白は黒へ④
暗い天井を見上げながら紡いだネルヴァの言葉は、意味が分からないとリゼルが零すのは無理もない。天界の扉を開錠したことによって人間界にいる天使達が挙って帰還している中に、いる筈のヨハネスがいなかったせいで人間界へ押し掛けたか。予想を口にしたリゼルだが、深く考え込むネルヴァの横顔を一瞥し違うと悟った。急激に上昇していく神力からして、地上では只事ではない事態が起きていると考えていい。己の手首や身体に巻かれた魔力封じの枷を見た。強制解除をしようものなら可能。最高の技術と材料を用いて作られた代物だろうが所詮人間が編み出した産物。上位魔族のリゼルには何ら通用しない。傷の方は魔力を封じられている為治りが遅いがこのまま放置してもやはり問題がなく、視線を下げたネルヴァに気付く。
「ネルヴァ」
「リゼ君、君はこの神力の上昇をどう見る」
「よくはないな。リシェルがいなければ捨て置いたのに」
「神の祝福が授けられる帝国を見捨てるのは、私としても避けたいのだよ。……このまま上昇が続けば“最悪の予想”が当たってしまう」
ネルヴァの言う“最悪の予想”とは……。続きを口にせず、黙ってしまったネルヴァはジッと自身を凝視するリゼルの視線が居心地悪いらしく、困ったように眉を下げた。
「言わなくたって分かるでしょう。察して」
「ああ、察してはいる。お前の口から出れば確実になるがな」
「私が言えばそうなる。言いたくないのだけど」
視線を逸らし会話の続行を拒もうとリゼルの無言の追及は終わらない。
ネルヴァは観念して溜め息と共に放った。
「堕天、さ」
「……」
ついこの間、智天使カマエルが思念と化したアメティスタ元当主によって堕天させられたばかり。
「もしもユリアの神力がこのまま上昇し続け、体内の汚れが爆発的に増えれば——堕天は免れない」
「心当たりはあるか」
「分からない。あるとすればヨハネス…………」
ヨハネスの名を口にした辺りで声が途切れたネルヴァ。リゼルが見ている横顔に険しさが増した。先々代の神ヘルトの魔の手からヴィルを頼りに逃がしたが、その後の足取りをネルヴァは追えない。
「……ヴィルが手に負えない事態が起きてヨハネスに危険が迫っているんだ」
「母親が運悪くそこに鉢合わせしたと?」
「それがしっくりくる。別の理由があるなら逆に知りたいよ」
「知るか」
最もしっくりくる理由が浮かべどユリアが何故人間界にいるのかが大きな疑問点。考えられるのは、強制的に天界へ連れ戻そうとしたアンドリューを押し退け、自分がヨハネスを連れて帰ると啖呵を切ったか。若しくは、ヨハネス自身の意思で戻ってもらうよう説得をしに来たかのどちらかが高い。ユリア本人に会って神力の上昇を止めたいところであるネルヴァだが、これがヘルトの罠という可能性も捨てきれず下手に動くという選択肢が浮かばない。側にヴィルがいてくれるならユリアを止めてほしい。ふう、と息を吐いたネルヴァにある疑問をリゼルが投げかけた。
「神族が堕天したなら何時以来だ」
「まだしてないって。私が知る限りはない。私より長生きなミカエル君やキドザエルに聞いても同じ」
長い長い歴史上神族が堕天した事例はない。智天使の堕天も実はと言えばカマエルが初めて。
「大昔、神に近い天使が堕天しなかったか」
「私や君が生まれるずっっっと前の話だね。ルシファーだっけ」
「天界だけじゃなく、魔界や人間界に大層な迷惑をかけたらしいな」
「生まれていない頃の話をされてもね」
生まれていないのはリゼルも同じ。神に近いと恐れられた熾天使ルシファーの堕天使化は、天界・魔界・人間界の三界の勢力を以て斃されたとされる。ネルヴァの最悪の予想であるユリアが堕天してしまえば、ルシファー以来の最悪の堕天となる。
幸い、天界と魔界で最も強い力を持つネルヴァとリゼルが同じ場所にいる。神族の堕天という、最悪の最悪過ぎる展開が起きようと防ぐ術はある。
「枷を壊すか」
「そうしたいのは山々なんだけど……」
銀瞳を光らせるネルヴァの返答は濁ったもので、何が見えているかと問えば、ネメシスとブランシュともう一人知らない顔の魔法使いが地下牢に入ったと告げられた。よくよく耳を研ぎ澄ませば足音が近付いてきていた。
同僚が二人爆発に巻き込まれ肉塊と化したのだ、元凶たる魔族に尋問するべく足を運びに来たのだ。同じ牢には天使様がいるがブランシュはどう言うつもりか。
「二人はそこで待っていてください。まずは、私が先に入って魔族の拘束を強めます」
扉の前に着いたブランシュの声は丸っと聞こえ、だって、と言いたげに笑むネルヴァを鬱陶し気に睨むリゼル。扉が開かれると微かな光が差し込んだ。同じ牢に天使様を捕えていると知られたくないのは当たっていたようで……ブランシュ——基ヘルトは、入るなりネルヴァの胸倉を掴み、塵を抛るように地下牢の隅へ投げた。力加減もなく投げられ、壁に身体を強打し一瞬息が詰まった。
「お前が見つかれば面倒だ。ネルヴァ、暫くそこで大人しくしていることだ」
目の前まで近付き、振り上げた足をネルヴァの腹に躊躇なく落とし込まれ、強く呻いたネルヴァの口から大量の血が吐き出された。ブランシュの目が挑発するようにリゼルを見やるが、至って気にしていないらしく一切ネルヴァを見ようとしない。鼻を鳴らし、膝を折ってネルヴァが吐いた血を指で掬い長い舌で舐めながら厭らしい笑みを見せた。壁に捻じ込まれたネルヴァが嫌悪感丸出しで睨む。気を良くしたヘルトは「そのまま大人しくしていろよ」とネルヴァの姿を隠すと意識をブランシュに返した。
「ネメシス、リューリュー、入ってきてください」
ブランシュの呼び掛けにネメシスとグレーヘアーの女性が入った。この女性がリューリューと認識する。
「この魔族は……」とネメシス。
「知ってるのか?」
「ええ。フローラリア家の長女ジューリアお嬢様を攫った魔族で間違いありません」
「シメオンやテミスに重傷を負わせた挙句、テミスを攫った魔族か……!」
安否が不明なテミスや娘を目の前で攫われ重傷を負わされたシメオンを思って憤るリューリューは止めるブランシュの制止を振り払い、涼しい顔で見上げるリゼルの胸倉を掴んだ。
「答えろ! ジューリアお嬢様は何処にいる!? 無事なのか!」
「殺していたらどうする」
「なっ」
絶句し、固まったリューリューを嗤ったのも束の間。胸倉を掴まれたまま壁に捻じ込まれる勢いで押され、背中の骨が軋み痛みが走る。痛みを感じてもリゼルの余裕の表情は崩れないことに腹を立てたリューリューに更に押し込まれていった。危険だとブランシュやネメシスが叫んでもリューリューは力を緩めない。
「殺したのか!?」
「血の気の多い女だ。おれはうるさいのが嫌いなんだ、黙っていろ」
「っ!!」
胸倉を掴む手を強く握り締めてリューリューを強引に引き寄せ、硬直したリューリューの顔が間近に迫った時——口を開いたリゼルの鋭い歯がリューリューの頬を挟んだ。誰かの悲鳴が上がった直後、力加減を一切せずリゼルは顔を逸らした。歯に挟んだ頬肉を道連れに。
「ひ、ぎ——」
片頬全て噛み千切られ血肉が丸出しにされ、噴水の如き勢いで噴く血液は壁に散り、血を浴びて嗤うリゼルを本能が恐れる。魔王級の魔力を持った魔族をまともに相手取れる人間はいない。天使の子供が洗脳されて強制的に成長させられたネメシスも、先々代の神ヘルトが肉体を乗っ取ろうとブランシュは人間。本能が警告を放つ根源的恐怖は逃れられない。
「本気で人間如きが魔族に勝てると思ったか。だとしたら、相当お目出度い頭をしているんだな」
離れた位置でリゼルの蛮行を眺めているネルヴァはというと。
「(愉しんでるなあリゼ君。あれされちゃうと痛いのはよーく知ってる)」
子供の頃リゼルに瀕死の重傷を負った一番の理由がテミスに行った噛み付き。野蛮で獣じみた行為という理由でリシェルには絶対晒さないリゼルの意外な一面だ。
歯の力が獣並みに強いせいで血肉ごと持っていかれ、再生に多量の時間を要したのだ。
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