9 双子の妹ヘルガの理由
クレイ船長と、ひと悶着があってから二日後。
夕暮れの薄闇を進む白鳥号の甲板に、双子の姿があった。船首に程近い場所で、ようやく冷めてきた風を受けている。
ヴァレルの傷は、すっかり癒えていた。ヴァレル自身の回復力も大したものだったが、ヘルガが言錬技術で体内のマナを活性化させて、回復を後押ししたのだ。
重傷に思えたヴァレルの傷が、これほど早く癒えたことは素直に嬉しい。
それでも、ヘルガは不機嫌だった。ヴァレルの態度に、違和感を感じていたからだ。
「そう言えばさ――あんた、クリスのシャツ、今でも持ってるの?」
ヴァレルは船首から身を乗り出すようにして、真鍮製の望遠鏡を覗き込んでいた。短く切った砂色の髪が、風を受けてなびく。海の色の瞳は右側だけ開かれて、望遠鏡のガラス越しに、闇を映し出していた。
「シャツ? どうだったかな。寮で荷物を纏めてたときは、見当たらなかったけど」
応える間も、ヴァレルは望遠鏡を離さなかった。
背後からヘルガは、つかつかと近づいて、ヴァレルのすぐ後ろに立つ。
「ねえ。さっきから、何を見てるのよ?」
「そろそろ、クランベルクの街明かりが見えるかと思ってさ。一時間くらい前に、公国の領域内に入っただろう?」
ヴァレルの頭の中には陸走船の航路と、その周辺の地図が、鮮明に浮かび上がっていた。
現在地を把握することは、戦略を練る上での基本事項だ。速度と方角から計算して、記憶の中の地図に移動線を引く。クランベルクと間に聳えて視界を閉ざしていた山岳地帯は、すでに後方に消えていた。
それでも、望遠鏡が映す薄闇の中に、都市の光は見えない。
「チッ!」
ヴァレルは顔をしかめて、諦めて望遠鏡を降ろす。
「ダメだな。吸光霧が濃すぎて、全く見えないぜ」
大陸中西部のスクラド地方には、春先から晩秋までという一年の三分の二以上の長い期間、吸光霧と呼ばれる特殊な霧が立ち込める。光を吸収する性質を持つ灰色の霧は、数メートル先が見渡せないほど濃く、この地域の平均日照時間は、他の半分以下だった。
さらに夜間になると、北に聳えるガリウス山脈から吹き降ろす風が、吸光霧をスクラド地方全域に拡散させる。風に引き伸ばされて霧は多少は薄くなるが、それでも、闇とともに視界を塞ぐには十分だった。
「そんなの、あたり前じゃない。陸走船の上でなければ、私たちだって、吸光霧に囲まれてるわ。」
陸走船の周囲に迫る吸光霧の存在を、ヘルガは感じ取っていた。船体から放たれる魔力の力場が、霧の進入を防いでいるため、目の届く範囲に灰色の霧は見えないが、そうでなければ、甲板の上すら見渡せないだろう。
「だいたいね。真冬でもなければ、月明かりの下で、城壁の外からクランベルクを見るなんて、ほとんど不可能だわ。周囲の山岳地帯と吸光霧が自然の防壁になって、クランベルクを外界から遮断する。だから、クランベルクは『霧の要塞都市』って呼ばれているんでしょ」
クランベルクの数ある字の一つだ。
創世記のクランベルクは、自然の要害に隠されて、その存在を、ほとんどの知られていなかった。だから、クランベルク建国から数年後、突然姿をあらわした陸走船という奇妙な乗り物と、それによって運ばれてきた高度なマナ・テクノロジーを見せつけられたとき、大陸の国々は戦慄すら覚えた。
「冬になったら、なったで、今度は豪雪で街道が塞がれるから、近づくこともできない。街の外から、闇夜に輝く幻想的な姿を眺めることができるのは、ほんの一握りの幸運な人間だけ―――地理書には、そう書いてあっただろ?」
そんなことはオレも知っていると、ヴァレルは皮肉を込めて笑った。
「それでも、陸走船の乗客になれば、雪は関係ない。幸運の希少価値は、随分と下がっちまったな」
ヘルガは、ふんと鼻を鳴らして横を向く。
「判っているんだったら、それこそ真冬に来れば良かったじゃない。海軍に入っても、バカンス休暇くらい取れるんでしょ?」
ヴァレルは右手で、望遠鏡をクルクルと回して弄ぶ。
「クランベルクの光を見たいだけなら、そうするさ。でも、それじゃ意味がないんだよ」
「どういうことよ?」
「あのなあ、今、言っただろう。金で買える幸運なんて、価値があるとは思わない。オレは自分で掴み取れるか、試してみたいんだよ」
海のように青い瞳が、挑発的に煌く。ヴァレルらしい台詞だと、ヘルガは思った。だからこそ―――。
ヘルガは余計に腹が立った。ヴァレルが、いつもと変わらないままでいられるような状況では、ないのだ。
クレイ船長との戦いは、言い訳できないほど一方的なヴァレルの敗北だった。あんな負け方をしたら、いつものヴァレルなら、大声で喚き散らすくらいでは済まないだろう。きっと、滅茶苦茶に物を壊して「絶対復讐してやる」と飛び出していくに違いない。
―――あんたは、そんな奴じゃない。
ヘルガが知っているヴァレルは、ヘラヘラ笑って負けを認めたりしない。決して、そんな腑抜けではないはずだ。
「あんたさ、格好つけてるつもりなの?」
苛立ちを隠す気はなかった。真正面から、ヴァレルを睨みつける。
「何だよ、急に?」
ヘルガの気持ちなど、まるで判っていない。ヘルガは無言で、ヴァレルが回している望遠鏡を叩き落した。
「誤魔化さないでよ! クレイ船長と戦ってから、ずっと、そんな調子じゃない。あんな負け方をして
―――あんた、悔しいと思ってないの?」
「そりゃあ、悔しいとは思ってるぜ」
まだ。まだ軽すぎる言葉―――どうして?
「……だったら、もっと悔しがりなさいよ! 嫌な大人みたいに、取り繕うことなんて、ないわ……そんなの、ヴァレルじゃない……」
怒りとは裏腹に、涙がボロボロと溢れ出す――
怒涛のように流れ出した感情を、ヘルガは抑えることができなかった。
「……ねえ、ヴァレル……どうしてなの!」
肩を震わせて叫ぶ妹を、ヴァレルは静かに眺めた。そういうことかと、自分の頭を掻きながら、逆の手で、ヘルガの肩にそっと触れる。
「オレが悪かったよ、ヘルガ。心配させたみたいだな」
「あんたのことなんて……心配なんか、するはずないでしょ!」
髪を撫でようと右手を伸ばすと、ヘルガが反射的に振り払おうとする。
ヴァレルは、その腕を掴んで、無理やり引き寄せた。
「放してよ……」
ヘルガの怒った顔を、海のように青い瞳が、真っ直ぐに見つめる。ヴァレルは、ゆっくりと語った。
「全く悔しくないと言ったら、嘘になる。だけど―――それよりもオレは、初めから勝てないと判っていた相手と、戦えたことが嬉しいんだ」
ヴァレルの言いたいことが、ヘルガには判らなかった。
「だったら、何で戦ったのよ? 殺されていたかも知れないのに」
「陸走船の船長が、乗客を殺すはずがないだろ」
「そんなの、判らないじゃない! あんたは、武装技術まで使ったのよ。正当防衛だって言われたら、それまでだわ。それに、クレイ船長に、殺す気がなくても、事故で殺してしまうことだって……」
当然すぎるヘルガの言葉。
しかし、ヴァレルは、そんなことかという顔をした。
「クレイは、戦いに言い訳を持ち込むタマじゃない。事故なんて、もっとありえないぜ。あいつの腕で、そんなヘマをするかよ」
クレイ船長が、自分を殺すことはない。その確信を持った上で、戦いを挑んだのだ。
ヴァレルは、口元だけに、挑発するような笑みを浮かべる。
「自分が絶対に勝てない相手と、殺されるリスクを負わずに、しかも試合でなく実戦で戦える機会なんて、そうはないだろ?」
ヘルガは納得しなかった。
「あんたが、クレイ船長の何を知っているのよ。この船に乗って、初めて会ったのよね? クレイ船長が、あんたを殺さないなんて、ただの思い込みだわ」
「それでも、オレは、自分の感覚を信じている。もし、それが間違いで、そのせいで自分が死んだとしても、仕方ないさ。後悔なんてしないぜ」
「無茶苦茶だよ、そんなの。全然理屈になってないわ」
「何とでも言ってくれよ。オレは、自分の考え方を変える気はないぜ」
ヴァレルは、悪びれる様子もない。この男には、何を言っても無駄らしい。
「あんた、頭ぶっ壊れてんじゃないの?」
腹立ち紛れの言葉。ヴァレルは意外なほど素直に応じた。
「ヘルガから見たら、そうかもな。たまに、オレ自身も、自分が壊れているって思うことがあるからさ」
ヴァレルは悪戯っぽく笑って続けた。
「だけどさ。これでも、必死に頭使っているんだぜ。後悔なんて絶対にしないけど、死んだら、そこで終わりだからな―――クレイみたいな奴と戦い続けたいなら、どんな手段を使っても、生き残らなくちゃならないだろ?」
今のヴァレルの実力は、客観的に見て「まあ」強い方だった。
士官学校では、本気で戦えば、誰にも負けなかったし、実戦経験だって、十四歳から積んでいる。今すぐ最前線に放り込まれても、期待された戦果を上げる自信はあった。
しかし、所詮は、その程度だ。
一人で戦局を変えられるような者たちから見れば、ヴァレルなど、その他大勢に過ぎないだろう。昔、クリスの言っていたことは、本当だった。あの戦いを思い出すと、今でも、背筋がゾクゾクする。
「人間って奴は、あそこまで強くなれるんだよな。オレは、それを肌で感じることができた。だからさ―――絶対に、クレイや、クリスを倒した奴と同じ場所に、辿り着いてやるさ。そのためなら、どんなことだってやる覚悟はある」
ヴァレルは無謀な戦いの中に自ら飛び込んで、自分の限界点を試しながら、彼方に見えるモノに手を伸ばしている。だから、一時の敗北など、彼にとっては、大した意味などないのだ。
ヘルガはようやく、それを理解した。ヴァレルは、子供の頃から変わらない、自分が良く知っているヴァレルのままだ。ただ、少しだけ。自分の足で立つ、自分だけの新しいやり方を見つけたのだ。
「わかったわよ。もう、何も言わないわ」
ヘルガは両目をこすって、恥ずかしそうに笑った。甲板に転がる望遠鏡を拾うと、「ごめんね」とヴァレルに手渡す。
「壊れてないよな? 結構、高かったんだぜ」
レンズを覗き込んで確かめると、短く畳んでポケットにしまう。
「ガラスは割れてない。小さい傷くらいは、勘弁してやるよ」
「そんな細かいこというと、女の子に嫌われるよ」
ヘルガは舌を出して、拗ねた顔をした。
「せめて、白鳥号を降りるまでは、もう大人しくしていてよ。船を追い出されて、歩いてクランベルクに行くなんて、ごめんだからね」
「ああ、判ったよ。さすがにオレでも、残りの一時間の間に、次のチャンスが来るなんて思ってないぜ」
「あんたねえ。全然判っていないじゃない、全く!」
ヴァレルは、確信犯の笑みを浮かべている。ヘルガは本気で、殴ってやりたいと思った。
「あーあ。何で私は、こんな馬鹿兄貴と一緒の船に乗っているのよ?」
「そのことだけどさ、ヘルガ?」
ヴァレルは、思い出したという感じで言った。
「オレは、初めから不思議に思っていたんだ。どうして、クランベルクまで着いてきたんだよ? おまえの専攻なら、他に行き先は、幾らでもあるだろ?」
士官学校の卒業祝いとして、ヴァレルは、父親に、クランベルクへ旅費を肩代わりして貰った。それなりの金額であり、すぐには無理だが、出世払いで返すつもりだ。
同じ時期に、ヘルガも飛び級で大学を卒業していた。兄妹だから、同じように父親に褒美をねだったことは理解できる。しかし、同じように旅費を、しかも、行き先までヴァレルと同じにする必要はなかった。
「オレにはクランベルクに行く理由も、目的もある。だけどさ、おまえが、クランベルクの話をしていたこ
となんて。全然記憶にないぜ」
「あら、私だって、マナ・アートの研究者として、最先端の技術を抱える『眠らない都市』を見たいと思っていたわよ。ずっと前から、旅行に行くなら、絶対にクランベルクにするって決めていたわ」
嘘ではなかった。しかし、本心を言うと、それは理由の一つに過ぎない。
確かに、大学の教授から紹介状を貰ってはいた。しかし、一学生に過ぎない自分が、大学や研究室を訪れたところで、「観光向けの珍しいもの」は見せてくれても、内部構造や、技術の根底にある原理といった部分まで、開示してくれるとは思えない。
そもそも、マナの技術を学ぶには、滞在期間が短すぎるのだ。たった一ヶ月半では、技術に触れる程度のことしかできないだろう。
ヴァレルは、疑わしげな顔をする。
「ホントか? 何か、他に企んでいるんじゃないのかよ?」
「あんたねえ。たった一人の妹の言うことが、信じられないの?」
「別に、そういう訳じゃないけどさ」
「私は、あんたの馬鹿なやり方を、たった今、信じてあげたのよ」
ヴァレルが口ごもると、ヘルガは満面の笑みを返した。
―――そんなに、勘ぐることないのにね。私の気持ちなんて、初めに言い当てちゃったんだから。
ヘルガにとって、この旅の一番大切な目的は、ヴァレルについて行くことだった。
自分は兄愛思考ではないと、思う。しかし、ヴァレルとヘルガは幼い頃から、ほとんどの時間を一緒に過ごした兄妹なのだ。




