エーベルハルト
初恋は7歳の時だった。
婚約者候補として引き合わされた彼女は今でこそ完璧な淑女だが、その頃はまだ幼く人並みに未熟だった。そして、幼さを言い訳にすることを許さない教師達に厳しく叱責され、毎日のように中庭の隅で泣いていた。
私はそれを見るたびに彼女が可哀想で、もう来てくれなくなるのではないかと心配で、拙い言葉をつくして必死に慰め続けた。
そんなことがしばらく続いたある日、彼女が「エーベルハルトさまと一緒だからがんばります」と目を真っ赤にしながら笑ってくれたのだ。
その瞬間、世界に色がついたような気がした。
可愛かった。愛しかった。それから11年一緒にいた。彼女と手を取り合って何もかもをひとつずつ経験してきた。
その先の未来もきっとそうだと疑いもしなかった。
今日は結婚式だ。
私の隣には、別の女性が座っている。
「ペトロナ姫、お疲れではないですか?」
「いいえ、まだまだ大丈夫だわ」
子供だと思ってらっしゃるのね、と頬をふくらませる様子が可愛らしい。
艶やかに波打つ黒い髪に少し日に焼けた肌。海を挟んだ向こう、南の大陸の玄関口となる国からこのユールヴェールに来た14歳の少女。
まだ幼さの残る容姿だが、これから大輪の花を咲かせることを予感させる異国の薔薇。
5歳程度の年の差は政略結婚では全く問題にならない。
今日結婚式を挙げたが、実際に夫婦関係が始まるのは4年後に少女が成人を迎えてからになる。それまでは婚約者同士のような付き合いになるだろう。
「重さのある生地であまり広がらないスカートが流行りなのね。色を考えれば私でも着られるかしら」
順番に挨拶に来る貴族達を見送りながら少女がつぶやく。
「姫なら何でも着こなしてしまわれると思いますが、全てをこの国に合わせずとも良いのですよ」
「エーベルハルト様は心配性だわ。ドレスなんて私が着てみたいだけよ」
いたずらっぽく笑う顔は天真爛漫そのものだが、その細い肩には支えきれないほどの重圧を背負わせてしまっている。
この婚姻は二国間の関係を強化するために現在、最善の策である。しかし、長年の婚約者候補を退けて結ばれたことに反発する国内貴族も少なからず存在する。
元婚約者候補の父親にあたるタウアー侯爵は政務官の職を辞し、領地に戻ってしまった。優秀な彼を慕っている文官は多い。
他国とのパイプを持つ侯爵を何とか説得できないかと手を尽くしているが、恐らく難しいだろう。
王城内でさえ私達への風当たりは決して弱くない。
「もう少ししたらヴァルテンブルク辺境伯が来られる」
「決して失礼のないよう気合いを入れなくてはね……」
どんな時も美しく微笑む様はさすが王女だが、こちらの事情に巻き込むどころか矢面に立たせてしまうことを本当に申し訳なく思う。
私達の一挙手一投足に広間のそこかしこから容赦ない視線が突き刺さっている。それはこの後さらなる鋭さを持って少女を攻撃するだろう。
私はまだ、彼女を守るすべを持たない。
※※※
王城の広間から続く控えの間に戻った私達は、二人揃ってぐったりとソファに沈み込んだ。
今日は準備のために二人とも早朝から拘束されていたし、何よりこの状況での夜会はひどく気疲れする。
結果として、ヴァルテンブルク辺境伯夫妻の挨拶を含め結婚式とそれに付随する披露目の夜会は恙無く終わった。
叔父にあたる辺境伯は強い眼差しで終始私を牽制していたが、最初から余計なことを言うつもりはなかった。
久しぶりに会った元婚約者候補は記憶よりも柔らかく笑い、とても美しかった。
彼女が幸せであることは誰の目にも明らかで、ほっとすると同時に胸がひどくざわめいた。頭では彼女への贖罪を望みながらも身勝手に振る舞う心に我ながら心底嫌気が差す。
「お美しい方だったわ……」
嫁いで来たのだからと日常会話のすべてをユールヴェール語で通してくれている彼女が不意に母国語でつぶやいた。
吐息のようにこぼれ落ちた囁きは、かすかな憂いを帯びている。
二人が顔を合わせたのは今日が初めてだ。誰を指しているかは聞くまでもなかった。
「今日一番美しかったのはペトロナ姫ですよ」
「ふふっ主役の特権ね。でもきっとそうだわ。だって私は世界で一番幸せな花嫁よ。絵本で見た金髪碧眼の王子様を手に入れたんだもの」
「おや、それは光栄です」
ついさっき不安げに揺れた声はもういつもの力を取り戻していた。
年上だというのに私は情けない男で、姫のこういうところに助けられてばかりいる。
「笑ったわね?女の子の夢なのよ。大事なことだわ」
天井いっぱいに飾られたシャンデリアの光を反射して、少女の瞳がキラキラと輝く。
まだあどけない顔立ちを精一杯大人っぽく装って彼女はここにいる。
少女の母国語で綴る会話は二人だけの秘密のようで、いつもより少し本音が見える気がした。
「エーベルハルト様は知らないかもしれないけれど、お姫様というのはわがままなものよ。私にはまだ幸せな奥さん、幸せな妃になるという夢があるわ。私はあなたにもユールヴェールにも我が国にもこの婚姻を結んで良かったと言わせてみせる。
まだ4年もあるのだから、手に入らないものなんてきっとありはしないわ。覚悟してちょうだい」
淑女にはまだ遠いニッと笑った口元に、勝ち気な瞳に、視線が縫いつけられる。あの日凍りついた心臓がドクンと音を立てた気がした。
こうなったからには、こうなってしまったからには、私を殺して公に尽くすつもりだった。
あの恋を失って、彼女を踏みにじって、幸せになどなれるはずがないと思っていた。
今はまだ私は幸せな過去に魘されながら、ままならない現実に押し流されるだけの愚かな男だ。
しかし、この南の太陽は湿った私の感傷などいつか灼きつくしてしまうだろう。
すまない、マリー
私はきっと幸せになってしまう
情けない男エーベルハルト