幕間エピソード「看板娘の小さな夢」
冒険者宿屋――宿木亭の朝は食堂から始まる。
焼きたてのパンの香り。鍋で温められたスープの湯気。階段を下りてくる冒険者たちの足音。
その中を、くすんだ赤毛を揺らしながら、一人の女性が忙しそうに動き回っていた。
「はい、パンのおかわりね。スープは熱いから気をつけて!」
「アリサ、こっちにもパンを頼む!」
「はいはい、順番にね。パンは逃げないから!」
アリサは笑顔で答えながら、空いた皿を片づけていく。
マリンブルーの瞳は、食堂の隅々までよく見ていた。
誰のスープが空になりそうか。誰が追加のパンを欲しがっているか。そろそろ出発しそうな冒険者は誰か。
長年この宿屋で働いてきた彼女にとって、それらを把握するのは難しいことではなかった。
「アリサちゃん、今日も元気だねえ」
常連の冒険者が声をかける。
「もちろん! 朝から元気じゃないと、みんなのお腹が満たせないでしょ?」
「いやあ、俺はアリサちゃんの笑顔で元気をもらってるんだけどな」
「はいはい、そういうのは食事代に上乗せできないからね」
周囲から笑い声が起こった。
この宿屋には、アリサ目当てに顔を出す冒険者もいる。
本人もそれを知らないわけではないが、特別扱いするつもりはなかった。
常連には気安く、新顔には愛想よく。無茶な冗談には軽く釘を刺す。
それがアリサ流だった。
*
朝食の時間がひと段落すると、アリサは厨房へ戻った。
食器を洗い、昼食の仕込みを手伝い、母親から頼まれた食材の在庫を確認する。
宿屋の仕事は、客の前に立っている時間だけでは終わらない。
「お母さん、蜂蜜ってまだ残ってたっけ?」
棚を確認しながら尋ねると、厨房の奥から母親の声が返ってきた。
「小さな壺がひとつあったはずよ。どうしたの?」
「ちょっと、お菓子を作ってみようかなって」
「また新しいお菓子?」
「新しいっていうか、前に聞いた作り方を試してみたいの」
アリサは棚の奥から壺を取り出した。
中には、淡い琥珀色の蜂蜜が残っている。
彼女は壺を傾け、残量を確かめた。
「うーん……これだと、たくさんは作れないか」
「宿のお客さんに出すの?」
「ううん。まずは試作。うまくできたら、みんなにも食べてもらうよ」
アリサはそう答えながら、少しだけ表情を引き締めた。
彼女には、いつか大きな街で菓子職人として働きたいという夢がある。
けれど、今はこの宿屋を離れるつもりはなかった。
本来なら家を継ぐはずだった兄が冒険者になり、家を出た。残されたアリサが宿屋の仕事を担うことになったのだ。
もちろん、兄ばかり自由に冒険できてずるいと思うことはある。
自分だって、知らない街へ行ってみたい。評判の菓子店を訪ねて、職人の技を間近で見てみたい。
それでも、この宿屋が嫌いになったわけではなかった。
父や母、弟がいて、顔なじみの冒険者たちが毎日のように出入りする。
ここには、ここでしか味わえない楽しさがある。
だから今は、できることから始めていた。
宿屋の仕事をこなしながら、料理を覚え、お菓子の作り方を集める。
いつか夢をかなえるために。
「……よし。昼の仕事が終わったら、少しだけ試してみよう」
アリサは蜂蜜の壺を棚へ戻した。
そのとき、食堂の方から声がした。
「アリサー! ちょっと聞きたいことがあるんだが!」
「はーい! 今行く!」
夢の続きは、ひとまずおあずけだった。
*
昼食の時間。
食堂は朝とは違う顔ぶれで賑わっていた。
朝早く出発した冒険者が戻ってくることもあれば、昼過ぎに到着した旅人が食事を取ることもある。
アリサは料理を運びながら、客たちの会話に耳を傾けていた。
「聞いたか? 北の街道で新しい薬草の採取場所が見つかったらしいぞ」
「それ、どこからの情報だ?」
「ギルドで聞いた。まだ詳しい場所までは出回ってないみたいだがな」
「へえ。それなら、次の依頼で調べてみるか」
アリサは皿を置きながら、さりげなく尋ねた。
「新しい採取場所? どんな薬草なの?」
「傷薬に使うやつだ。詳しくはまだわからん」
「ふうん。じゃあ、場所がわかったら教えてね。うちのお客さんにも採取依頼を受ける人がいるから」
「おう、いいぞ!」
アリサはにこりと笑い、次のテーブルへ向かった。
街の噂や冒険者の動向に詳しいのは、こうした毎日の積み重ねがあるからだった。
誰がどの依頼を受けたのか。どの街道が通りやすいのか。どこの店が品切れを起こしているのか。
食堂で交わされる何気ない会話には、意外と役に立つ情報が転がっている。
もちろん、すべてを信じるわけではない。
アリサは話を聞くとき、誰が話しているのか、どこから聞いた話なのかも覚えていた。
人懐っこい笑顔の裏で、そうしたことをきちんと見ているのだ。
「アリサちゃん、ちょっといいかい?」
今度はカウンターに座っていた中年の冒険者が手を挙げた。
「なあに?」
「最近、甘いものを売ってる店が増えたって聞いたんだが、この辺りにもあるか?」
アリサの足がぴたりと止まった。
「……甘いもの?」
「ああ。焼き菓子とか、蜂蜜を使った菓子とか。旅の途中でそんな話を聞いてな」
「どこの街?」
「さあ、どこだったかな。確か、東の方だったと思うが」
アリサは身を乗り出した。
「ねえ、それって、どんなお店だったの? お菓子の種類は? 値段は? 職人さんが店で作ってるの?」
「お、おう……」
冒険者は目を丸くした。
先ほどまでの軽い世間話が、いつの間にか尋問のようになっている。
「アリサ、顔が近いぞ」
隣のテーブルから別の冒険者が笑いながら口を挟んだ。
「あっ、ごめん!」
アリサは慌てて身を引いた。
「だって、気になるじゃない!」
「甘いものの話になると、急に目つきが変わるんだなあ」
「変わってないよ!」
「いや、変わってる変わってる」
食堂に笑い声が広がる。
アリサは頬を膨らませたものの、すぐに笑顔へ戻った。
「とにかく! 次にその街へ行く人がいたら、詳しく聞いてきてね!」
「はいはい。覚えてたらな」
「絶対だからね!」
彼女の声が食堂に響いた。
その様子を見ていた母親が、厨房の入口で小さく笑っていた。
*
午後。
客足が落ち着くと、アリサはようやく自分の時間を作ることができた。
厨房の隅に小さな作業台を用意し、粉と砂糖、それから少量の蜂蜜を並べる。
今日試すのは、蜂蜜を混ぜた焼き菓子だった。
以前、旅の菓子職人から聞いた作り方を思い出しながら、生地をまとめていく。
「ええと……蜂蜜を入れると、焼き色がつきやすいんだっけ」
分量を確かめ、慎重に生地を練る。
宿屋の仕事で料理は慣れているが、お菓子作りは勝手が違う。
ほんの少し分量を変えるだけで、食感も甘さも変わってしまう。
アリサは生地を小さく分け、形を整えてから焼き窯へ入れた。
しばらくすると、甘い香りが厨房に広がり始めた。
「……いい匂い」
思わず頬が緩む。
焼き上がった菓子を取り出し、少し冷ましてからひとつ手に取る。
見た目は悪くない。
表面にはほどよく焼き色がつき、蜂蜜の香りも感じられる。
アリサは期待を込めて、ひと口かじった。
「…………」
数秒、黙り込む。
「……うん。悪くはない」
もうひと口。
「でも、ちょっと固いなあ」
アリサは菓子を半分に割り、中の生地を確かめた。
焼きすぎたのか。それとも、生地を練りすぎたのか。
原因を考えながら、小さな帳面を取り出す。
今日の分量と焼き時間を書き込み、その横に短く記した。
――少し固い。次は蜂蜜の量と焼き時間を調整する。
帳面には、こうした記録がいくつも残されていた。
失敗した菓子のことも、うまくできた菓子のことも。
いつか自分の店を持てるかどうかは、まだわからない。
大きな街へ行く時期だって決まっていない。
けれど、こうして一つずつ試していくことはできる。
「次は、もうちょっと柔らかく……。あとは香りを生かして……」
アリサは帳面に書き足した。
「おい、アリサ。まだ何か作ってるのか?」
厨房を覗き込んだ父親が、焼き菓子をひとつつまんだ。
「あっ、それ試作品!」
「ほう。どれどれ……」
父親はひと口かじり、ゆっくりと噛んだ。
「……うん。甘いな」
「それだけ?」
「いや、うまいぞ」
「本当に?」
「ああ。ちょっと固いけどな」
「そこはわかってるの!」
アリサは父親の手から菓子を取り返そうとした。
けれど父親は、残りをひょいと口に放り込んでしまった。
「あっ! もう、感想になってないじゃない!」
「うまかったからいいだろう」
「よくない!」
厨房に、二人の笑い声が響いた。
アリサは呆れたように息をつきながらも、口元には笑みを浮かべていた。
夢のために何かをする時間は、まだほんのわずかだ。
それでも、こういう時間が嫌いではなかった。
*
夕方。
宿屋の入口から、冒険者たちの声が聞こえてきた。
「ただいま戻りましたー」
「おう、おかえり!」
アリサはカウンターの向こうから顔を上げた。
新しい依頼を終えた者。街道を移動してきた者。数日ぶりに戻ってきた常連。
今日もさまざまな人が、この宿屋へ帰ってくる。
その中に、ユノの姿はなかった。
ユノが仲間たちと依頼に出ていることは、アリサも知っていた。冒険者である以上、何日か宿を空けるのは珍しくない。
だから、特に心配しているわけではない。
ただ、ふとしたときに思い出すことはあった。
ユノは真面目で、少し遠慮がちなところがある。
けれど、好きなものの話になると、驚くほど素直に喜ぶ。
以前、一緒に甘いものを食べたときもそうだった。
「……今度、ユノが帰ってきたら、試作品を食べてもらおうかな」
アリサはぽつりと呟いた。
父親が隣で首を傾げる。
「ユノちゃんにか?」
「うん。あの子、ちゃんと感想を言ってくれるから」
「それなら、俺の感想も参考にしてくれよ」
「お父さんのは『甘い』で終わっちゃうでしょ?」
「十分な感想じゃないか」
「全然足りないよ!」
アリサは笑いながら、帳面をカウンターの下へしまった。
窓の外では、夕陽が街並みを赤く染め始めていた。
食堂には夕食を待つ冒険者たちが集まり、厨房からは温かな料理の匂いが漂ってくる。
いつもと変わらない、リュネルトの夕方。
アリサには宿屋の仕事があり、家族がいて、毎日顔を合わせる冒険者たちがいる。
そして、まだかなえられていない夢がある。
そのどれもが、今の彼女を形作っていた。
「さて、夕食の準備を手伝わなきゃ!」
アリサは気持ちを切り替え、厨房へ向かった。
小さな帳面の中には、今日も新しい記録がひとつ増えている。
いつか大きな街で菓子職人になるという夢は、まだ遠い。
けれど、その夢は今日も、ほんの少しだけ前へ進んでいた。
そして明日も、この宿屋にはたくさんの人がやってくる。
もしかしたら、その中に新しいお菓子の話を持ってくる冒険者がいるかもしれない。
あるいは、ユノがひょっこり帰ってくるかもしれない。
そうなったら、今度こそ試作品の感想を聞いてみよう。
アリサはそんなことを考えながら、夕食の支度に取りかかった。




