることもなく、ただ只管に私の洋服を引き出しから抜き取っていく。
「ごめんね、今、時間ないから」
早口で言うなりパンパンに膨れた旅行カバンのチャックを閉める。
「橘が来るはずだから、そのまま待ってて」
「・・何?どういうことなの?」
「遅くなってごめんね」
「・・伊織?」
そして、私の手を握り締めると、降りきるようにその手を離した。そして、旅行カバンを肩にかつぎ、伊織は慌しく部屋を出ていく。
一体、何事なんだろうと、部屋の入口を眺めていたが、伊織が戻ってくる様子はなかった。
壁掛け時計がチクタクと時を刻む音だけが響いている。
そうやって何もしないでいると、熱があるせいか、頭がふらふらとしてきて体を起こしているだけでも辛くなってくる。
伊織は待っているように言っていたが、どのくらいの間待てば良いのだろうと不安になってくる。
どくどくと脈打つ心臓の音がやけに鮮明に聞こえる。
例えば、このまま誰も来なかったら。
そういう不安はいつだって、ある。
この狭い部屋で、一人きりで死ぬことになるのだろうかと、そんなことまで考える。
「君のひかり」の中で、九条姫紗という人間は、確かに高校生くらいの年代で登場していたが、実年齢はよく分からない。
確か、病弱であまり学校には通えていないという設定だった。
小説の中では確かに生きているのだが、何といっても、姫紗は黒幕ということもあり、その詳細については伏せられていた。
彼女のプロフィールにはただ「病弱」とだけ書き込まれ、物語の序盤では名前さえ出てこなかった。
だから、そんな風にただ一言だけ書き込まれた「病弱」という設定が、こんなにも辛いものだとは予想もしていなかった。
小説の中の彼女は、その病弱さでも、色々な悪事を画策していたようだが、現実の私にはそんな体力も思考能力もない。
とりあえず、今日を生きよう、明日まで生き抜こう、それだけを考えて日々を過ごしている。
それとも、ある日突然、気力が回復することがあるのだろうか。
そうであれば良いとは思うが、そんなのはしょせん夢物語であるということも分かっている。
あれは、あくまでも小説だったから、ああいう設定でも話を進めることができたのだ。
現実の私は、呼吸することさえ、苦痛に思っている。
はあ、と大きな息をつくと、
「お待たせしました、姫様」
いつの間にやら橘がそこにいた。
しかもなぜか、キャリーバッグを携えて。
「洋服とかは伊織が持っていってしまったから、もうないわよ」
不思議に思いながら首を傾ぐと、橘は苦笑して首を振った。
「ここに入るのは洋服ではなくて、貴女ですよ」
発言の意味が分からず、思わず「は?」と言いそうになる。
けれどかろうじて、言葉を封じることには成功した。
唇だけが「は?」の形を作ったまま停止している。
「姫様にはちょっと僕に誘拐されていただこうと思いまして」
続けて言われた言葉に、また「は?」という言葉が零れそうになった。
しかし、橘はうっすらと微笑を浮かべた、だけど真剣な顔つきで私の体を持ち上げた。
一緒に毛布ごと掴み上げられたので、キャリーバッグの上に座らされても痛くはない。
「説明とか、ないの?」
「申し訳ありません。今は何分急ぎなものですから。息苦しいかもしれませんが、屋敷を出るまでですので、ちょっとだけ我慢してくださいね」
てきぱきと私の体を小さく丸めて、ぶつかって痛いかもしれませんからと、一緒に毛布を敷き詰めていく。
私の体が小さいからなのか、キャリーバッグが大きいからなのか、私が中に入っても余裕がある。
橘は、もう一度「申し訳ありません」と謝辞を述べてから私に横になるよう指示して、そっとふたを閉めた。
しばらくすると持ち上げられたのが分かる。
キャリーバッグなのだから引いていけば良いのに、私に振動が伝わるのを考慮しているのだろう。
重いだろうに、わざわざ持ち上げて運んでいるのだ。
途中で、何度か、使用人らしき女性と橘が言葉を交わしているのが分かったが、橘がちょっと遠方へ出張なんですよ、と言うと誰もが納得して会話を切り上げた。
そんな感じで、この屋敷のセキュリティは大丈夫なの?とは思ったが、結局は、橘の人徳が成せる技なのだろう。そう考えるとすごく納得がいった。
しばらくの間暗闇の中でゆらゆら揺られていると、ぼすん、とどこかに置かれる。
そう思った瞬間、ケースのふたに隙間ができた。
少しずつ差し込んでくる光に目を細めていると、
「ごめんね、苦しかったでしょう」と、伊織の声。
完全にふたが開いて、身を起こせば、どうやら車の後部座席に運ばれたらしいことが分かる。
しかし、いつも伊織の送迎に使っている車ではない。あれはいかにも高級車と分かる代物で、他の同級生に見せ付ける意味合いもある。
「友人に借りたんですよ」
私の疑問に的確に返事をしたのは、運転席でハンドルを握っている橘だ。
我が家には、こんな、いかにも実用的な小型のバンはなかったはずだから、彼は本当のことを言っているのだろう。
「もう、出ても大丈夫だよ」と伊織に言われて体を持ち上げられる。
いくら体格が違うとは言え、弟にこんなに簡単に体を持ち上げられようとは私ももっと太らなければいよいよ危ないのではないかと不安になる。
「少し息が上がってる。到着まではまだ時間があるから横になってて」
二列になっている後部座席の後ろ側にスーツケースを投げ落としながら伊織が自分の横をぽんぽんと叩く。確かにそろそろ体力が限界だったので、言われるがまま、シートに敷かれた毛布に横になった。
下から見上げると伊織がニコニコ笑いながらこちらを見ている。
「どこ行くの?」
「逃避行だよ、姉さん」
「・・逃避行?」
ごくごく自然な仕草で、自分の膝に私の頭を導く弟。
小さい彼の膝では、ごつごつしていて少し痛い。
だけど、断れば断ったでこの子の機嫌が急降下するのは分かっているから黙って従う。
「向こうに移動するのにちょっと手間取っちゃって。父様には許可をもらったんだけど、あの人には何も言ってないから」
『あの人』と呼びながら器用にも顔をしかめた伊織を眺めていると、なぜか「ごめんね」と誤られる。
「こんなことになっちゃったのは僕の責任でもあるんだけど、この前みたいに、姉さんを死の危険にさらすことはできそうにもないから」
この前、というのは私が大量に吐血したときのことを言っているのだろう。
おかげで私は前世の記憶を取り戻すことができたのだから、まさしく不幸中の幸いとでも言うべきなのだろうか。
決して思い出したかったわけではないけれど、知らずにいるよりはずっとマシだったかもしれないと思えるようになった。
これから起こるだろう出来事を回避できなかったとしても、覚悟を決めているのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。
「ねえ、姉さん。僕は覚悟を決めたんだよ」
閉じた目の上から、弟がその小さな手を乗せてくる。
子供の体温というのは温かいはずなのに、指先はなぜか冷たかった。
「僕は、絶対に姉さんを守るから」
前世で読んだ小説の中では、九条姫紗の過去なんてほとんど語られなかった。
なぜ彼女が悪事を働いたのか、なぜ主人公を陥れようとしたのかについてはそれとなく語る場面はあるが、そこに至るまでの過程はほとんど描かれていない。
小説を読んでいた、一読者である私は、ただ単に、彼女のことを酷い女だと思っていたし、彼女が身を滅ぼすときには両手を叩いて喜んだ。
だけど、たった数年を九条姫紗として生きてきた私には、彼女の行動原理が理解できるし、悪事に手を染めた彼女の気持ちにも共感できる。
体力のことは別にして、気持ちだけの問題で言えば、私にもしも前世の記憶がなかったとしたら、きっと彼女と同じ道を選んだに違いない。
九条姫紗は、どうしようもなく孤独だ。
前世の記憶があって、それなりの年齢を重ねているはずの私でさえそう思う。
幼く、病弱で、明日をも知れない一人の少女がベッドの上でできることと言えばただ細く息を繋ぐこと。
そんな彼女には、たった二人だけ彼女のことを慈しんで大切にしてくれる存在があった。それが、弟と父の秘書だ。
言えば、彼らだけが、九条姫紗にとっての真実だった。
そんな彼らが、姫紗を捨てて主人公を選ぼうとしている。
それを知ったときの、彼女の気持ちを思うとき、私の心臓は壊れそうなくらいに激しく痛む。
怖かったのだ。
きっと、ただひたすらに怖かったのだ。
唯一と思っていた人たちが、自分の元から離れてしまうのが。