おまけ 侯爵夫妻
娘たちが去り、静まり返ったレーヴェン侯爵家の私室。
先ほどまでクレマンを射殺さんばかりの鋭い眼光で見据えていたレーヴェン侯爵は、ソファーの背もたれに深く体を預け、長い溜め息を吐き出していた。
「……まったく。どいつもこいつも勝手なことばかり言いおって」
額を指で押さえながら不機嫌そうに呟く夫の元へ、ゆっくりと歩み寄る影があった。
侯爵夫人である。彼女は手にしたティーポットから香りの高い紅茶をカップ注ぎ、夫の前にそっと置いた。
「お疲れ様でございました、あなた。
……ずいぶんと力が入っておられましたわね?」
「ふん、当然だ。大事な娘を、私信の一本も寄こさずに放置していた男に易々と渡せるか。それにしても、息子たちまであやつに肩入れするとは……」
ぶつぶつと愚痴をこぼす侯爵だったが、夫人はくすくすと上品に胸を揺らした。
「ですが、お顔に出ておりましたわよ? 『あの冷徹な宮廷伯が、娘のためにここまで頭を下げた』と、本当は感心していらっしゃったのでしょう?」
「……なっ」
図星を突かれた侯爵は言葉を詰まらせ、気まずそうに紅茶へ手を伸ばした。そんな夫の隣に、夫人はごく自然な動作で腰を下ろし、そっとその肩に頭を預けた。
「……おい、妻よ。急にどうしたのだ」
「いいではありませんか。子どもたちもみんないなくなって、ようやく二人きりになれたのですから」
夫人は夫の腕にそっと自分の手を絡め、愛おしそうに頬を寄せた。
王宮の重鎮として、そして厳格な父親として常に気を張っていた夫の肩が、微かに脱力するのが伝わってくる。子どもたちが幼い頃は育児に追われ、年頃になればそれぞれの将来や立場に気をもむ日々。
だが、完璧すぎるゆえにどこか心配だった長女・シルヴィアの行く末がこうして無事に決まり、侯爵夫妻としても大きな肩の荷が下りたのだ。
「シルヴィアも、クレマン卿も……二人して真面目すぎるあまりに遠回りをして、本当にお可哀想で、そして可愛らしいこと。……ふふ、どこか昔の私たちに似ていませんこと?」
「……私と貴女が、あのような不器用な真似をした覚えはない」
「まあ、お忘れになりましたの? 貴方だって昔、公務を理由にちっとも私に会いに来てくださらなくて……私がどれほどヤキモキいたしましたか」
「む……そ、それは……」
昔の甘いすれ違いを引っ張り出され、侯爵はますます返答に窮した。
赤くなった耳を隠すようにそっぽを向く夫の頬に、夫人は優しく手を添え、正面から見つめ返した。
「でもね、あなた。私はとても幸せですわ。娘が愛する人と結ばれ、そして……こうしてまた、貴方と二人だけの穏やかな時間を過ごせるのですから」
「……」
夫人の真っ直ぐで温かな眼差しに、侯爵の厳格な面持ちがようやく完全に解けた。
侯爵は静かに溜め息をつくと、絡められた妻の手を愛おしそうに握り返し、その寄せてきた肩を力強く抱き寄せた。
「……あやつらが苦労した分、幸せにならねば承知せんぞ。もしシルヴィアを泣かせるようなことがあれば、本当に引きずり下ろしてやる」
「ええ、その時は私も一緒にお叱りいたしますわ。……ですから今夜は、久しぶりに二人でゆっくりとお話しいたしましょうね、あなた」
「……ああ。そうしよう」
賑やかな子どもたちが去った屋敷の私室で、長年寄り添ってきた夫婦は、深まりゆく秋の気配を感じながら、静かで甘い時間を確かめ合うように重ねていた。




