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 目的のホテルには約束の十分前に到着した。ロビーを見回した恵也は見知った顔がまだ誰もいないことを確認する。電話が繋がらなかったのでとりあえずメールはしておいたのだが、沢村もまだ来ていなかった。恵也はもう一度腕時計で時間を確認してフロントに向かう。すると、先日のフロント係が恵也に気付いてパッと笑顔になった。

「いらっしゃいませ」

 恵也よりもいくつか年下に見えるその青年がペコリと頭を下げるのへ、恵也も笑顔で会釈を返す。

「コア企画です。先日はお世話になりました」

「こちらこそ、いつもありがとうございます。少々お待ちください」

 フロント係はそう言って奥に引っ込むと、すぐに添塚を伴って現れた。

「これは里見様。先日はどうもありがとうございました」

 丁寧に頭を下げる総支配人に、恵也は慌てて、いえ、と答える。

「こちらこそ無理なお願いを聞いて頂きまして、本当にありがとうございました」

 無理を言ったのは環だが、恵也の為にやってくれたのである。恐縮して頭を下げると、添塚が、いえいえ、と言って微笑んだ。

「里見様が帰られてから、坊ちゃんは大層な上機嫌で。お陰様であの後の作業が捗りました」

 聞けば、環はあの日、式典の打ち合わせの為に渋々ホテルに寄ったらしい。元々式典自体を嫌がっていたので、当日もすっぽかされたらどうしようかと懸念していたらしいのだが、コア企画のイベントのお陰で当日だけでなく前日からホテル入りしてくれるらしいと言って添塚は笑った。

「これも里見様のお陰でございます」

「そんな……」

 ホクホク顔で目を細める添塚に、恵也は困って苦笑する。だとすると、環はコア企画のイベントにも顔を出すつもりなのだろう。

(それはそれで沢村の反応が怖いんだけど……)

 まあ、当日彼は大イベントを取り仕切るのだ。瑣末なことにかかずらっている暇は無いだろう。

「ところで、本日は」

 総支配人に訪問理由を尋ねられた恵也は、はい、と答えながらロビーに視線を廻らす。

「実はここでそのイベントの主催者と待ち合わせをしているのですが……」

 恵也が答えたその時、ベルボーイが恵也目がけて早足で歩いて来た。

「お話し中、失礼を致します。あの、コア企画様でいらっしゃいますか?」

「はい、そうですが」

 ベルボーイに尋ねられた恵也は頷いて答える。ベルボーイはホッとしたように笑みを浮かべると、恵也に一通の封筒を差し出した。

「お客様より伝言をお預かりしております」

「自分に、ですか?」

 尋ねると、恵也の言葉にベルボーイが、はい、と答えて頷く。

「先に到着したのでそこに書かれている部屋までいらしてください、とのことです。差出人は……」

 ベルボーイはそう言うと、胸ポケットから業務手帳を取り出す。そしてペラペラとページを捲ると、そこに書かれている社名を告げた。

「わかりました。ありがとうございます」

 恵也はその差出人が黒部なのを確認すると、ベルボーイに礼を言って封筒を開く。中には四つ折りにされた白い紙が一枚入っており、走り書きのような文字で『625』と書かれていた。

「それでは失礼致します」

 恵也は添塚に一礼すると、急いで正面奥にあるエレベーターホールへと向かう。そして一人でエレベーターに乗り込むと、六階のボタンを押した。

「625、625……」

 恵也はエレベーターを降りると、指定された部屋を探す。さすがは高級ホテルなだけあり、廊下には赤い絨毯が敷き詰められており、早足で歩いてもコトとも足音が響かなかった。恵也は壁に貼られている号室の案内板を見ながら奥へ進むと、やがて廊下の一番突き当たりに目的の部屋を見つけて足を止める。

(あっと……)

 コンコンとドアをノックしてしまってから、沢村にメールしなかったことを思い出す。

(まあ、いいか)

 部屋番号までは教えなかったが、フロント係は恵也が打ち合わせのために客室に向かったことを知っている。そのことをフロントから聞けば、すぐに恵也の携帯電話に連絡してくるだろう。

(それに……)

 恵也が一人で現れた方が橘も喜ぶかもしれない。橘に会うのは、先日ヘッドハンティングを断って以来である。いくぶん鼓動を速めながらネクタイの位置を直したその時、目の前でカチャッと鍵の開く音がして扉が内側に開いた。

「……?」

 てっきり黒部の部下が出て来るのだろうと思っていた恵也は、ちょっと驚いて目を見開く。目の前にはスーツではなくピチピチの黒いランニングシャツに包まれた男の胸筋があった。胸板が恐ろしく厚くて、肌の色が浅黒い。Uの字に大きく開いたシャツの胸元や脇の下から覗く茶色い剛毛にギョッとしながら顔を上げた恵也は、その大男が目と鼻と口の部分にだけ穴の開いた黒い覆面を被っているのを見ると、咄嗟に後ろに逃げようとした。しかし、一瞬早く男の丸太のような腕が伸びて恵也の胸倉をガシッと掴む。

「離せッ……!」

 叫ぼうとした途端に、反対の手で口を塞がれる。そして、恵也はもの凄い力で引っ張られると、部屋の中に引きずり込まれた。

「んーッ、んーッ」

 何をするんだ、と叫ぼうとしても、太い五本の指で鼻から口まで塞がれているので言葉にならない。

「やめろッ……!」

 男の手が離れた隙にようやく叫び声を上げた恵也は、しかし次の瞬間いきなり頭部をガッと掴まれた。

「ウアッ……!」

 視界がブレたと思った瞬間、側頭部に衝撃が走る。あまりの激痛に一瞬意識が飛んだのだろう。気が付くと、床の上に横向きに倒れていた。

「ウッ……」

 呻きながら体を起こそうとした途端、ベージュ色の絨毯の上に赤い血がパタパタと落ちる。こめかみが燃えるように熱いので、どうやら壁に叩き付けられた時に目蓋の縁が切れたらしい。

(逃げなくちゃ……)

 恵也は必死に顔を上げ、男の足の間から廊下の赤い絨毯を見る。その目の前で、自由へと続く扉が無情にもバタンと閉じた。



「ウッ……」

 どうやら気絶していたらしい。気が付くと、恵也は猿ぐつわを噛まされて床の上に仰向けに寝かされていた。手首の痛さに顔を上げると、両手は頭の上で一つに縛られ、白いロープでベッドの足に括り付けられている。どうやら身動きは取れなそうだと諦め、足元を確認しようとした恵也は、途端にギョッとして顔を引き攣らせた。

(なッ……!)

 上半身はそのままだが、なぜか下だけが脱がされている。ボクサーパンツ一枚だけの無防備な姿に、恵也は羞恥よりも恐怖を覚えた。

「お、起きたぞ」

 恵也が意識を取り戻したことに気付き、ソファにどっかりと座っていた覆面マスクの大男がこちらを見下ろす。

「へえ、可哀相にな」

 どこかでもう一人の男が答え、乾いた声で笑った。

「壊すなよ。大事なお客さんだ」

 男の言葉に覆面男が、ヘヘへ、といやらしく笑って下唇を舐める。

「仕方ねえだろ。俺のはマグナムなんだよ」

 そして、そう言いながら立ち上ると、カチャカチャとベルトのバックルを外し始めた。

「んーーーッ!」

 恵也は身の危険を感じて叫ぶと、近付いて来る男を蹴りつけようとする。

「おっと、とんだジャジャ馬だなあ」

 男は嬉しそうに目尻を下げて笑うと、両手を伸ばして恵也の両足首を素早く捕まえた。

「んーーッ、んーーッ」

 必死になって暴れるが、男の手は恵也の足首を掴んだままビクともしない。

「たまんねえなあ。あそこにビンビンくるぜ」

 男は舌舐めずりしながらそう言うと、ゴクリと生唾を飲み込んだ。しかし、すぐに恵也の足首を掴んだままだと自分のズボンも恵也の下着も下ろすことが出来ないことに気付いたらしい。男は暫く何ごとか考えていたが、おもむろに相棒を振り返ると言った。

「おい、ちょっと手伝ってくれよ」

「バカ言うな」

 覆面男の言葉に、もう一人の男が呆れたように言う。

「やりたきゃ一人でやれよ。男は趣味じゃない」

 その言葉に、恵也はその男が普通の性癖で良かったと心から思った。

「ちょっと手伝うだけだって」

 しかし、覆面男も諦めない。すると、もう一人の男が根負けしたように大きく溜息をつくのが聞こえた。

「男の下着を下ろすなんてイヤだぞ」

 不服そうな相棒の言葉に、覆面男が嬉しそうに「わかってるよ」と答える。

「この足をちょっと持っててくれればいいからさ」

 それが自分の足首のことだとわかり、恵也は絶望に目の前が真っ暗になる。

「いいけど、俺には見せるなよ」

 男はそう言うと、ヤローのイチモツなんてキモイだけだぜ、と言いながら恵也の足首を両手で掴む。

「ヒャッホー!」

 覆面男は奇声を発しながらズボンと下着を一気に脱ぎ捨てると、今度は恵也の下着に手を伸ばした。しかし、その手がボクサーパンツの縁に掛かった瞬間、コンコンと小さなノックの音がして男たちは動きを止める。

「……ッ!」

 予定外の物音に男たちが一気に緊張したその時、遠慮がちなノックの音が『ドンドンドン!』という激しい騒音に変わった。

「開けろ! 開けないとブッ壊すぞ!」

(橘ッ!)

 その頼もしい声音に、恵也は思わず安堵して泣きそうになる。

「騒ぐなよ。お前もこんな格好を他人に見られたくはないだろ」

 足首を掴んでいる男が小声で囁き、恵也はその言葉に思わず顔を強張らせた。確かにこんな格好は見られたくないが、このままだと覆面男に犯られてしまう。それに比べたらパンツ一枚の姿を見られるくらい……。その気持ちが顔に出たのだろう。覆面男が「これならどうだ」と言いながら掴んでいた恵也のボクサーパンツをグイと引っ張った。

「んーんーんーッ!」

 恵也は必死に首を横に振って、それだけはやめろと目で訴える。その姿に刺激されたのか、覆面男は途端に興奮した声音で「うわ、たまんね~~~!」と言うと、いそいそと恵也のパンツをずり下ろし始めた。

「何やってんだ、バカ! こんな時に!」

 それを見て、ノーマル男が呆れたように小声で怒鳴る。

「大丈夫だって。ちゃんと鍵掛けてあるんだから」

 覆面男が得意そうに答えたその時、男たちの耳に『カチャッ』という信じられない音が小さく聞こえた。それが鍵の開く音だと気付いた瞬間、部屋のドアが勢いよく開いてスーツ姿の男たちが雪崩れ込んで来る。

「なにやってんだ、テメエらあッ!」

 橘がドスの利いた声で怒鳴りながら大男に飛び蹴りをかまし、続く環が相棒の男を無言で殴り倒した。

「先輩ッ!」

 その後ろから沢村と添塚も駆け込んで来て、床の上で呆然と事の成り行きを見守っていた恵也に駆け寄る。橘も環もさすがに喧嘩は手慣れたもので、あっという間に勝敗はついてしまった。



「大丈夫か」

 マンションの前でタクシーが停まり、橘が先に降りて恵也に手を貸す。

「大丈夫だ……」

 恵也はヨロける足で必死に踏ん張ると、橘に支えられながらタクシーを降りた。


 添塚の通報ですぐに警察が駆け付け、男たちは現行犯逮捕された。黒部は逃げた後だったが、男たちが自供すればすぐに捕まることだろう。

 病院で検査と治療を受けた恵也は、付き添いの橘と共に簡単な事情聴取を受け、翌日もう一度警察に来るよう言われて自宅に帰された。今頃は沢村や環も添塚と共に事情聴取を受けている筈である。

 恵也がいないことに不信を覚えたのは沢村だった。既に来ている筈だと言われた橘は、そこで黒部の様子が怪しいことに気付いたらしい。すぐにフロントに向かったところへ運よく環も来て、添塚に客室状況を調べて貰ったらしい。怪しい部屋はすぐに当たりが付いたが、しかし、そこに恵也が監禁されている確証は無い。添塚が客室まで一緒に来たのは、もし間違いであった場合には全ての責任を自分で取ろうと考えていたからのようだった。

(明日になったら謝りに行かなきゃ……) 

 恵也は皆に迷惑をかけてしまったことを心苦しく思う。黒部の策略に引っ掛かってしまったとは言え、少しは警戒しなければいけなかったのだ。油断していたのは自分のミスである。

 橘に支えられながらエレベーターに乗り、三階で降りる。鍵を開けて玄関に入ると、途端に緊張の糸が解けたのかドッと疲れが襲って来た。

「痛い……」

 消毒して包帯を巻いてもらった左側頭部がズキズキと疼く。思わず呻くように言うと、すぐに橘が「大丈夫か」と言って心配そうに恵也の肩を抱き寄せた。

「ベッドまで歩けるか」

 今にも抱き上げそうな勢いの橘に、恵也は慌てて「大丈夫だ」と答える。靴を脱いで部屋に上がり、ヨロヨロとベッドまで歩いて行くと、橘が掛け布団を捲ってくれた。恵也は乾いた血がこびり付いたスーツとシャツを脱ぎ、下着一枚になってベッドの上に体を横たえる。橘がその上からかいがいしく毛布を掛けてくれ、恵也はようやくフゥと大きく息をついた。

「家族とかはいないのか?」

 橘が毛布の上から掛け布団を掛けながら、兄弟とかさ、と付け足して尋ねる。

「またそれか」

 恵也は思わず苦笑すると、眉尻を下げて言った。

「家族は父親しかいないし、何年も前からずっと別に暮らしている」

 すると橘が、だってさ、と言って室内を見回す。

「匂いがするんだ」

「匂い?」

 橘の言葉に、恵也は何のことかと尋ね返す。橘はちょっと考える風に恵也の顔を見詰めると、だからさ、と言って恵也の上に屈み込んだ。

「ほら、同じ匂いがするんだよ。あいつと」

「うわッ……!」

 いきなり間近に顔を寄せ、クン、と首筋の匂いを嗅がれた恵也は、思わず声を上げて狼狽える。途端に心臓がドキドキと騒ぎ出し、一気に顔に血が昇った。

「あ、あいつ?」

「そう。すっげー可愛い奴でさ」

 橘は恵也の首筋に顔を寄せたままうっとりした声音で嬉しそうに言うと、「この間も話したろ?」と言って続ける。

「実はずっと口説いてたんだけど、俺のいない間にダチに瞬殺されちまってさぁ……」

「へ、へえ……」

 恵也は自分のことなのに、なぜかその言葉にムッとすると、橘の額に手を当ててグイと力任せに押し返した。

「いつまで嗅いでんだッ、離れろッ」

「えー、冷たい」

 恵也のつれない言葉に、橘が眉尻を下げて情けない声を出す。そして不意に手を伸ばすと、いきなり恵也の眼鏡を外した。

「うわッ!」

 恵也は慌てて声を上げ、それを取り返そうとする。

「お、これ外すとホントに似てんなあ」

 橘は恵也の手の届かない高さまで眼鏡をヒョイと上げて言うと、それをサイドテーブルの上に置いた。

「後は寝るだけなんだから、眼鏡なんか必要ないだろ」

「それはそうだけど……」

 恵也は毛布を目深まで引き上げて顔を隠すと、その下でボソボソと呟く。その姿に橘はなぜかプッと小さく噴き出すと、楽しそうに笑いながら恵也の頭をポンポンと撫でた。

「なんか、今日のお前は子供みたいだな。可愛いぞ」

 橘の甘くすら感じられる優しい言葉に、恵也は驚いて目を大きく見開く。毛布の縁から覗くその黒目勝ちの大きな目を見た橘は、不意に真面目な顔になったかと思うといきなり立ち上がった。

「ちょっと失礼」

 橘はそう言うと、何を思ったのか突然クローゼットに歩み寄る。

「あ、こら!」

 そして、いきなり取っ手に手を掛けると、恵也の制止を無視してクローゼットの扉をガラッと開けた。

「無い」

 恵也の仕事は営業なので、もちろん中にはスーツが何着も下がっている。しかし橘はそう言うと、左右の扉を大きく開けて何かを探すように隅々まで見た。

「無い」

「何が無いんだ。人の家の中を勝手に見るな!」

 恵也は慌てて言うと、ベッドの上に起き上がろうとする。

「お前はおとなしく寝ていろ」

 橘は恵也に向かって人差し指を突き出し、命令口調で言うと、不意に窓の方を見た。窓には青色のカーテンが下げられているが、今は朝開けたままなので白いレースのカーテンだけになっている。橘はその窓に歩み寄ると、おもむろにそのレースのカーテンに手を掛けた。

「橘……!」

 慌てて制止しようとした恵也の声を、橘が表情も変えずに無視する。そして、そのレースのカーテンを掴むと、勢いよく左右に引き開けた。

「あった……」

 橘は小さく呟くと、ゆっくりと恵也を振り返る。窓の外にはハンガーに掛けられたマリンブルーのライダースーツが夕刻の風に揺れていた。その背には鋭い爪で斜めに切り裂かれたような三本の流星のマーク。

「いたたたた……」

 恵也は慌てて傷のある左側頭部を押さえると、体を丸めて毛布の下に隠れる。

「痛むのか」

 橘は感情の窺えない声音でそう言うと、恵也の傍らに戻って来た。

「『恵也』」

 いきなり本名で呼ばれた恵也は、思わずギクリとして毛布の下で固まる。

「うわー、ショックだ。うわー、どうしてくれよう」

 橘は恨みがましい声でそう言うと、恵也のオールバックの髪をクシャクシャと掻き乱した。そして、勢いよく毛布を捲り、恵也の顔を覗き込む。

「ずっと騙されてたのか。すっげーショックだ」

 その言葉に、恵也は顔を真っ赤にしてムゥと橘を睨み上げる。

「気付かなかったお前が悪いんだろ! 環はすぐに気付いたぞ!」

 しかし、その名前を聞いた途端に橘は、何かを思い出したのか、酷くショックを受けたように凍り付く。

「それじゃあ、お前は環と……!」

 そして、そう言い掛けて絶句すると、きれいにセットされた頭をグシャグシャと掻き乱した。

「おのれ、環! 姫ばかりか、こいつにまで手を出すとは!」

 もう自分でも何を言っているのかわからないに違いない。恵也は橘の言葉に思わず苦笑すると、溜息混じりに白状した。

「あれは嘘だ。俺と環は付き合ってないよ」

「へ……?」

 恵也の言葉に、橘が大きく目を見開いてこちらを見る。

「付き合って……ない?」

「そうだ」

 恵也はその言葉に頷くと、手を伸ばして橘の手を掴んだ。

「理由を話すと長くなるんだが、今聞きたいか?」

 微笑みながら尋ねたその時、誰かが足音も荒く階段を駆け上って来る音がする。

「いや」

 橘は真剣な顔に戻って答えると、恵也の手をギュッと握り返して屈み込んだ。

「それよりも、ちゃんと口説かせてくれ。誰も来ないうちに」

 その声が終わるか終わらないかのうちに、ピンポーンとドアチャイムが来客を告げる。

「来た!」

 橘は慌てて叫ぶと、必死の形相で恵也の頬を両手で挟んだ。

「好きだ、恵也! 俺と付き合ってくれ!」

 切羽詰ったその告白に、恵也は思わずプッと噴き出して笑う。再びドアチャイムが『ピンポンピンポンピンポン!』とせっかちに鳴り、ドアが『ドンドンドン!』と激しく叩かれた。

「先輩! 里見先輩!」

 ドアの向こうで必死に叫んでいるのは恵也の可愛い後輩だ。ドアを叩いているのはきっと環に違いない。どうやら二人とも事情聴取をさっさと終えて、先に帰った恵也たちを追い掛けて来たらしい。

「橘」

 恵也は橘を見上げると、意を決して白状する。

「実は俺、誰かと付き合うのは初めてなんだ」

 目元を赤く染めながら言うと、その言葉に橘が少しだけ驚いたように目を見開いた。

「だから……」

 恵也は躊躇いがちに言葉を継ぐと、フワリと頬を染めて橘を見上げる。

「ちゃんとキスをしてくれないか……本物のキスを」

 一度目は子供の頃、そして二度目は薄汚れた路地裏だった。どちらもいきなり奪われたが、それは本物のキスではなかった。恋人として付き合うなら、ちゃんとキスから始めたい。言葉を選び選び囁くように言うと、真剣に聞いていた橘の頬が徐々に緩んでいく。そして嬉しそうに微笑むと、わかった、と答えて頷いた。

「好きだ……好きだ、恵也」

 橘は甘い声音でそう言うと、そっと顔を寄せて唇を合わせる。恵也はあまりの顔の近さに驚いて目を見開くと、慌ててギュッと目を閉じた。

「愛してる……」

 忙しないドアチャイムとドアを叩く音を背に、橘が唇の先を触れ合わせたまま甘く囁く。

「俺も……」

 恵也はくすぐったさに思わず笑みを浮かべると、橘の首に腕を回してもう一度キスをねだった。


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