長男 ヴィンセント
ヴァルハイト侯爵家の長男であり、若くして次期当主としての務めを完璧にこなすヴィンセントの執務室には、常に重苦しい緊張感が漂っていた。社交界において「氷の公」と恐れられる彼は、めったに感情を表に出すことがない。
しかし、社交界が事あるごとにこの侯爵家を「あの『絶世の美女』と噂される三女シルヴィアがいる家柄」として持て囃すことに対し、彼は底知れぬ鬱陶しさを感じていた。
夜会に出席すれば、誰もがシルヴィアの神々しいほどの美貌に群がり、ヴィンセントに対しても「あの妹君をお持ちならば、さぞやお眼鏡にかなう女性の基準も高いのでしょうな」と、誰もが息をのむような最高峰の美女との縁談を持ちかけてくるのが常だった。
だが、ヴィンセントにとってそんな世間の評判や社交界の雑音など、心底どうでもよかった。
彼にとって世界で最も愛おしく、その瞳に映る唯一の存在は、社交界で目立つことのない幼馴染の伯爵家令嬢——クラリスただ一人だったからだ。
周りが
「あの絶世の美女シルヴィアの兄なのに、なぜあんな伯爵令嬢を選ぶのか」
「あんな美人の妹と比べられたら、クラリス様が可哀想だ」
などと影で勝手な噂を囁こうが、ヴィンセントは一蹴した。
(シルヴィアがどれだけ美しかろうが知ったことか。俺の妻になるクラリスの笑顔以上に価値のあるものが、この世に存在するわけがないだろう。皆何を言ってるのだろうか。あの笑顔こそかけがえのない宝だ。)
ヴィンセントにとってクラリスは、幼い頃からずっと胸を焦がし続けてきた初恋の相手であり、生涯をかけて愛すると誓った女性だった。
彼は彼女の愛らしさを独り占めしたい一心で、当主補佐という名目を使って毎日自分の執務室へ通わせ、常に自分の手の届く場所に寄り添わせているのだった。
「……また、ヴィンセント様は難しいお顔をなさっているわ」
ヴィンセントのすぐ隣のデスクで書類整理を進めていたクラリスは、書類の山越しに彼の深い眉間の皺を見つめ、密かに胸を痛めていた。
実はクラリス自身も、幼い頃からヴィンセントのことを深く深く愛していた。
彼の一挙一動に胸をときめかせ、彼の傍にいられるだけで幸せだと感じるほど、彼に対する想いは本物だったのだ。
しかし、幼少期から彼を誰より近くで見続けてきたからこそ、彼女の頭の中では盛大な勘違いが完結していた。
(あんなに美しいシルヴィアを妹に持つヴィンセント様だもの。きっと社交界の誰もが羨むような『本当の運命の美女』が別にいて、身分や境遇の都合で結ばれず、その苛立ちを抑えていらっしゃるんだわ。私との婚約も、幼馴染としての情と、私が彼を好きな気持ちを知って、気遣いで応じてくださっただけ……)
絶世の美女であるシルヴィアと自分を勝手に比較し、「自分は彼の本命ではないけれど、せめて傍で彼を支えたい」と深く信じ込んでいる健気なクラリス。
自分の片想いだと思い込みつつも、彼への愛おしさは抑えきれず、彼の苛立ちを少しでも和らげようと淹れたての紅茶を机へ置いた。
「あまり根を詰めすぎては身体に毒ですよ、ヴィンセント様。……私でよろしければ、いつでもお話を聞きますから」
ヴィンセントは顔を綻ばせ、茶杯を受け取る代わりに、彼女の華奢な手首を優しく掴んで引き寄せた。
思わず彼女の身体が彼の膝の上へと倒れ込む。
「……君が側にいればいい。他には何もいらないと言っているだろう」
耳元で落とされた、低く掠れた甘い声。
彼の腕が彼女の細い腰をしっかりと抱きすくめ、愛おしそうに力を込める。
彼の体温と一途な熱に包まれ、クラリスの心臓は破裂しそうなほど跳ね上がった。
(ああ、こんなに近くで抱きしめられると、胸が苦しい……。ヴィンセント様のことが好きすぎて、甘えてしまいたくなるわ……。ヴィンセント様はお優しいから私にもこんな風におっしゃってくださる……)
彼女は彼を愛しているからこそ、その抱擁に応えるようにヴィンセントの広い背中にそっと両手を回した。しかし、その瞳に宿っているのは「失恋した彼を慰める深い慈愛」だった。
「ええ、私はずっと貴方の側にいますよ。あの方が貴方の本当の魅力に気づいて振り向いてくださるまで、何度でもこうしてお慰めしますからね」
「……あの方、だと?」
ヴィンセントは思考を停止させた。
世間の比較など欠片も気にせず、全人類の中でクラリスだけを狂おしいほど溺愛しているというのに。
そしてクラリス自身も自分を深く愛しているというのに、当の本人は「絶世の美女」の影に怯えるどころか、「本命の美女にフラれた可哀想な男」として彼に寄り添ってきたのだ。
お互いに相手を深く愛し合っている完璧な両思いでありながら、彼女の底なしの勘違いによって発生したすれ違い。
(俺が愛しているのは、昔も今も、この先もクラリスだけだと……なぜ伝わっていないんだ?)
自分の深い愛が明当違いな方向へ受け止められている事実に、ヴィンセントは激しい頭痛と甘い敗北感を覚えた。
彼は溜息をつくと、彼女の首元に深く顔を埋め、さらに強くその身体を抱きしめた。
「……本当に、君という人は……。覚悟しておきなさい。君のその勘違い、今夜こそじっくりと解いてあげるからね」
「えっ……?」
首筋に落ちる熱い口づけに、クラリスはわけも分からず頬を真っ赤に染めるのだった。
「世間や妹との比較」など最初から眼中になく、ひたすら一途に彼女だけを溺愛する長男・ヴィンセント。
両思いでありながら甘くすれ違う二人の夜は、彼が真実の愛を言葉や視線や態度でクラリスがもう解りましたからと降参するまで続くのだった。
ヴィンセントは結婚をし身も心も全て自分のものになるのがもう間も無くだと思いつつ、やっと自分を見てくれたと安堵し世界一の花嫁の姿に思いを馳せるのであった。




