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「ありがとうございました、先輩!」

 翌朝会社に出社すると、すぐに沢村が飛んで来て嬉しそうに言う。

「先程クライアントから電話がありまして、もう一度最終案を見て貰えることになりました!」

「そうか」

 恵也は笑みを浮かべると、よく頑張ったな、と言って沢村をねぎらった。

「ここまで来れたのはお前の頑張りがあったからだ。後は何とか向こうを納得させられるようなものを考えろよ」

「はい!」

 恵也の言葉に沢村が喜色満面で頷く。

「でも、加藤部長の異動は痛かったですね」

「そうだな……」

 沢村が顔を曇らせて言い、恵也も眉根を寄せて頷いた。

 恵也にずっと目を掛けてくれていた加藤の異動を知ったのは昨日のことだ。

 『博多支社に異動することになってね』

 加藤はそう言うと、ちょっと寂しそうに笑った。

 『君とも結局飲めず仕舞いだったなあ』

 『じゃあ、明日の夜にでもどうですか』

 恵也は自分から加藤を酒に誘った。まったく他意は無かったが、今朝の電話はそういうことなのだろう。

「約束は明日です。もし良い案が出せたら置き土産にハンコを押してくださるそうです」

「そうか……」

 『枕営業も大変だなあ』

 橘の下卑た笑い声が耳の奥に蘇る。恵也はグッと唇を引き結ぶと、嫌味なほど整っている橘の顔を脳裏から追い出した。



 加藤がタクシーの運転手に指定したのは、都内近郊にある老舗の料亭だった。恵也はちょっとドキドキしながら、その高級料亭の離れに靴を脱いで上がる。

「ここは初めてかい?」

 加藤に笑いながら尋ねられ、恵也は「はい」と答えて恐縮した。コア企画がいつも接待で使っている料亭は、もっと都心だが安っぽい感じのする『にわか料亭』である。建物からして古く、重要文化財のようにどっしりとした風格のある本物の老舗料亭とは比べ物にならない。

(社長、全額接待で落としてくれるかな……)

 もしかしたら半額はボーナスから引かれるかもしれない。覚悟しながら席に着くと、すぐに女将が現れて深々とお辞儀をした。

「お久し振りです、加藤様。この度は博多に異動されると聞きまして、ご昇進おめでとうございます」

「うん。ありがとう」

 加藤は女将に礼を言うと、実は支社長に任命されてね、と恵也に説明して笑う。

「支社長ですか! おめでとうございます!」

 恵也は大抜擢の人事に驚き、思わず声を上げて祝いの言葉を述べた。

「あまりおめでたくもないんだけどね」

 加藤はそう言うと、運ばれて来た熱燗の徳利を持って恵也に差し出す。

「まあ、一杯やろう」

「あッ、すみません。自分が!」

 慌ててその徳利を取ろうとすると、加藤にやんわりと断られた。

「今日は僕の自由にさせて貰うよ。その為に誘ってくれたんだろ?」

 加藤がにっこり笑って「さあさあ」と徳利を傾ける。恵也は畏まって杯を受けると、それをクイッと飲み干した。

「お見事。じゃあ、もう一杯」

「え、返杯じゃないんですか?」

 加藤がニコニコしながら徳利を差し出し、恵也は困って苦笑する。

「僕はトシだからね。君が三で僕が一だよ」

「勘弁してください。自分は酒に弱いので」

 恵也が眉尻を下げて懇願すると、加藤は「じゃあ、二対一ね」と言って楽しそうに笑った。


 普段では滅多に口に入らないような高級な肉や魚介が、次々と旨そうな料理に姿を変えて恵也の前に運ばれて来る。それらを肴に飲む酒ももちろん庶民には手の届かないような高級品で、その軽い飲み口に騙されて杯を重ねた恵也はあっという間に酔っぱらってしまった。

「すみません、ちょっと……」

 トイレに立った恵也は、襖を開けた瞬間息を飲む。廊下だと思って開けた襖の向こうは次の間で、一対の布団が赤い照明の中に浮かんでいた。

「間違えました……」

 パタンと襖を閉めた恵也は、急いで反対側の襖を開ける。すぐにトイレを見つけて用を済ませると、廊下の真ん中に立って逡巡した。

(あれは……そういうことだよな……)

 いくら色事に疎い恵也でも、あの布団の意味くらいはわかる。

(どうする……)

 今なら用が出来たとでも言って帰ることが出来る。しかし、そうすれば沢村の最終案は見る前に破棄されてしまうかもしれない。

(ヤッたって契約を貰えるとは限らないが……)

 恵也はギュッと眉を寄せて唇を引き結ぶ。

(どうする……)

 さっきまでの心地良い酔いは、もうすっかり醒めていた。


「……遅くなりました」

 部屋に戻ると、加藤は手酌で飲んでいた。

「帰らなかったのか」

 恵也を見上げて意外そうに笑うと、手の中の杯をクイと飲み干す。

「帰って欲しかったんですか?」

 恵也は自分の席に腰を下ろしながら笑って言うと、手を伸ばして徳利を掴んだ。

「知らなかったな。加藤部長は酒豪だったんですね」

「人聞きの悪い」

 恵也の言葉に加藤が笑う。

「君が弱いだけだよ」

「すみません」

 恵也は笑いながら頭を下げると、透き通った酒を加藤の盃に注いだ。

「博多には単身赴任でね」

 加藤が盃を傾けながら言う。

「さすがにこの年で一人暮らしは寂しい。良かったら一緒に来ないか」

「え?」

 目を見開いた恵也は、その言葉の意味を理解して狼狽える。

「す、すみません……」

 何と答えたら良いのかわからなくて謝ると、加藤は「フラれたか」と言って目を細めて笑った。

「一度言ってみたかったんだが、ドラマのようにはいかないもんだね」

 そしてそう言うと、空になった盃を恵也に差し出す。

「勝負だよ。代わり番こに飲んで、僕を酔い潰すことが出来たら帰って良し。でも、君が先に潰れたらその時は……わかってるね?」

 加藤の申し出に恵也はゴクリと固唾を呑む。しかし、この部屋に戻ると決めた時から覚悟は既に出来ていた。

「その勝負、お受けします」 

 恵也は自分の杯を膳の上に伏せると、加藤の杯を受け取る。その勝負の勝敗が既に決まっていることも、もちろん恵也にはわかっていた。



「やりましたよ、先輩! 契約を貰いました!」

 翌日遅くに出社すると、沢村が大喜びで飛んで来た。

「役員出勤とは出世したな、里見」

 社長が恵也を揶揄って言う。もちろん、昨夜は接待だったことを知っている。

「すみません」

 恵也は社長にペコリと頭を下げると、良かったな、と言って沢村をねぎらう。では、加藤は契約をくれたのだ。恵也は心の内で加藤に頭を下げた。

 昨夜、加藤と杯を重ねた恵也は二十を過ぎた辺りで意識を無くしたらしい。その後の記憶が無い。目が覚めると既に朝で、恵也はきちんと布団に寝かされていた。もちろん同じ布団で誰かが寝た形跡も無く、着ていた服にも乱れは無い。どうやら手を出さないばかりか布団に寝かせて貰ったらしいと知って、恵也は思わず恐縮した。

(礼を言わなければ……)

 急いでオフィスに電話したが、加藤は既に社を出た後で、次の職場の引継ぎで今週中は戻らないらしい。

「そうですか……」

 恵也は少しがっかりすると、来週の月曜日に訪れる旨を告げて電話を切る。受話器を置くと、その様子を向かいの席から見ていたらしい沢村が恵也に尋ねた。

「先輩、昨夜は加藤部長と飲んだんですか?」

「え、ああ……」

 沢村の問いに、恵也は一瞬口篭ってから頷く。

「少しだけな。日本酒は飲み慣れてなくて……」

 言いながら、それとなく視線を外してコーヒーを啜ると、こちらをジッと見詰めていた沢村が再び口を開いた。

「今朝最終案を持って行ったら、加藤部長が昨夜先輩と飲んだことを話してきまして……」

「え……」

 恵也は思わずドキッとして沢村を見る。沢村はジッと恵也の目を見詰めると、小さく息を吸った。

「俺……気のせいでなければ加藤部長に牽制されたんじゃないかと思うんですけど」

「牽制?」

 沢村の言葉に、恵也はキョトンと目を見開いてその意味を問う。すると、その顔を見た沢村がホッとしたように笑った。

「良かったぁ」

 そしてそう言うと、加藤部長とは何もなかったみたいですね、と言ってニコニコ笑う。

「はあ?」

 思わず眉をしかめて見返すと、沢村は顔の前で手を振りながら「いいんです」と答えて言った。

「里見先輩はずっとそのままでいてください」

「何言ってんだ、お前」

 意味はわからずとも、バカにされたらしいのはわかる。ムッとして生意気な後輩を睨むと、沢村がアハハと声を上げて笑った。

「我が社のクールビューティが付き合ってるのは俺ですからね、先輩。そこんとこ忘れないでくださいね」

 沢村の明るい声音に、恵也は「なに寝言言ってんだ」と返す。

「いつまでもくっちゃべってないで早く仕事しろ! 俺たちの仕事は契約までじゃないんだぞ!」

 その言葉通り、恵也たちの仕事はここからである。会場の手配やセッティングの準備、宣伝やチラシ、人員の確保など仕事は山のようにある。

(それに……)

 仕事を盗られたライバル会社の動向も気になる。

(橘にはどう思われただろうか……)

 『枕営業も大変だなあ』

 橘の嘲るような言葉を思い出す。結局何も無かったが、次の間に敷かれた布団を見た後は覚悟を決めての酒席だった。枕営業と言われても否定は出来ない。

(軽蔑されただろうか……)

 その脳裏に、自分を見詰めて優しく微笑むライダースーツ姿の橘の顔が蘇える。その途端、胸がギュッと締め付けられるように痛んで、恵也は生まれて初めてのその感覚に狼狽えた。

(何だこれ……)

 病気だろうかと思って胸を撫でてみるが、痛みはもう無い。だが、橘の顔を思い浮かべた途端に再び胸がズキッと痛んだ。

「何だコレ……」

 恵也は胸に当てた手でシャツの胸元をギュッと掴む。視線に気付いて顔を上げると、沢村が眉を寄せてジッと見ていた。


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