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「先輩。今日の昼は出先ですか?」

 デスクに座ってパソコンを開き、取引先に提出する資料を作っていると、向かいの席で同じようにデスクワークをしていた沢村が声を掛けて来る。

「そうだな……」

 恵也は視線を上げて壁に掛けられている時計を見ると、後輩に視線を戻して頷いた。

「クライアントとの約束が二時だから、途中で何か食ってくよ」

 そう言うと、沢村が嬉しそうににっこりと微笑む。

「じゃあ一緒にどこかで食べてから行きましょうよ、先輩。俺ももう少ししたら出掛けますんで」

「そうか」

 恵也たち営業が自社近くの店で昼食を摂ることはあまり無い。たいていは営業の合間の僅かな時間を利用してコンビニ弁当か定食屋で済ませるのが常である。沢村が新人の頃は一緒に得意先回りをしたついでに食べたりしていたが、独り立ちしてからはそういう機会もめっきり減っていた。

「出掛けられそうになったら声掛けてください。それまで別の仕事してますんで」

 沢村が嬉しそうに微笑みながら、再び軽やかなタイピングの音を響かせる。恵也は少しだけ口元を緩めると、自分も再び資料作りに戻った。


「昨日はありがとうございました」

 受付嬢たちの密やかな嬌声を背にビルの外に出ると、すぐに沢村がペコリと頭を下げて礼を言う。

「いや、こっちこそすまなかったな。せっかくの休日なのに運転させたり弁当作らせたり」

 沢村が強引に誘ってくれなければ、昨日も恵也は仕事を入れていただろう。苦笑しながら礼を言うと、途端に沢村がパッと笑顔になった。

「良かった。ちょっと強引に誘っちゃったんで心配してたんです。俺こそ夕飯奢って貰っちゃってすみませんでした。また行きましょうね、あの店」

「そうだな」

 恵也のマンション近くにあるその小料理屋は店舗もきれいで料理も旨く、しかも価格も良心的でなかなかの店だった。三十代半ばの板前と美人女将が仕切っているこじんまりとした店なのだが、常連で繁盛しているらしく、客席はほとんど埋まっていた。

「あの二人、夫婦ですかね」

 沢村が興味深そうに笑いながら、恵也の顔を覗き込んで問う。

「さあな」

 恵也はちょっと顔を傾げて笑うと、いつもの定食屋に入った。

「A定。普通盛りで」

 入り口脇にある黒板の手書きメニューを見て、注文しながら一番奥の空席に向かう。

「あ、俺も同じのね」

 沢村はにこやかな笑顔を店員に向けると、恵也の向かいにどっかりと腰を下ろした。

「今日の担当者は初顔合わせなんで、ちょっと緊張してるんですよねー」

 珍しく気弱な後輩の言葉に、恵也は肩をヒョイとすくめて笑う。

「お前なら大丈夫だろ。人好きのする顔してるから」

 沢村の若者らしい爽やかな風貌や屈託の無い笑顔は、営業としては最大の武器になる。そう言うと、沢村が嬉しそうに目を細めて笑う。

「先輩も好きですか? この顔」

「あ?」

 店員の持って来た濡れタオルで手を拭いていた恵也は、沢村の言葉に顔を上げる。そして、目の前の整った顔をジッと見詰めると、そうだな、と言って頷いた。

「俺も好きだぞ、お前の顔」

 だから自信持って行け、と励ますと、沢村が照れたように笑う。

「俺も好きですよ、先輩の顔」

「そりゃ、どーも」

 沢村の言葉に恵也はプッと小さく噴き出して笑うと、店員が運んで来た生姜焼き定食の載った盆を受け取った。



「姫……!」

 いつものコンビニエンスストアで会計を済ませて外へ出ると、いつの間に来たのか駐車場の端にバイクが一台停まっている。店から出て来た恵也を見て、車止めの縁石に腰を下ろして待っていた男が立ち上がった。

「橘……」

 その顔を見た途端、先日海沿いの道で偶然すれ違った時のことを思い出す。一人で海を見に来ていたらしい橘は、きっと自分に気付いたのだろう。腰掛けていた防波堤の上に立ち上がると、恵也の乗った車が遠ざかるのをずっと見ていた。

「暫く見なかったけど……怪我でもしてたのか?」

 橘が怪我をしたのを知っているのは『コア企画』の恵也である。それとなく問うと、橘が「ああ」と言って口元を綻ばせる。

「心配してくれてたのか?」

 反対に問い返されて、恵也は思わず狼狽える。心配をしていたのは事実だ。あんな場面に出くわしたわけだし、酷く痛がっていたのも見ていたのだから心配するのが当然だろう。だが、それだけでないことは恵也自身もとうに気付いている。気になって仕方がないのだ。この橘という男が。そのことを自覚したのは、防波堤の上に立ってこちらをずっと見詰めている橘をサイドミラーの中に見つけた時だった。

「別に……」

 すぐにでも橘の元へ駆け戻りたい衝動を必死に抑え付けた時のことを思い出し、恵也は視線を逸らしてポツリと呟く。

「そういんじゃないけど……」

 ボソボソと答えると、その言葉に橘が少しだけ残念そうに笑った。

「そっか……そうだよな」

 口元に寂しそうな笑みを浮かべて俯いた橘の言葉に、恵也の胸がズキッと震える。

「ぁ……」

 何か言わなければと焦りながらフォローの言葉を探していると、「この間……」と言って橘が再び視線を上げた。

「海で会ったよな……あれ、誰?」

 口元は笑んでいるが、その目は決して笑ってはいない。その言葉から察するに、橘の中ではアレが恵也だということは既に確定していて、運転席にいた男を気にしているのだろう。と言うか、運転席の男との『関係』をだ。

「あれは……」

 咄嗟に言い訳しようとした恵也は、しかしそのひと言で「人違いだ」と否定する機会を失ったことに気付く。これで橘には黒髪の自分を知られてしまった。

(マズイな……)

 しかし、「誰だ」と聞いてくるということは、運転手の顔まではよく見えなかったということだろう。恵也はそのことに少しだけ安堵すると、コホンと小さく咳払いした。

「あれは知り合いっていうか……」

 言った途端に、橘の目がスゥと細くなる。

「まさか、付き合ってるとか言わないよな……」

 剣呑な響きに恵也は慌てて「まさか!」と言うと、首を横に振った。

「ホントに単なる知り合いでッ……!」

 慌てて否定した恵也は、ついムキになってしまったことにハッとして視線を逸らす。だが橘はその言葉に安堵したようで、ホッとしたように息を吐くと「良かった」と答えた。

「実はずっと悩んでたことがあって、姫と会わないようにしてたんだけどさ……」

「え……?」

 橘の言葉に視線を戻した恵也は、自分をまっすぐ見詰める瞳とぶつかりドキリとする。目を見開いて見返すと、橘も真剣な眼差しでジッと恵也を見詰めた。

「あそこで会った時、運命を感じたんだ」

「運命?」

 海で偶然すれ違ったことが、どんな運命だというのだろうか。必死に胸の内で首を捻っていると、橘が静かに恵也に歩み寄った。

「だから確かめた……あの男が恋人かどうか」

「そんなんじゃ……!」

 真っ赤になって再び否定すると、橘が「ああ」と言って嬉しそうに笑う。

「恋人なら諦めるつもりだった。だからすっげえ嬉しい……」

「え……」

 橘の言葉に、途端に恵也は狼狽える。呆然として頭一つ分上にある顔を見上げていると、橘が手を伸ばして恵也の頬に触れた。

「俺、姫が好きだ。俺と真剣に付き合ってくれ」

「なッ……!」

 恵也は思わぬ展開に絶句すると、事の成り行きに付いて行けずに目を見開いたまま口をパクパクさせる。

「俺は男だ!」

 憤慨して叫ぶと、橘が再び「ああ」と言って笑った。

「知ってる。俺だってホモじゃない。姫以外の男に告ったことなんか無ェよ」

「じゃ、じゃあなんで……!」

(あの時キスなんかしてきたんだッ?)

 恵也は後の言葉をグッと呑み込む。警察から職務質問されそうになった時、橘は彼らを誤魔化す為に恵也にいきなりキスをした。だからてっきり同性とのそういうことに慣れているのだろうと思っていたのだが、では何故あの時橘はあんなことをしたのだろうか。警察を誤魔化す為だけなら別の方法もあっただろうに。

(それとも……)

 橘は誰とでも平気であんなことが出来るのだろうか。そう考えた途端、胸の中にモヤモヤしたものが湧き上がる。しかし、それを確かめたくても今の恵也には聞くことが出来ない。何故なら、あの夜橘がキスをしたのは『コア企画』の恵也であって、今ここにいる『姫』ではないからだ。

「『なんで』?」

 橘が途切れてしまった恵也の言葉尻を拾って先を促す。恵也はグッと唇を引き結ぶと、フイと顔を逸らして背を向けた。

「姫!」

 橘が慌てたように恵也を呼び止め、すぐ後を追って来る。

「悪いけど……」

 恵也はバイクに向かって歩きながらボソリと言うと、背中を向けたままヘルメットを被った。

「……男と付き合う趣味はない」

「……ッ!」

 早足で恵也の後を追い掛けて来た橘が、その言葉にハッとしたように立ち止まる。恵也はわざと目を逸らしたままバイクに跨ると、エンジンを噴かして夜の国道に飛び出した。



「あれ、あいつ……」

 都心から少し離れた郊外にある取引先を訪れた恵也は、窓から外を見た沢村が洩らした言葉に何気なく視線を向ける。窓の外には車が百台は駐められそうな広い駐車場があり、建物に近い方から半分くらいが社員のものらしき車で埋まっていた。その一群から少し離れた場所に白い営業車が数台並んでおり、その一番端に沢村の白いセダンが見える。普段は電車などの交通機関を使うのが常なのだが、この会社だけは交通の便が悪いのでいつも沢村が車を出してくれるのだ。もちろん建物に一番近い場所には外来者用の駐車スペースが確保されているが、恵也たち営業は遠慮して遠くに駐めるのが常である。その沢村の車の前に男が一人立ち、こちらに背を向けて沢村の車をジッと見ていた。その後ろ姿に見覚えを感じた恵也は、次の瞬間ハッとして思わず息を呑む。

(橘ッ?)

 見間違いではない。それは確かに橘だった。

(でも、何だって橘がッ?)

 そう考えた恵也は、すぐにハッとして顔を強張らせる。

(そうか……!)

 海岸線ですれ違ったあの時、目が合ったのは一瞬だったが、その後もずっと橘は走り去る車を見ていた。きっとあの時に車のナンバーを覚えられてしまったに違いない。車の持ち主が沢村だとわかれば、全く接点の無かった『姫』と『コア企画』が繋がってしまう。それだけはどうしても避けたかった。

「どうする……」

 橘が諦めて立ち去るまで喫茶室で時間を潰そうかとも考えたが、あの橘のことだ。姫と一緒にいた男を突き止めようと、持ち主が現れるまで延々待ち続けるかもしれない。恵也は小さく舌打ちすると、窓から見えない場所で立ち止まって沢村を見た。

「お前、悪いけど一人で帰ってくれ。用が出来た」

「は?」

 恵也の言葉に、沢村が驚いたように目を丸くして聞き返す。

「悪いな。じゃ」

 恵也は説明もせずにそう言うと、ヒョイと手を上げて後輩に背を向けた。

「ちょっ……先輩ッ?」

 沢村が慌てたように呼び止めたが、恵也は構わずに歩いて行く。そして、駐車場に続く裏口ではなく正面玄関から外へ出ると、わざわざ歩道を歩いて、表から駐車場の入り口を覗き込んだ。

「よぉ」

 声を掛けると、まだ沢村の車の前で粘っていた橘がこちらを見る。恵也の姿を見とめると、橘は驚いたように目を見開いてフワリと口元を綻ばせた。

「よお。この間は悪かったな」

 橘がこちらへ向かって歩み寄りながら、バツが悪そうにニヤリと笑う。それが童貞云々のことだと気付き、恵也はチッと口の端を曲げた。

「本当に悪いと思ってるなら謝る機会を与えてやってもいいぞ。お前、車だろ? 駅まで送らせてやる」

「はあ?」

 恵也の不遜な物言いに、橘が眉をヒョイと上げて呆れたような声を出す。しかしすぐにプッと噴き出すと、ウハハと声を出して笑った。

「あんた、おもしれーな。いいぜ、送ってやるよ」

 だが、どうやら橘は何が何でも姫と一緒にいた男を突き止めたいらしい。もうちょっと待っててくれ、という言葉に恵也はわざと眉をしかめると、ツンと顎を反らして半身を反す。

「俺は忙しい。すぐに送れないならタクシーを捕まえるからいい」

 つれないその言葉に、途端に橘が「ちょっと待った!」と声を張り上げる。そして名残惜しそうに建物を見遣ると、チャリッ、とポケットから車のキーを取り出した。

「しょーがねえなあ。ちょっと待ってろ」

 そしてそう言うと、駐車場の一番端にポツンと駐まっていた黒のシルビアに向かって走り出す。その長身の後ろ姿を眺めながら、恵也は我知らず微笑んだ。

 なんだろう、心の奥がウキウキする。そのくすぐったい感情が何なのかわからないまま、恵也は自分の脇に横付けされた車の助手席に乗る。甘ったるい芳香剤と煙草の臭いを想像しながら乗り込んだ車内は、意外にも橘が付けているコロンの微かな香りしかしなかった。

「煙草は吸わないのか?」

 もしかしたら車内は禁煙なのだろうかと思って問うと、橘が眉をヒョイと上げて笑いながら答える。

「吸いそこねたんだ。大学まで陸上部でマラソンやっててさ」

 気が付いたらタバコ吸って大人ぶる年を過ぎてた、という言葉に恵也は思わず笑った。

「あんたは? 吸わないのか?」

 反対に尋ねられて、恵也も小さく頷く。

「片親だったから無駄な金が無かったもんでね。バイト代は全部家計に入れてたし」

「へぇ」

 恵也の言葉に、橘が感心したように短く答える。うっかり個人的なことまで話してしまった恵也は、ハッと我に返るとカアッと赤くなった。

(余計なことを言った……!)

 自分から話したことは無いが、橘は『姫』が片親なことを誰かから聞いて知っているかもしれない。これではどんどん橘に『姫』と自分との共通点を知られてしまう。思わずゴクリと喉を嚥下させながら隣を伺うと、何か考える風にチラとこちらを見た橘と目が合った。途端にドキッと恵也の心臓が踊る。

「あんた……弟いるか?」

(そう来たか……!)

 いきなりの質問に、恵也は内心ヒヤヒヤしながらも素知らぬ顔で「いや」と答える。もちろん恵也は一人っ子なので兄弟はいない。

「じゃあイトコとか、あんたによく似た親戚とかは?」

 高校生くらいで、と言われて恵也は内心でちょっと呆れる。まだ橘は『姫』を高校生だと思っているらしい。

「さあな。親戚とかもいないし」

 恵也は答えると、不意に意地悪がしたくなって「何でだ?」と反対に尋ねる。

「いや、俺の知り合いであんたによく似たヤツがいるんだけどさぁ」

 橘は答えると、前を向いたまま少しだけ照れたように笑った。

「それがすっげーシャンですっげー可愛いんだけど、これまたすっげーツンデレでさ」

「ツ……ツンデレ?」

 聞き慣れない言葉に、恵也は意味を問うように隣を見る。

「いつもはツンツンしてるくせに、時々すっげー可愛い顔して見せるヤツってこと」

 橘はそう説明すると、「マジやばいって! マジ惚れるって!」と恵也相手に力説する。恵也は面と向かって『可愛い』やら『惚れる』やら言われて思わずドギマギすると、赤くなった顔に気付かれないよう窓の外を見た。

「あ、駅だ。あそこで下ろしてくれ」

 標識を見つけて指差すと、橘がエッと不満げに声を上げる。

「どうせ会社に戻るんだろ? 近くで下ろしてやるよ」

 橘の言葉に、恵也は即座に「いや」と答える。

「まだ寄る所があるからここでいい」

 本当はこのまま帰社する予定なのだが、橘と長時間一緒にいてはどんな失言をしてしまうかわからない。今みたいに恥ずかしい話を聞かされるのもご免なので断ると、橘は「そうか」と答えて渋々ハンドルを左に切った。

「もし時間があったら一緒に飯でも食えたのにな」

 橘の残念そうな言葉に、恵也は驚いて「は?」と返す。

「飯だよ。今度一緒に食おうぜ?」

 橘は駅のロータリーに乗り入れながらそう言うと、駅舎の正面口前に車を横付けして恵也を見た。

「マズいな……」

 その顔が苦笑の形に歪むのを、恵也は不思議な思いで見詰める。

「あんたを目の前にしてると、どうしても口説きたくなっちまう……」

 そしてブツブツと独り言のようにそう言うと、顔を少しだけ赤くして大きな溜息をついた。

「きっとその『匂い』がいけないんだな。あんたいつもイイ匂いさせてるから……」

「匂い?」

 恵也は橘の言葉に眉を寄せて思案顔になる。

「特に何も付けてはいないが……」

 恵也は仕事柄、好みの分かれるコロンなどは付けないようにしている。シャンプーか柔軟剤の匂いだろうかと思いながら首を傾げると、途端に橘がウッと呻いて苦しそうに顔を歪めた。

「勘弁してくれ……やっと昨夜踏ん切りをつけたところなんだから……」

「踏ん切り?」

 橘の言っていることは、全くわからないことだらけである。説明を求めて尋ねると、橘は手の平で額を押さえ、何とも情けない顔をした。

「あんたはバリバリ俺好みで、他に好きなヤツでもいなけりゃ今すぐこの場で押し倒したいって言ってんだよ」

「この場でッ?」

 途端に恵也は声を張り上げ、真っ赤になってドアに張り付く。

「例えばの話だよ!」

 あからさまな嫌悪の言葉に橘は慌ててそう言うと、前に向き直ってハンドルをグイグイ掴んだ。

「しねーよ、そんなこと……俺はアイツ一筋って決めたんだからな」

 自分に言い聞かせるような橘の呟きに、恵也はとりあえずホッとして肩から力を抜く。しかし橘は再び恵也に視線を戻すと、珍しく躊躇いがちに言葉を継いだ。

「まぁ……でも、もしあんたがオッケーって言うんなら試しに付き合ってみるのもアリかなー、とも思うんだけどさ?」

「はあッ?」

 滅茶苦茶未練タラタラの言葉に、恵也は思わず口をポカンと開けて橘を見る。こいつは何を言っているのだろうか。聞き違いで無ければ『姫』と自分の二者択一で迷っているように聞こえるのだが。

「お……送って貰ってすまなかったな」

 恵也は後ろ手にドアを開けると、とりあえず礼を言いながら車外に出る。

「気を付けて帰れよ」

 儀礼的に言ってドアを閉めると、どうやら落ち込んでいたらしい橘が気を取り直したように顔を上げて助手席の窓を開けた。

「あんたもな。その……今度会ったら酒でも奢るよ」

 たぶん謝罪のつもりなのであろうその言葉に、恵也は思わず口の端を上げて笑う。顔を赤くして照れている橘は、いつものスカした橘と違って何とも人間的で魅力的に見えた。

「そうだな」

 考える前に、気付くと恵也は頷いていた。

「気が向いたら奢らせてやるよ」

 そのあくまでも不遜な言い方に、ようやく橘も笑顔になる。

「あんた、やっぱりサイコーだな。ライバル会社だなんて萎えるぜ」

「そうか、萎えるか」

 橘の言葉に恵也は笑いながら返すと、ふと思い出して「そうだ」と付け加えた。

「もしどこかのクライアント先で会っても、気安く話し掛けて来るんじゃないぞ」

 車の持ち主が沢村だとわかれば、助手席にいたのが恵也だということもすぐにバレてしまう。そう思って釘を刺すと、途端に橘が「はあッ?」と目を丸くして声を張り上げる。

「何でだよ、おい!」

 大慌てのその顔に、恵也は口の端を上げて笑みを返す。そして「じゃあな」と言って軽く手を上げると、そのままクリルと背を向けた。

「おい!」

 その背に橘の必死の声が追い縋る。恵也は思わず口元を緩めると、橘に気付かれないよう背を向けたまま駅の改札へと向かった。楽しい。楽しくて仕方がない。どうしても綻んでしまう口元を必死に引き締めながら、この高揚した気持ちは何なのだろうかと考える。その感情がやがて自分自身をも激しく揺さぶることになろうとは、その時は露ほども気付かないまま……。


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