9.アタシも混ぜてよ
炭鉱の中は、暗く、蒸し暑かった。祈りの声は常に耳にこびりつき、いっそ鼓膜を破ってしまいたくなる。
生臭さとやかましさに耐えながらしばらく進むと、奥の方から若竹色の光が届いた。本来なら清涼感を与えてくれる色の光も、この暗さと湿気の中では、怪しさを増すばかりだ。
さらに進むと、巨大な縦穴が現れた。ここが炭鉱の崩落地点だろうか。
青い光は穴の底から上ってきている。足元を見ると、長い長い階段が備え付けられていた。
足がすくんでいるおばちゃんをどうにか立たせ、階段を下っていく。
縦穴を進んでいけば、だんだん地下の様子が見えてきた。金属光沢を持った黒く巨大な柱、壁を削り出して作ったような石段、それを取り囲む信者たち。
そこは祭壇としか言いようのない場所だった。
「あの柱はなんなんだ?」
謎の紋様が刻まれた、黒く輝く柱。それを見ていると、恐怖とは別の、畏敬にも似た気持ちがあふれてきた。無意識のうちに頭を垂れてしまいたくなるような、ひどく強制的な威光。
柱から視線をそらし、信者たちに目を向ける。魚人化したもの、まだ人間の面影を残したもの、かたちは様々だ。その姿には吐き気を催すが、彼らも元は人間であるとわかる分、まだ耐えられた。
問題は、彼らの先頭で祈っている巨人だ。
「ダゴン……」
緑青子は忌々しげに名前を呼んだ。歴史の水底に潜み続けたその巨人は、見る者の魂を揺さぶり、根源的な嫌悪を与えてくる。
「僕が先に行く」
震える声をおさえ、少年は言った。緑青子とおばちゃんは引き留めたが、彼は率先して歩みだした。
「最初に僕が姿を見せれば、怪しまれないかもしれない」
そう言って、魚人たちの気色悪い合唱が響く中を、少年は進んでいった。
(覚悟決まりすぎだろ少年)
緑青子は階段の途中で身を隠しながら、少年の背を見送った。
「おや? 御子様ではありませんか」
「あ……こ、こんばんは」
「おかしいですね、君は入れないはず……いや、星辰の影響か……」
ダゴンのすぐそばで祈っていた男が少年に気づき、ゆっくり歩いてきた。男の顔は、かなり老け込んでいたものの、村史に載っていた村長――星守辰並――の雰囲気をそのまま残していた。
「今日は入れたから、気になって来ちゃったの。迷惑だった……?」
「いえ、君もいずれ必要になると思っていましたから、むしろちょうど良かった」
「ちょうど良かったって?」
星守は後ろの柱を手で示した。
「見てください、あの輝き。今日こそはクトゥルフ様もお目覚めになるはずです」
名前を聞き、緑青子はインカムに手を添える。
「クトゥルフだってさ」
『そこまで原作通りだったなんて……』
セシルは緑青子に説明する。
ダゴンよりもさらに恐るべき存在。神話そのものの名を冠する〈クトゥルフ〉。
〈旧支配者〉と呼ばれる、太古の世界に存在した超常の古き神々、その一柱がクトゥルフである。
クトゥルフは海底に沈む都市〈ルルイエ〉にて眠り続けているが、まれに波長の合う人間がその呼び声をとらえてしまい、様々な精神異常を起こしたりすると言われている。そんな神格が目覚めてしまえば、世界がどうなるかわかったものではない。
そしてそれに仕えるのがダゴン。つまりダゴンとは、主たるクトゥルフの眷属に過ぎないのだ。
「神話生物の収容方法ってある?」
『安全に管理って意味では、そんな方法ない』
「だろうね」
『でも伝承上だと、ダメージ与えて封印した例もあるわ』
「神様と殴り合いか」
かばんを握りしめ、戦闘に備える。
「クトゥルフを召喚」なんて、普通なら一笑に付す言葉だ。小説と現実の区別がつかない、異常者のたわごと。だがコズミック秘密教団は、手違いとはいえああしてダゴンを召喚しているし、もはや笑っている場合ではない。
現実にクトゥルフが顕現する前に、儀式を止めるしかない。
まずはどこから攻めるべきか、緑青子は冷静に見極めようとした。
虎視眈々と儀式をぶっ壊す手段を探っている獣に気づかないまま、星守は少年に話しかける。
「クトゥルフ様が降臨なされた暁には、我らはこの身を捧げねばなりません」
「捧げるって、みんな生贄にならなきゃいけないの……?」
「そうではありませんよ、生まれ変わるのです。新たな存在として、より深く、神々とつながるために」
星守の目は、完全に狂っていた。
「御子様、君は、クトゥルフ様とひとつになるのです」
「え……?」
「これはとても名誉なことなのですよ? 我々の中には、あなたに嫉妬している者までいる。我々と違い、君はさらに尊いお役目を果たせるのですから。クトゥルフ様の糧となること、それが君の役目。私には、その啓示が聞こえたのです」
星守が合図をすると、一心不乱に祈りを捧げていた村人たちが一斉に立ち上がり、少年を取り囲んだ。その中には、昼間緑青子に親しげに話しかけた漁師もいた。
「逃げてはいけませんよ。これが君の生まれた意味、この村に出現した理由なのですから」
魚人の中の数体が、少年に襲い掛かった。鱗の生えた手を伸ばし、少年の体を抑え込もうと迫り来る――
「しゃがめ、少年」
一閃。
鈍く重い音が、汚らわしい青の光の中に響く。
少年のすぐそばにいた魚人たちは、胴体を横から殴りつけられ、まとめて吹っ飛んだ。
少年が立ち上がると、そこには長大な丸太をかばんにしまう緑青子がいた。
「いいねいいね、おっさんと少年の絡み。アタシも混ぜてよ」
「お姉さん!」
緑青子は我慢できずに飛び出していた。包囲の中に入り込むことがどれだけ危険かはわかっていたが、あのまま黙って見ている気はさらさらなかった。
少年は緑青子に駆け寄り、彼女にしがみついた。
「あなた、欠片のにおいがしませんね。そもそもなぜ出歩いて……」
突然の乱入者に驚くことなく、星守は緑青子の後ろの方を睨んだ。
目を合わせてしまったおばちゃんは逃げることもできず、その場で腰を抜かした。
「山田さん、なぜあなたも……いやそれより、見張りは?」
「ひぃぃぃぃぃっ!」
「おばちゃんは関係ねーよ。おっさん嘔吐ダイエットって知ってる? 食ったそばから吐き出すやつ。アタシあれやってんだよね」
緑青子は相手を煽るように、「オエッ」と身振りで伝える。
「したらゲロに混ざってオタマジャクシいんの! 笑っちゃうよねー、いや笑えねーよボケが」
セシルは管制室で笑っていた。危機に陥れば陥るほど反発する緑青子の性格を、セシルはとても好んでいた。
「嘘はやめなさい。あなたのその体……とてもダイエットなんてしているようには見えませんよ」
「正気か? 死んだ魚みたいな目ェしてるとは思ったけど濁りすぎだろ。アタシのこのドスケベボディを見て抱く感想とは思えない。腹筋いい感じに割りつつ胸と尻に脂肪つけるやり方とか、アタシがどれだけ苦労したかわかって言ってるのか?」
最初は適当だった緑青子は、いま本気でブチ切れていた。セシルは爆笑していた。
緑青子に襲いかかろうとしている魚人を制し、星守は会話を続ける。
「いえ、良い体をしていると思いますよ」
「うげっ、今度はいきなりセクハラかよ」
「神の花嫁に、あなたは適しているでしょう」
煽り合いの気配が消えた。星守は屈託のない瞳で緑青子を見た。
「大きくて、頑丈そうで……元気な子を産めそうですね。あなたが来てくれて良かった」
緑青子の肌が粟立つ。デリカシーのない中年に「安産型」と言われるのとはわけが違う。下心がないからこそ、より直接的な悪意に満ちていた。
「私の娘は失敗してしまったので」
星守の口から娘の名が出て、緑青子は少し冷静になった。そう、ことの始まりはその娘だった。
「あんたの娘……葉山凛。地下室に監禁されてるのを見たぞ、いったい何があった? あいつが番組に依頼を送った理由も、わかんねーことばっかだ」
「あなた、どこまで知って……。まあいいでしょう、いずれあなたは我々の女王となるお方ですから」
自分勝手なことだけ述べて、星守は語りだした。
「娘には神の花嫁となり、ダゴン様やクトゥルフ様の子を産んでもらう予定でした。そのために、外に住んでいる娘を呼び戻し、欠片を食べさせ、母になるための準備をさせたのですが…………なにがいけなかったのか、適合しきれなかったんです。あの子には本当に失望した」
娘のことをなんとも思っていない様子が、緑青子の神経を逆なでする。
「ですがあなたが現れた。稀にみる体格、肉付きの良い体。あなたこそ本物なのだと確信しました。娘はあなたを呼ぶための触媒だったのかもしれませんね」
「アタシも適合しない可能性は考えなかった?」
「そこは私も危惧するところでした。ですがダゴン様が、あの女だとおっしゃったのです」
緑青子は柱の下で祈りを続けるダゴンを見て、本当に吐きそうになってしまった。あんなヤツの子を産むなんて、考えただけでも死にたくなる。
「言いたいことは色々あるけど今は置いといてやる。で、番組の方は?」
「ああそうでした。そちらもお教えしましょう、我らの女王、我らの母よ」
緑青子は下腹部が締め付けられる思いだった。だが弱みを見せぬよう、必死に耐える。
「娘を花嫁にする前段階の話です。神に捧げる身は多い方がいい、言ってしまえば、信者集めがしたかったんですよ。話題作りです」
「急にスケール落ちたな、まあカルト感あってお似合いだよ」
緑青子と違い、星守はあまり挑発に乗るタイプではなかった。
「案を考えたのは私です。村に呼び戻した娘に話すと、パパのためになるならと協力してくれました」
「父親思いな娘だな。嘘をついてまで……」
「普段はダゴン様が祭壇を秘匿しているのですが、ロケの日だけはその秘匿を明かし、娘が番組クルーをおびき寄せました」
「番組に、わざと教団のあれこれを見せたのか」
「はい。スタッフたちは大慌てでしたよ。それにテレビ番組は、宗教が絡むと慎重になりますから」
「それで調査打ち切り、ね」
「あとは娘さえまともなら、心配事はなかったのですが」
この男が娘のことを語っているのを聞くと反吐が出るので、緑青子は話をそらす。
「にしても考えがおっさんだな。今の時代、バズりたいならSNSだろ。なんでテレビ番組?」
「もちろん考えましたよ。現代はご当地ゆるキャラも珍しくありませんし、村おこしで使ったアレを再利用しようかと思いました」
「コズミっくんね。このタコどもはキモいけど、着ぐるみにしたらかわいいと思うよ」
「でもね、話題になりすぎると困るんですよ。一気に人が来てしまっては、我々も対応しきれない」
意外と普通に答えが返ってきたので、緑青子は少し、ばつが悪かった。
「まずは深夜枠の、人気のないしょうもない番組がちょうどいいと思いました。そこからなら、適度に話題になると思ったので」
「なに……?」
「村全体ではなく、山だけを紹介したのも功を奏しました。そうすれば、よほどの物好きしかやって来ませんから」
セシルから聞いた話を思い出す。確かにこの話題はちょっとした都市伝説程度の扱い、つまりちょうど良い盛り上がりになっていた。しかし今、緑青子にとって重要なのはそこではない。
「あのなおっさん、ムカついたから言っとくよ。ナイトスコープは確かにしょうもない企画ばっかやってる。でもそういうとこが人気の秘訣なんだ。わかる? に・ん・き」
腰に手を当て、緑青子は続ける。
「それとな、話題になりすぎると困るとか言ってたけど、お前らにそこまでのポテンシャルはねーよ。自惚れんな」
星守は、冷めた目で緑青子を見ていた。
「少し不安になってきました……欠片を食してなお、こうも反発する」
「だから吐いたって言ったじゃん、嘘はついてないよ」
おばちゃんの協力があったことや、少年がダゴンを弱体化させていることは絶対に言わない。緑青子はターゲットが自分だけになるように、身振り手振りで視線を自分に集中させた。
「まあ……さらに食べさせればいいだけのこと」
星守が言うと、今の今まで「いあ、くとぅるふ、るるいえ――」と唱え続けていたダゴンが立ち上がり、緑青子の方を向いた。