17
side 千歳
『千歳なんか大嫌い!』
大好きな彼女が初めて怒りながら、初めて自分の名前を呼び捨てにして、初めて大嫌いと言った。
大嫌いに至っては、他人から言われたことそのものが人生で初めてかもしれない。
あまりにも信じられない出来事に、プーップーッと通信が途絶えているのを理解しながらも、放心状態でしばらく固まっていた。ようやく現実に戻ってきたのは彼女の声が聞こえなくなってからどれくらい経った頃だろうか。
「ハハッ、あははははっ」
なぜだか乾いた笑いが出てきて、止まらなくなった。不思議と悲しさはなくて、どことなく嬉しいような、それでいて楽しい気持ちになっていた。
「喧嘩、だよな」
そう呟いてまた、はははっと笑ってしまう。俺とことちゃんは世間一般で言うところの『順調な交際』を続けていると思う。ただしそれは、あまりにも順調すぎて逆に不自然なほどだった。
付き合い始めまではお互いの存在が不明で不安定だったものの、付き合う形に至ってお互いの存在を明かしあってからはなんの柵もなく、一点の問題すら感じないほどに穏やかに過ごしていた。いや、一点の問題も……は言い過ぎかもしれない。俺にとっては切っても切れないほど、無視したくても無視できない『年齢の壁』があった。ただしそれは俺一人が勝手に感じていることで彼女は気にしていないかもしれない。
そしてそんな彼女――ことちゃんとの順調さの一つに、俺は気になっていることがあった。それは俺の性格と、ことちゃんの性格のせいだろうけれど……とにかく、喧嘩というものを一度もしたことが無いことだ。それも1年以上も付き合って、それこそ2日と空けずにメールや電話をして、少なくとも月2回以上は会っているのにも関わらず、だ。
いくらなんでもそれは順調を超えて不自然じゃないかと思っていた。そう思って考えた結果、浮かんだのは『彼女が我慢しすぎているかもしれない』という結論。俺はいつも通りで普通に過ごしている……つもりで、いや、違うのかもしれない。
去年、二人で並んで撮った花火大会の写真を見つめながら、俺はベッドに転がって今日の出来事を振り返った。
――――――
「はぁ? じゃあお前さ、中三の女子中学生に手ぇ出したの!?」
「オイ、人聞き悪いこと言うな。事実を曲げるな」
「曲げてない。俺は、俺は曲げてないぞ」
久しぶりに地元に帰ってきた俺の親友とも呼べるリンと俺は、家で話していた。リンはこっちに転校してきて初めてできた友達で、以来ずっと仲良くつるんでいる一番の友達だ。
林を音読みしてリンと呼んでくれ、なんて自己紹介に大笑いして友達になって。そのまま仲良くなって興味もないのに生徒会にまで巻き込まれた。そのお蔭で学校に馴染むのも友達が出来たのも早かったから、リンには感謝しているし友達として尊敬する部分も多い。多い、けど……
「いやー、犯罪っしょ、神楽さん」
「犯罪言うな」
「お前、二十歳になっただろ? 相手、未成年。うわー淫行!? セーラー服が熱い!!」
「阿呆っ」
時に『下ネタで暴走するところがキズ』なリンの頭頂に、チョップを食らわせた。
「ってー! 俺は悪くないぞ神楽」
「勝手に事実を改ざんするな。俺は淫行に当たるようなことはしてない」
「……は?」
俺の言った言葉に衝撃を受けた様子で、リンは目を見開いて、まるでバケモノにでも遭遇したかのような表情で俺を見た。俺はその顔に耐え切れず、ペットボトルに入った水を飲んで顔を逸らす。
――だから言いたくなかったんだよなぁ
そんなことを今さら思ったところで後の祭りだと言うことは十分に分かっていながらも、俺は苦虫を潰したような表情を引っ込めることなく片肘を付いた手の上に顔を乗せた。
「悪い。俺の勘違い……いや俺とお前の間に相違はないかの確認をしたいんだけど」
「……どーぞ」
「俺の指した淫行っつーのは、未成年者に対してのイカガワシイ行為であって。それはつまり古い表現で表すとだな。男女が交ぐわうともいうもので、あーっとつまりだな」
マグワウって、言うか? 普通というツッコミを頭の中でしながらもあえて黙っていると、意を決したような真剣な表情で、ただし目は笑っていると言うオプション付きの顔で俺を見ながら奴は言った。
「ヤッてないってこと?」
「今までの長い説明なんだったわけ」
静かに言い返しつつ、わざと質問に答えなかった。これではイエスと言ってるのと同じだと自分でも分かっていたけれど、どうしても『是』と言いたくない気持ちがある。
「俺の記憶違いでなければ、彼女とは1年以上付き合ってるんだよな」
「そうだな。ことちゃんが高校受験に合格した日が、そうだと俺は思ってるから」
「……つーことは、さ。え、何? やだー千歳さん、まさかイーデぃ」「死ね」
失礼な発言をかます友を、俺は秒殺で黙らせた。本気でないとは分かっていても、言われるのは癪に障る。わざとらしくため息を吐くと、リンはだよなぁと呟きながらサイダーをゴクリと飲んだ。
「俺もさ、お前が不能とは思ってないけどさー。つーか草食でもないよなぁ」
「普通だろ、多分」
「まー、多分?」
ニヤリと笑って俺を見るリンと目が合って、俺はぎこちない笑みを浮かべた。
リンとはあらゆることを共有してきている。俺も普通の学生ってやつをやっていて、普通にエロ本を見たこともあれば、ビデオやらも見たことがある。とはいえ、そんな疑似空間にそこまで酔うことはなく、付き合い程度に見たことがあるだけで――探せば誰かが置いて行ったかもしれない本が1、2冊くらい家の中に見つかるかもしれない、くらいのものだ。
「我慢してる理由は?」
「リンが最初に言っただろ。淫行になるのは御免だって」
「固っ! 神楽、頑固爺かよ」
「……ってのは建前で、さ。半分は意地ともう半分は前のことがあるから、かな」
「前ってのは、ふーちゃん?」
尋ねられて頷くと、はぁーっと息を吐いきながら脱力してソファーにもたれ掛った。彼女との付き合いは今思い返しても苦い出来事で、それは自分の錘になっている。他人は俺を悪くないと言うかもしれないけれど、俺は過去の自分が許せない気持ちと、怖い気持ちがあった。
「そんなにお前とふーちゃんが付きあったことって悪いことか?」
「さぁ……どうなんだろうな。たださ、怖い。ちょっと」
「何が」
「俺、ほんとに好きなんだ琴莉が。一回手に入れたら、手放せなくなる」
「ははっ、お前惚気すぎ」
「笑い事じゃないって」
踏ん反り返ったままリンの足を蹴ると、いってーなぁと言いながらやり返された。げしっとけり合いをしていたら、途中で真顔になったリンが言う。
「神楽さ。まさか結婚まで考えてたりすんの」
「……そのまさかだけど」
当然とばかりにそう言いかえすと、信じられないって顔で凝視されて俺は視線を逸らした。言われるだろうとは思っていたけれど、予想通りの反応をされて流石に嫌な気持ちになる。
「いやでも、かなり先だろ。それにお前って……」
「そうだよ。いや違うな。今まではそうだったけど、今は違うことを考えてる」
「違うこと?」
「就職先、変えようかなって」




