Episode 4
エンジン音が、静かに低くなった。
アルトはバイクのスロットルを絞り、スラムの入り口にあたる細い路地へゆっくりと乗り入れた。石畳の上を走る振動が、くぐもった重さを持って伝わってくる。
「着いた。ここがオレの住んでるとこ——スラムだ」
バイクを路地の端に停め、アルトはサイドスタンドを蹴り下ろした。
「降りれるか?」
「……うん」
フィーネはアルトの背中からそっと離れ、地面に足をつけた。廃墟を走り抜けてきた風の名残が、まだ髪の毛の先に揺れている。
アルトはバイクの後部に括り付けていた荷物——戦闘機械から回収した部品を詰めた重たいバッグを、慣れた様子で両肩に担いだ。
「行こうか」
路地は狭く、入り組んでいる。頭上には洗濯物が所狭しと吊るされ、地面には水たまりと瓦礫が混在していた。あちこちから、飯の匂いと、油の匂いと、何かが腐ったような匂いが混ざり合って漂ってくる。
「……」
フィーネは黙って、周囲を見渡していた。
「なんというか……」
「汚いだろ」
アルトはあっさりと言った。
「慣れる。オレは生まれた時からここだから、もう気にならない」
少し先に、開けた広場が見えてきた。露店が並び、人々が行き交っている。魔法の光は、ほとんどない。代わりに、くすんだランタンの明かりが路地を照らしていた。
「あっちの中央区は、全然違うんだ」
アルトは顎で、スラムの向こう——高い建物が並ぶ、遠くの空の方向を示した。
「魔法が飛び交って、街灯も店も全部魔法で動いてる。住んでる連中も、みんな裕福でな。親が金持ちで魔法の家柄なら、一生働かなくても食っていけるくらい豊かな暮らしができる」
「……それが、魔法の国」
「そう。で、ここは——その中央から落ちぶれた奴、犯罪やって追われてる奴、あとはオレみたいに最初からここで生まれた奴なんかが集まってる場所だ」
アルトの声は、淡々としていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実を並べるような口調。
「信じられる人間は、ほとんどいない。平気で裏切る奴もいるし、油断してると荷物ごと消える。オレが付き合ってる人間は、片手で数えられるくらいだ」
フィーネは、黙って聞いていた。
「だから——変な奴に話しかけられても、ついていくなよ。オレのそばにいれば大丈夫だから」
アルトはそう言って、少しだけ歩く速度を落とした。フィーネが隣に並べるように。
「……うん」
フィーネは小さく頷いた。
***
歩きながら、フィーネが尋ねた。
「ねぇ、アルト。魔法って……みんな使えるの?」
(……そんなことも知らないのか)
アルトは一瞬、フィーネの横顔を見た。本気で知らなそうな顔をしている。
「……基本的には、みんな使える。生まれた時から使える属性が一つ決まってて——火、水、風、土、あと極めて稀に雷。どれか一つが、人間には備わってる」
「一つだけ?」
「そう。稀に二つ三つ使える奴もいるけど、そっちは例外だ。国の討伐部隊に引き抜かれたりする」
フィーネは小さく「へぇ」と相槌を打ちながら、周囲の人々を見渡した。
「でも——魔法って、人間が自力で出せるのはそれほど大きくないんだ。人にもよるが、少し炎を出せたり、ちょろっとした水流とか——多くの人間はそのくらいだ」
「それだけ?」
「それだけ。でも、魔導石っていう特殊な石に魔法を通すと話が変わる。魔道武器に魔導石を嵌め込んで使えば——炎なら爆発、水なら高圧水流——ものすごい力になる。魔導石は、魔法の力を何倍にも引き上げてくれるんだ」
「魔導石……」
「ただ、使い続けると魔導石は砕ける。消耗品だ。スラムじゃほとんど出回ってないから、みんな素の魔法を少し使える程度で終わってる」
フィーネはしばらく黙って、自分の手をじっと見た。
「……私も、使えるのかな」
「何か一つぐらいは使えると思うけどな」
(どうやって使うんだろう……)
フィーネは立ち止まり、掌を上に向けた。さっきから周囲で、鍋の火を起こしたり、洗い物に水を出したりしている人を何度か見かけていた。あんな感じで——手に、何か出ろ、と念じてみる。
しばらく、何も起きなかった。
「……何も出ないな」
フィーネは自分の手をじっと見たまま、少し残念そうに言った。
(……魔法が使えない人間って、珍しい。自分以外、会ったことがなかった——フィーネも使えないのか…)
フィーネはまた歩き出した。
「アルトの魔法は?」
「オレは使えない」
即答だった。
「え——でも、廃墟であの機械を止めたのは?」
「あれは魔法とは違う」
フィーネはアルトを見た。
「機械に触れると——構造が分かるんだ。どこがどう動いてるか、どこが壊れてるか、頭に直接流れ込んでくる感じで。壊れた機械なら直し方も分かるし、動いてる機械なら、動きを読んで制御することもできる」
「……流れ込んでくる」
「うまく説明できないけど——触れば分かる、みたいな感覚だ。廃墟でエイムを止めたのも、核の位置が触った瞬間に分かったから」
フィーネはしばらく、その言葉を咀嚼するように黙っていた。
「……すごい」
素直に、そう言った。
「そんなことないよ。魔法が使えない分の代わりみたいなもんだ」
「そんなことあると思う」
フィーネはきっぱりと言った。アルトは少し黙って、前を向いた。
「……まあ、便利なのは確かだけど」
***
そして——それは、広場に差し掛かった瞬間から始まった。
最初に気づいたのは、露店の親父だった。商品を並べる手が、ふと止まる。
次に、荷物を運んでいた女が立ち止まった。井戸端で喋っていた老婆たちの声が、不自然に途切れる。
広場を歩く人々の視線が、一点に集まっていく。
フィーネに。
「……ねぇ、アルト」
「分かってる。気にしなくていい、歩こう」
アルトは前を向いたまま、少し早足になった。
それでも、視線はついてくる。ひそひそとした声が、背後から聞こえてきた。
「あの子、誰だ……?」
「スラムで見たことない顔だな……」
「アルトの連れか? あのクズの……」
「いや、そんなことより——すごく、綺麗じゃないか……」
フィーネは、視線の意味が掴めないまま、ただアルトの隣を歩いていた。こんなに多くの人間に、一度に見られたことが、これまでなかった。
(……なんで、みんな見てるんだろう)
純粋な疑問として、フィーネは首を傾けた。




