序章〜第一章
序章
知らなかった。でも、知っていた。
人の世が、穢れているということを。
そして、多感で繊細だということを。
硝子細工みたいに脆くて、
降り注ぐ氷柱のように荒く、
子供達のおとぎ話のように儚い。
生涯で出会う空間は、広くて狭い。
人はみな、そこで蠢いている。
世界は、いつも混沌としている。
第一章
人間は「死」と常に隣り合わせだ。謂い様によっては、人間が必死に目を逸らしている部分とも言えるかもしれない。
ノスティリア王国ガノヴェット伯爵家。
「おぅい、ミネルテラ。ちょっとこっちを手伝ってくれー!」
「はーい。今行きます!!」
俺──ミネルテラ・フォン・デュノーは、王国でも指折りの名家であるガノヴェット家に仕えている。
俺は辺境の子爵家の四男坊として生を受けた。末息子だったことから、いずれは自立しなければならないため、今は行儀見習いも兼ねてここで働いている。伯爵夫妻は温厚な方々だし、使用人たちもみな優しくて世話好きな人たちなので、ここでの暮らしは毎日きらきらして飽きない。忙しいけれど、充実した日々。こんな日々が永遠に続けばいい──俺は心底そう思っていた。その時までは。
ざあざあと、蛇口から零れる水音。ぱりぱりした玉ねぎの薄皮を剝く。調理場には肉が焼ける香ばしさが漂い、淡く白い正午の光が降りている。
不意に、小さなノックが聞こえた。
「あの、ミネルテラさんはいらっしゃいますか?」
「あ、それなら、俺だけど?」
振り向くと、年若い侍女が立っていた。
「旦那様がお呼びです。」
「旦那様が・・・・・・何か用件を言われたかい?」
「いえ・・・・・・えっと、その・・・・・・話があるから執務室まで来るように、と。」
「ああ、分かった。」
おずおずとして目を逸らす侍女に僅かな不信感を抱きつつ、それは気にしないふりをし、剥きかけの玉ねぎを隣にいた仲間に渡して、俺は調理場を飛び出した。
「帰れって、どういうことですか!?」
執務室に着くなり、伯爵に「実家に戻れ」と言われて、俺は衝撃を受けた。
「そのままの意味だよ。」
伯爵は、窓のずっと外、地平線の奥を見つめたまま答えた。
「どうして……?俺に何か問題があったのなら、直します。」
「君には、針の先ほどの落ち度もない。全ては、君を守るためのことだ。」
「……何か、家に関わることですね?」
「そうだ。」
伯爵がふと振り向く。彼の深い緑の眼が、俺を柔らかに見つめた。
「実は、王太后が我が家を潰しにかかっていてな……。君の家まで潰してしまうわけにはいかないからね。」
「王太后……ヴィネア様が?」
「ああ。次期大公の座をかけ、お家騒動が起こっているんだ。それに、我が伯爵家と彼女の間には因縁があるから……。」
亡くなった先王の妃・ヴィネアは、病弱だった夫の死後、国政を牛耳り、不貞を働いていた。彼女が引き入れた男たちの数は、とても数え切れぬほどだ。話をするだけでもぞっとする。色欲に溺れ、政務中にも十数人ほどの若者を侍らせていたと聞いたこともある。
そんな彼女に対する反感は募り、一部の貴族たちは王に対して追放を迫ったという。ガノヴェット現伯爵の兄、ルイスもその一人だった。だが王は幼く、ヴィネアが後見として国を動かしていたため反対運動は失敗に終わり、反対した貴族たちはことごとく始末された。ルイスもそこに含まれていた。伯爵家はこの暴挙を許すことはなく、ヴィネアと伯爵家の間には深い溝が生じていった。
このため、ヴィネアは伯爵家を潰したかった。しかし伯爵家は指折りの名家であり、様々な事業を行って莫大な財産と取引先を得ていたから、安易に潰すことができなかった。こういう目の上のたん瘤のような状態が何年も続いたものだから、ヴィネアは相当歯痒い思いをしていたに違いない。だからこの状況は、たまりにたまった確執が今、長い時を経て噴火したとも言えよう。
「ミネルテラ。」
「はい。」
「・・・・・・頼みがあるのだが、引き受けてくれるかい?」
「・・・・・・・・・・・・俺にできる事であれば、何なりと。」
伯爵はにっこりと頷いた。
「幼い私の子供たちを、どこかに匿ってくれないか?・・・・・・無理は承知している。でも、どうか、お願いできないか?」
「・・・・・・それは、俺でいいのですか?もっと、王太后様の目が届かない場所の方がいいのでは?」
「いや、君だからお願いするんだ。そういった取引先の商人たちよりも、君の方がよっぽど気心が知れていて、信頼できるからね。」
「はあ。」
その言葉は嬉しかった半面、重いようにも感じられた。
「引き受けてくれるね。」
「はい。……命を懸けて、守って見せます。」
でも、俺には承服以外の答えはなかった。
五日後に帰郷の途に着くことが決まった。仲間たちも、伯爵一家も、別れを惜しんで、俺の為に小さいパーティーを開いたり、贈り物をしてくれたり、手紙をくれたりした。特に、料理長特製の生クリームがいっぱい乗ったケーキや、御者の爺さんと飲んだ酒はとても美味しかった。伯爵夫人の刺繍が入ったハンカチや、侍女長がくれた襟巻も印象に残っている。
こうしてあっという間に過ぎた出発の早朝、俺は頼まれた二人の子供たちを連れ、伯爵家を後にした。
「子供たちをよろしく頼む。何かあったら連絡をよこすから。」
それが伯爵の遺した言葉だった。伯爵夫人はすすり泣く子供たちの額にキスをすると、その頭を撫でて、最後に俺を見つめた。
俺は二人に向かって小さくうなずくと、黒馬の尻に鞭打って、聳え立つ青灰色の山の方に突っ走って行った。