26 双子の思惑
バランスを取りながら踵で台の上の硬い部分を探ると、アッシュは思い切り御者台を蹴って前に跳んだ。
「何!」
ヴァレルが気配に気づいて振り向くと、ほとんど同時に、アッシュはガツンと音を立て、車輪馬の尻の部分に着地した。しかし、車輪馬は鞍の部分以外は、滑らかな曲線を描いており、踵を滑らせてバランスを崩す。
「アッシュ!」
ヴァレルは反射的に右腕を伸ばした。アッシュは倒れ込みながら、何とか、その腕にしがみつく。
「……助かった!」
「そりゃ、結構だけど。早く、馬の尻の方に乗ってくれよ」
ヴァレルも姿勢を崩しながら、何とか操舵を真っ直ぐに保っている状態だった。
「―――悪いな」
アッシュは両足でしっかりと車輪馬に跨る。ヴァレルが座る座席の後方に突起物があり、そこに捕まることで、体勢が安定した。
「おまえが落ちても気分悪いから、しっかり?まっとけよ」
「―――君は、まだ止まる気はないのか?」
アッシュの抗議に対して、ヴァレルは呆れ顔で応じる。
「それにしてもさ、アッシュ。おまえも無茶苦茶やるよな」
「無茶なのは、君の方だろう! こんなスピードで曲がろうなんて、凄腕の御者だって、絶対にやるはずがない!」
ヴァレルは鼻を鳴らした。
「なーんだ。御者って、つまらない奴ばかりだな。でもさ、アッシュは、結構面白い奴だと思うぜ―――何だよ、さっきの格好!」
ヴァレルは思い出して、ゲラゲラ笑う。
アッシュは怒りに打ち震えた。
「僕を馬鹿にするなよ! 君がやってることの方が、普通じゃないんだ!」
罵詈雑言を並べ立てたかったが、今は、ヴァレルを止めることが先決だ。アッシュは歯軋りして、悔しさを噛み潰す。
「ヴァレル。僕のことは、どうでも良いんだ―――そろそろ、この無謀な遊びをやめにしないか? 君の連れの女の子は、それまでタフじゃないはずだ」
抗議は、相手に響かなかった。ヴァレルは車輪馬を滑走させることに気を取られて、真面目に聞いていない。
「ヘルガも素人って訳じゃないんだ。このくらいのこと、何とかすると思うぜ」
アッシュの怒りは、頂点に達した。
「そんなに無責任なことを、どうして言えるんだ!」
アッシュは無理矢理に腕を伸ばして、車輪馬の操舵をヴァレルから奪おうとする。
「―――おい、よせよ。余計に危ないだろうが!」
ヴァレルは文句を言うが、アッシュは引かなかった。
「うるさいぞ! 君はどれほど危険なことをしているのか、判っていないんだ―――それでも、自分だけを危険に晒すのなら、好きにすれば良い。だけど―――周りを我儘につき合わせるのはやめるんだ!」
ヴァレルは舌打ちして、アッシュの方に振り向いた。
「判ったよ、アッシュ。おまえも身体を張ったんだ、今回は言うことを聞いてやるよ」
「―――本当か?」
アッシュは半信半疑で聞き返す。
「君が、そんなに殊勝な男だとは思えないが―――」
ヴァレルの身体越しに、前方の景色を見る。狭い路地は百メートルほど前方で、別の通りと交差していた。眩い灯輝柱の群れに気づき、アッシュは叫んだ。
「……おい、ヴァレル……今すぐスピードを落とすんだ!」
馬車は狭い路地を抜けて、広い空間に飛び出した。
城塞都市の南にある正門から続くメインストリートには、馬車と人が溢れていた。広場と見紛うほどの広い道幅の、真ん中半分を往復二列の馬車の列が、残り半分を人の波が埋めている―――ヴァレルたちの馬車が横切れるスペースなど、何処にもない。
「慌てるなって―――」
ヴァレルは、空間全体を視覚情報として捉えて、空いている空間を探した。人が動くベクトルを計算に入れて、馬車の通り道が確保できる一瞬を探し当てる。
「退けぇぇぇ!」
叫びながら、ヴァレルは車輪馬をさらに加速させた。斜め左に微妙に進路を変えながら、馬車の横幅ギリギリで人通りが途切れる直線に、車体を滑り込ませる。
「―――馬鹿野郎!」
眼前を擦り抜けられた人々が、奇声と罵声を浴びせるが、ヴァレルは聞いていなかった。青い目が、次の障害を見据える。
数メートル先では、往復馬車の列が、緩やかな速度で行き交っている。馬車と馬車の間に多少の距離は開けられていたが、別の一台が列を横切れるような場所は、どこにもない。
―――ブツかる!
アッシュは、衝突の衝撃と痛みを想像するが、恐怖に目を閉じたりはしなかった。流れる風景を、まるで走馬灯のように、スローモーションに感じる。
突然、馬車は左に九十度向きを変えた。しかし、殺し切れない前向きの慣性の力に、車輪馬と馬車の車輪は、金属音を響かせながら、火花を散らす。
コントロールを失った車体は、不規則な挙動を繰り返しながら、通りを行き交う馬車の列に迫り―――衝突しなかった。
―――一分後。
北へ向かう馬車の列の中に、ヴァレルたちの姿があった。
先ほど、すぐ後ろの一台が急停止したため、後方に隙間ができているが、その一台も、すでに動き出しており、馬車の流れは、正常に戻ろうとしていた。
―――何が起きたんだ?
アッシュは、まだ状況が理解できなかった。回答を求めて、ヴァレルを見る。
「ヴァレル。君は、何をしたんだ?」
列の緩やかな流れに合わせて車輪馬を動かしながら、ヴァレルは欠伸をした。
「簡単なことさ。馬車が速すぎたから、ブレーキを掛けたんだよ」
琥珀色の瞳は、苛立ちを隠せない。
「あのスピードをブレーキで即座に止められるなら、誰も苦労はしない。世の中から『事故』という言葉すら、なくなるだろうさ―――まあ、ヴァレル。本当のことを教えてくれ」
「直進する力が殺しきれないなら、逆向きに同等以上の力を加えて、相殺してやれば良い―――」
いつの間にか、ヴァレルは右手に、抜き身の長剣を握っていた。銀の柄の剣は、まだ微かに赤い光を放っている。
「武装技術の力で、馬車を止めたというのか?」
アッシュは驚愕した顔で、まじまじとヴァレルを見た。
「車輪馬の方は、な―――」
ヴァレルは、何食わぬ顔で応える。
「馬車の車体を止めたのはオレじゃない。ヘルガだ」
後方を見るように促されて、アッシュは馬車の方に振り向いた。御者席の後ろのガラス越しに、ヘルガは組んだ腕に顎を乗せた姿勢で、こちらを睨んでいる。
「……ヴァレル。私が馬車を止めなかったら、どうするつもりだったのよ?」
「そうだな。武装技術で魔力を右からぶつけて、強引にでも止めたぜ」
そのときは、車体は無傷では済まなかっただろう。先ほどまでのアッシュなら文句を言っていたところだが、今は別のことに、気をとられていた。
「―――貴女は言錬使いなのですか?」
敬うような眼差しに、ヘルガは苦笑した。
「そんなに、大層なモノじゃないわ。私は、ジェノベーゼの大学で、マナ・アートについて研究していただけよ」
その言葉は謙遜だった。言錬技術を習得するには、武装技術の場合と同等以上の才能と修練が必要であり、希少性では、武装技術の使い手を上回っている。
「ヴァレル―――」
アッシュは向き直り、厳しい目で詰問した。
「君たちが『死者の宴』に行く目的は何だ? まさか、来賓歓迎パーティーを本当に見に行くだけとは、言わせないぞ」
「ヘルガは、本気でイベントが見たいらしいぜ―――」
ヴァレルは相変わらず、気乗りしない様子でヘルガの方を伺う。
それから、アッシュの方に視線を戻すと、青い目が不意に鋭くなった。
「―――『不死者の宴』のオーナーは、あのカイエ・ラクシエルなんだろう? そいつも、今夜のパーティーに顔を出すのか?」
言わずと知れたクランベルクの創設者だ。
「おそらく、それはないだろう。ラクシエル氏が公の場に姿をあらわすことは、十年以上前から皆無だと思うが―――ヴァレル。君の目的は、ラクシエル氏に会うことなのか?」
アッシュは疑うような顔をした。
「何のためだ?」




