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第二章 無能な平社員

 翌日の夕方。

三ツ葉エレクトロニクス企画部は、終業時間を迎えたことで慌ただしさを増していた。

「お疲れさまでした!」

「お先に失礼します!」

あちこちで飛び交う挨拶。

コピー機の駆動音。キーボードを叩く音。電話の保留音。

国内トップクラスの企業グループに属する会社だけあって、フロアは広く、設備も最新式だった。しかし、その一方で漂う空気はどこか殺伐としている。

成果主義。

競争。

出世争い。

それらが常に渦巻いている職場だった。

 その一角で、水戸邦光は黙々と資料をまとめていた。

地味なスーツを身にまとう、どこにでもいる平凡なサラリーマンにしか見えない。

いや、むしろ冴えない部類に入るだろう。

実際、社内での評価は低かった。

 一年前、中途採用で入社。

以前勤めていた会社は倒産寸前でリストラされ路頭に迷っていたところを三ツ葉エレクトロニクスに拾われた――というのが、社内で知られている経歴である。

 そんな男が、次世代ゲーム機“ゲーム・ステーション”開発プロジェクトに選ばれた。

当然、快く思わない者も多い。

「よう!水戸!まだ帰らないのか?」

声を掛けてきたのは、高木と平岩だった。

どちらも企画部所属の社員であり、水戸より数年先輩にあたる。

「高木さん、平岩さん、お疲れ様です。プロジェクトチームに選ばれましたので、足を引っ張らないように頑張らないと」

水戸は穏やかに答える。

その態度が気に食わないのか、高木は鼻で笑った。

「一年前に仕事をクビになって路頭に迷ってた無能の平社員が、プロジェクトチームに選ばれただけでも奇跡だろ」

「本当にな」

平岩も肩をすくめる。

「わが社のマドンナ、水野愛子課長の昇進が掛かってるんだ。精々足を引っ張らないようにしろよ」

二人はわざと聞こえるように笑いながら去っていった。

水戸は特に反論しない。

ただ、静かに資料を閉じただけだった。

その時だった。

「水戸君、まだ帰らないの?」

柔らかな声が聞こえる。

振り向くと、一人の女性が立っていた。

 水野愛子。

三ツ葉エレクトロニクス企画部課長。

二十代後半という若さで課長職に就いた才媛であり、社内でも有名な美女だった。

長い黒髪。整った顔立ち。知的な雰囲気。

その上、仕事も出来る。

当然、社内の男性社員からの人気は高かった。

もっとも、彼女には既に恋人がいる。

「水野課長。もう少ししたら帰りますよ」

「そう。あまり無理しないようにね」

愛子はそう言いながら、周囲に気付かれないよう自然な動作でメモを机へ置いた。

そして何事も無かったかのように立ち去る。

水戸は周囲を確認してから、そっとメモを開いた。

そこには短くこう書かれていた。

『今夜、いつものところで』

水戸の口元が僅かに緩む。

 数分後。

企画部の人間たちが帰り始めた頃、水戸も静かに席を立った。

向かった先は、会社から少し離れた場所にある小さなバーだった。

高級店ではない。

だが落ち着いた雰囲気で、愛子と二人きりで話すには丁度良い店だった。

扉を開けると、カウンター席に愛子が座っていた。

既にワインが用意されている。

「愛子、お待たせ」

「邦光、さ、座って」

愛子は嬉しそうに微笑む。

「今夜は二人そろってプロジェクトチームに選ばれたお祝いをしましょ!」

「いいね!」

「お祝いだし、ワイン頼んでおいたから乾杯しましょ!」

「ああ!」

 水戸は愛子の隣へ座る。

二人はグラスを軽く合わせた。

「乾杯!」

澄んだ音が響く。

愛子はワインを一口飲み、柔らかく笑った。

「でも、一緒にプロジェクトチームに選ばれて良かったね!」

「お互いに昇進のチャンスだし、頑張ろう!」

「そうね。このプロジェクトが成功すれば、私は次長、邦光は主任は間違いないわね」

愛子は明るく言う。

しかし、その言葉に水戸は少しだけ苦笑した。

「前の会社をクビになって路頭に迷ってたところを拾ってもらって、約一年。社内一の美人って言われてる愛子と付き合って半年……そろそろ愛子に相応しい男にならないとね」

その言葉に、愛子は笑いながら水戸の背中を軽く叩いた。

「頑張ってね!」

「うん! 頑張るよ!」

店内には静かなジャズが流れている。

 会社では課長と平社員。

しかし、この店ではただの恋人同士だった。

愛子は少し頬を赤らめながら、水戸を見つめる。

「プロジェクトがうまくいったら、結婚しましょう!」

一瞬、水戸は目を丸くした。

だが、すぐに優しく笑う。

「ああ! そうしよう!」

二人は自然に手を重ねた。

愛子は幸せそうに微笑んでいる。

 その笑顔を見ながら、水戸は静かに目を細めた。

――もし彼女が、自分の本当の正体を知ったら。

果たして今と同じ笑顔を向けてくれるのだろうか。

そんな考えが一瞬だけ頭を過った。

だが水戸――いや、徳川光圀は、その考えをすぐに振り払う。

今はまだ、“平社員・水戸邦光”でいなければならない。

全ては、これから始まるプロジェクトのために。

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