第45話 犬神家の一族
※本編では映画の結末を含むネタバレがあります。
映画紹介
公開年:1976年
監督:市川崑
主演:石坂浩二
戦後間もない信州。製薬王・犬神佐兵衛が亡くなり、莫大な財産と一通の遺言状が残された。犬神家に起こる争いを案じる手紙を受け取った私立探偵・金田一耕助は、那須湖畔を訪れる。だが、依頼人は金田一と会う前に死亡。やがて一族の前で読み上げられた遺言が、家族の間に隠されていた愛憎をあらわにしていく。
うどんを湯切りし、丼に移した。
温めておいたつゆを注ぐ。刻んだねぎは、小皿に分けて置いた。
横には、なすの味噌炒めと、きゅうりとみょうがの浅漬けを並べてある。
ゼウスは、なすを一切れ取った。
「今日は肉がないな」
「いきなり文句か」
「肉がないと申しただけだ」
「食う前に確認するから、要求に聞こえるんだよ」
ゼウスはなすを口に入れた。
噛んでから、もう一切れ取る。
「よい。油をよく吸っておる」
「味噌とも合うだろ。今日の野菜は長野産を選んできた」
「物語の土地か」
「そう。うどんは映画に出てくる」
俺は日本酒の瓶をテーブルに置いた。
長野の酒。冷やしておいた純米酒だ。
ゼウスの小さなグラスに注ぐ。
顔を近づけ、香りを確かめている。
「葡萄酒ではないな」
「日本酒。米で造った酒だ」
「米の酒か!初めて飲むぞ」
ゼウスは瓶を見て、それからグラスを持ち上げた。
一口飲み、唇を軽く合わせる。
「ほう。炊いた米とはずいぶん違うな。香りは穏やかだが、味はしっかりある。よい酒ではないか」
俺も自分のグラスに少し注いだ。
「そういえば、牛丼とか考えなしに出してたけど、お前らの頃にも米ってあったのか?」
「知ってはおったぞ。東方で育つ穀物だ」
「普通に食ってた?」
「麦ほど馴染みはない。アレクサンドロスが遠征した頃には、東方の米について書き残した者もおる」
「じゃあ、名前すら知らない物を食わせてたわけじゃないんだな」
ゼウスが、もう一口飲んだ。
「美味い」
俺は瓶を自分の側に置いた。
ゼウスの視線が、瓶についてくる。
「今日はゆっくり飲めよ」
「私は物語を見るために来ておる」
「酒しか見てないぞ」
ゼウスがようやく画面を向いた。
「では、今日は何を見る?」
「『犬神家の一族』」
「犬の神。エジプトの話か?」
「犬神って苗字の一家。神様の話じゃない」
「家の物語か。どの家にも、語るべきことはあるものだ」
「お前んちは特にな」
俺は再生ボタンを押した。
*
大きな屋敷で、一人の老人が死の床についていた。
犬神佐兵衛。
一代で事業を興し、莫大な財産を築いた男だった。
枕元には家族が集まっている。
遺言を気にする声を聞き、ゼウスが箸を置いた。
「まだ息があるのにもう遺産の話をしておるのか」
「もう本人に聞ける時間がないからな」
「それにしても、聞くことが財産の事だけか。重要ではあるが」
佐兵衛は、遺言状を弁護士に託していた。
本人が死んでも、すぐに中身は明かされない。
「死ぬ前に話しておけばよかろう」
「本人の前でも揉めそうだけどな」
「家の主人の前で揉める方が、主人のいないところで揉めるよりはましだ」
「その場をまとめられればな」
ゼウスは、枕元に集まる顔を眺めた。
「……なかなか難しそうだな」
やがて、よれた着物に袴、帽子をかぶった男が町へやって来た。
金田一耕助だった。
帽子の下から、ぼさぼさの髪がはみ出している。
「この男は旅人か?」
「探偵ってどう説明したらいんだ。えっと依頼を受けて家族を調べに来た。旅はよくしてるけど旅人って訳ではない」
「家を調べる。使者か?預言者か?それにしても小汚いな。調べるより先に風呂に入れてやるべきだ」
「小汚い言うな。だいたいこういう格好だよ。使者はまだしも予言で家のこと決められたら余計揉めるし、誰も信じないよ」
「信じるべきだ。予言を信じず破滅したものは多い」
金田一は、女中のはるに案内されて宿へ入った。
その後、湖で珠世のボートが沈みかけると、慌てて助けに走る。
ゼウスも身体を前に出した。
「小汚いが走れるではないか」
「褒め方が雑過ぎる。見た目で判断するなよ。お前も小汚い格好で人を試したりしてただろ」
「この男は人を試す神なのか?」
「いや違うけど」
「では単に小汚いだけか。だが人を救うために走る小汚い男だ」
「小汚いを連呼するな」
ところが、宿へ戻った金田一を待っていたのは、依頼人である若林の死だった。
会って話すはずだった男が、すでに殺されている。
「何を頼まれるか聞く前に呼んだ者が死んだのか」
「手紙では聞いてた。犬神家で何か起きそうだって」
ゼウスは、グラスを持ち上げる途中で止めた。
「起きそう、では済まなくなったな」
若林の勤め先の弁護士が依頼を引き継ぎ、金田一は犬神家の事情を聞くことになった。
*
佐兵衛には、母親の異なる三人の娘がいた。
松子、竹子、梅子。
それぞれに息子がおり、松子の息子・佐清の帰還を待って、遺言状が公開されることになっていた。
「三人とも、母が違うのか。父は同じで、母は違い、その子たちにも継ぐ権利がある」
「そう。お前には分かりやすい家族構成だろ」
ゼウスは、きゅうりを噛んだ。
「分かることと、見て楽しいことは別だ」
松子が連れ帰った佐清は、白い仮面で顔を覆っていた。
戦争で負傷したという。
本人なのかと疑う者たちの前で、松子は息子に顔を見せるよう促した。
仮面がめくられる。
ゼウスの箸が止まった。
「……戦から戻った者に、まず顔を確かめるのか」
「相続人が本人かどうかは、大事だからな」
「分かる。だが、この場で皆に見せねばならぬのか。お前の国には戦士の名誉はないのか」
「日本の戦後の帰還兵の名誉って話まで広げると複雑すぎてちょっと説明できん」
「お前もわかってないのか」
「わかってるつもりだけど。どうだろな」
松子は、周囲を見渡していた。
俺はつゆを一口飲んだ。
「息子を連れて帰ってきたのだ。ここで偽者扱いされては母は引けまい」
一族が揃い、遺言状が読み上げられた。
全財産と事業は、佐兵衛の恩人の孫娘である珠世へ。
ただし、夫は佐清、佐武、佐智の三人から選ばなければならない。
ゼウスが目を細めた。
「娘たちではなく、その娘の夫になる孫を選ぶのか」
「珠世が三人から選ぶんだよ」
「ならば、三人の母親も黙ってはおらぬ」
画面では、すでに黙っていなかった。
ゼウスが眉を上げながら俺を見た。
「そこは予想しなくても分かるから。その顔やめろ」
遺言はさらに続いた。
珠世が相続権を失った場合や、死んだ場合の分け方。行方不明の青沼静馬にも、多くの財産が渡る条件が定められていた。
静馬もまた、佐兵衛の息子だという。
ゼウスはグラスを置いた。
「まだ子がおったのか」
俺が顔を向けると、ゼウスは先に言った。
「何も申すな。その顔をやめろ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔が言っておる」
遺言を読み終えても、部屋の者たちは納得しなかった。
怒る者、問いただす者。その中で、珠世は座っていた。
ゼウスが腕を組む。
「金も家も女も、一つにまとめて取り合わせたか」
「孫の誰かと結婚してほしいんだろ」
「ならば、生きている間に話を進めよ。三人を並べ、女が選ぶまで待たせれば、それぞれの家が動くぞ」
「結婚相手を決めるのに、母親も叔母も財産ごとついてくるんだよな」
「そのうえ、選ばれぬ者にも別の取り分がある。誰がいなくなれば何が増えるか、全員が考え始める」
「嫌な算数の問題だ」
ゼウスは、読み終えられた遺言状を見た。
「この家の主人は、死んでからも家を仕切っておるな」
「遺言だからな」
「生きている間に片づけておくべきことではないか」
「お前んち、片づいてるのか?」
「私は死なぬ」
「無期限に先送りか」
ゼウスは反論せず、なすを取った。
俺は自分の皿を少し引き寄せた。
「それ、俺の分だぞ」
「分配は早く済ませるべきだ」
「それは分配じゃなく略奪って言うんだ」
*
佐清が本人かどうか、疑いは消えなかった。
戦地へ赴く前に残した手形や、珠世の懐中時計が、確かめる手がかりになっていく。
やがて、佐武が死体で発見された。
菊人形の首が、生身の人間の首にすり替えられている。
ゼウスが丼を置いた。
「なぜ飾った?儀礼か?侮辱か?」
「そこも調べるんだよ」
「殺しただけでは足りぬのか」
俺も箸を止めた。
花の中にある顔から、画面が切り替わる。
ゼウスは、今度は屋敷の人々を見ていた。
「全員を別の部屋に閉じ込めよ」
「誰が犯人か分からないだろ」
「分からないから全員閉じ込めるのだ」
「捜査を省くな」
「少なくとも、同じ部屋で殺し合うことはなくなる」
「警察が一人ずつ見張るのか?」
「そのための兵ではないのか」
画面の警察署長は、威勢よく見当をつける。
ゼウスがそちらを向いた。
「分かったのか?」
「本人はそう言ってる」
「では、捕らえよ」
話を聞いているうちに、その見当は怪しくなった。
ゼウスが俺を見た。
「自信満々に宣言したのに分かっておらぬではないか。紛らわしい男だ」
「お前もよく自信満々に言うけどな」
「私は分かっておる時に言う」
「どうだかな」
俺は返事をせず、酒を飲んだ。
*
金田一は、はるにうどんを奢っていた。
食べるように勧めながら、若林の事件について尋ねていく。
はるが箸を動かす。
金田一が質問する。
彼女は食べるのをやめ、答えた。
ゼウスが、自分の丼を見た。
「これか」
「そう。今日のうどん」
はるがまた食べようとする。
金田一が、さらに聞いた。
ゼウスが吹き出した。
「食わせるのか、食わせぬのか!」
「本人は食わせてるつもりらしいぞ」
「口は一つしかないぞ」
「食事を食わせる気はあるが証言を同時に取ろうとしてる」
「奢った者が一番邪魔をしておる。もてなすならまず食べさせ飲ませよ。それから話を聞け」
「飲ませるは余計だ」
「気持ちよく話してもらいたいのだろう。飲ませるのが1番だ」
はるが話し終わる頃には、また金田一の関心が別のところに移っていた。
ゼウスは笑いながら、残りのうどんをすすった。
「私なら、先に食う」
「知ってる。何回話しかけても食ってたことあるし」
「温かいものは、温かいうちに食うべきだ」
「さっき菊人形のところで止まってたろ」
「食う側が止まることもある。食わす側が止めるべきではない」
「それもクセニア?」
「そうだ」
俺は丼を持ち上げた。
つゆは、もう少し冷めていた。
金田一は人の話を聞き、煙草に使われた毒を調べていく。
その間にも、犬神家では別の男が珠世に迫っていた。
佐智は彼女を薬で眠らせ、無理に関係を持とうとする。
ゼウスの笑いが消えた。
「こやつも、女が選ぶまで待てぬか」
「結婚できれば財産もついてくるからな」
「だからといって、意識を奪ってよいものか」
「これが財産と婚姻をセットにした遺言の暴力性だよ」
俺はゼウスを見かけて、画面に戻した。
「今日はお前への追及をやってる余裕がないな」
「何の追及だ」
「まあ映画見ろ」
珠世は、顔を隠した復員兵に助けられた。
「こいつは何者だ」
「まだわからん」
「こいつが殺して回ってるのか?」
「まだわかんねーって」
その後には佐智も殺され、琴糸を巻かれた姿で見つかる。
ゼウスは、膝の上で手を組んだ。
「また一人死人が増えたぞ」
「止まらないな」
「私の案なら、少なくとも部屋からは出られなかったぞ」
「リスク管理としては一定の合理性があるのは認める。ただそれじゃミステリー映画が成り立たなくなる」
*
息子を失った母親たちの言葉から、昔の犬神家が見えてきた。
佐兵衛に子を産んだ女たちは、皆が妻として迎えられたわけではなかった。
娘たちも、それぞれの母と引き離されて育っていた。
ゼウスは、竹子の話を聞いていた。
「この娘たちは、自分の母がどう扱われたかを覚えておるのだな」
「ああ」
「それぞれが自分の息子へ財産を渡したがるわけだ」
「自分の代で取れなかったものを、息子にはってことだ。ここから相続争いが単なる金欲じゃなくなる」
「弟妹の母が違えば、父の寵愛を巡って争うこともある。そこで父が何を与え、何を認めるかは大事だ」
俺はグラスを置いた。
「さすが専門家だ。いや当事者か」
「家の話をしておるのだ」
「お前の家の話にも聞こえる」
「今はこの犬の家だ」
「そこ略すな。そのタイトルだと映画のジャンルが変わる」
ゼウスは画面から顔を動かさなかった。
その娘たちは、父に愛された別の女、青沼菊乃と幼い静馬に、ひどい仕打ちをしていた。
自分たちの母親が受けられなかった扱いを、その女が受けることを許せなかった。
ゼウスの指が、グラスから離れた。
「子にまで手を出したか」
「父親に向ける怒りが、そっちへ行くんだよな。な」
「この家の主人は子を作った後の争いまで、家に置いて死んだのか」
「お前が言うのね」
「私は子供たちを争わせるために作ったのではない!」
「こいつも、最初からそうだったとは限らないだろ」
ゼウスが口を開けた。
一度閉じてから、酒を飲んだ。
「……私は、ここまでのことはせぬ」
「お前を責めるために見せてる訳じゃないから、そんな落ち込むなよ」
さらに金田一が話を聞いていくと、珠世自身の出生も明かされた。
恩人の孫娘というだけではなかった。
佐兵衛と、恩人の妻・晴世との間に生まれた娘。その娘が産んだ子が珠世だった。
ゼウスは瓶を置いた。
「愛した女の子孫に財を残したいのは分かる。だが、他の子がそれで何を感じるかも分かるはずだ」
「その事情を全員が知ってるわけじゃない」
「知らぬ者には、なぜ自分たちよりこの娘なのか分からぬ」
「知ったからって納得できるかも別だ」
珠世が死ねば、三姉妹の嫌う静馬にも大きな財産が渡る。
彼女を殺しても、一族には都合が悪い。
「珠世を守るための条件でもあったんだよな」
「守るために、身内の恨みを使ったのか」
「そう考えると、よく出来てはいるな」
「そのような守りを必要にしたのは家の主人本人だ」
ゼウスは短く言い、浅漬けを一切れ取った。
俺も、そこには突っ込めなかった。
*
松子は、珠世に佐清との結婚を求めた。
だが珠世は、目の前の男が佐清だとは認めなかった。
ゼウスが画面を見つめる。
「母が息子だと言い、妻に迎えようとしてる女は違うと言う」
「お前なら誰を信じる?」
「両方から話を聞く」
「全員閉じ込めるより文明的だ。今回はちゃんと調べるんだな」
「仮面の男本人の口からも聞かねばならぬ」
やがて仮面の男は、松子に正体を明かした。
青沼静馬。
幼い頃に、この家で母とともに苦しめられた男だった。
ゼウスが背もたれから身体を離した。
「こいつが妾の息子だったのか!」
「帰ってきてたな」
「息子として迎えられるために、別の息子の顔を借りたのか」
「ただ迎えてもらうためじゃないけどな」
松子に向ける男の言葉は、親しみを込めたものではなかった。
ゼウスは、松子の顔を見た。
俺も何も言わず、続きを待った。
その後、湖から二本の足を突き出した死体が発見された。
ゼウスがグラスをテーブルに置いた。
「……足か?」
「足だよ」
「湖から生えておるぞ!」
「人間だよ」
「分かっておる。なぜ逆さなのだ!」
ゼウスは口元を押さえた。
肩が揺れ始める。
俺も、何度見てもその形に目がいった。
水面から出た二本の脚が、まっすぐ空を向いている。
「あんな死に方があるか!」
「その姿勢で死んだとは限らないだろ」
「では、わざわざ逆さにしたのか」
「そこを調べるんだよ」
ゼウスは笑いながら首を振った。
「あの向きで来られても、ハデスは困るぞ」
「冥府まで姿勢を引き継がせるな」
「まず、こちらを向けと言わねばならぬ」
「死者への最初の指示がそれかよ」
ゼウスはようやく口から手を離した。
「……しかし、また死んだのだな」
「ああ」
画面が変わると、ゼウスも笑うのをやめた。
グラスを取り直したが、すぐには飲まなかった。
*
本物の佐清が姿を現した。
顔を隠していた復員兵が、その男だった。
佐清は自分が犯人だと名乗ったが、金田一は、その告白を受け入れなかった。
最初の若林の死とは、話が合わない。
「自分でやったと言っておるぞ」
「それだけで全部は決めないんだよ」
「ならば、この男は何を隠しておる」
「見てろ」
金田一は、松子のもとへ向かった。
彼女の犯行と、それを知った佐清の行動が、少しずつつながっていく。
佐清は母を庇っていた。
静馬は、それを利用していた。
ゼウスが肘をテーブルについた。
「殺した者と、隠した者が違ったのか」
「そのせいで真相に辿り着きにくくなってる」
「母は子のために殺し、子は母のために罪をかぶるか」
「互いに守ろうとしてるんだけどな」
「どちらも守られる側の話を聞いておらぬ。よくある悲劇ではあるな」
俺はグラスの縁を指でなぞった。
「よくあるって言い方はどうかと思うけど、実際ギリシャ神話にはよくありそうだな」
松子は、生きていた本当の息子と再会した。
ゼウスは何も言わなかった。
佐清の姿を確かめる松子を、じっと見ている。
その後、皆の前で事件の事情が明かされていった。
松子は佐清に財産と珠世を得させるため、邪魔になる者を殺していた。
だが珠世の心は、最初から佐清に向いていた。
ゼウスが、息を長く吐いた。
「娘は、顔の傷で息子を捨てたのではなかったのか」
「ほんとに別人だったから、違うって言ってたんだよ」
「母が一人で負けたと思い、一人で敵を減らしていたのだな」
俺は頷いた。
「目的そのものは達成可能だったのに気づかなかったんだよ」
金田一は話し続けた。
誰が何をし、誰を庇い、どのように死体が扱われたのか。
ゼウスは途中で口を挟まなかった。
一通りの説明を聞いてから、低く言った。
「しかし、よく分かったものだ」
「すごいだろ」
「うむ。皆が隠すことを持ち、しかも同じものを隠しておらぬ。この小汚い男はそれをほどいた」
画面では、松子が息子の今後を確かめていた。
佐清には情状酌量の余地があり、珠世も彼を待つ。
松子はそれを聞き、煙草を吸った。
ゼウスが眉を寄せた。
松子の身体が崩れる。
毒だった。
ゼウスが手をテーブルについた。
「この母までか」
俺は答えず、画面を見た。
息子を残し、松子は死んだ。
部屋にいた者たちの姿を見ながら、ゼウスはゆっくり手を膝に戻した。
*
「最後の殺しも止められなかったか」
「自殺も含めて殺しきったな」
ゼウスは、空になったグラスを置いた。
「この小汚い男は、明晰だ。起きたことをよく解き明かす」
「日本を代表する名探偵キャラだからな」
「だが、なぜ殺し終えるまで待った?」
「待ってたわけじゃねえよ。調べて、何が起きたかを明らかにするのが仕事なんだ」
「生きているうちに明らかにせよ」
「……まあ、そうなんだけどな」
俺は、空の丼を横へずらした。
「最初に珠世を助けたろ。助ける気がないわけじゃない」
「それは見た。走って行った」
「母親を庇ってた佐清も、このままだと全部の罪をかぶってたかもしれない」
「うむ。そこは救った」
ゼウスは画面に目を戻した。
「それでも、母は殺し続け、最後自分で死んだ。この母親の凶行を止める者は誰もいなかった」
俺も、そこは返せなかった。
やがて金田一は、町を去る。
見送られるのを避けるように、列車に乗っていった。
ゼウスが首を傾けた。
「褒美を受ける宴もなしか」
「この後で盛大にやる気にはならないだろ」
「それはそうだな」
列車を見送る画面から、物語が終わった。
*
俺は残っていたなすを、一つずつ二人の皿に分けた。
ゼウスは自分の皿を見たが、すぐには箸をつけなかった。
「犬も神も出なかったな」
「最初に言っただろ」
「だが、知っている家を見てるようだった。父の寵愛、母の恨み、子の継承。全て知ってる話だ」
「お前んちも、父親の代から揉めてるしな」
「我が父クロノスは、己の地位を奪われぬよう、子を呑み込んだ」
「お前も奥さん呑んでなかったか?」
「……メティスのことか」
「ほかにもいたら困るわ」
ゼウスは、なすを口に入れた。
俺も少し食べた。
「兄弟で分ける時は、くじだったよな。空と海と冥府」
「うむ。領分を定めた」
「犬神家もくじにすればよかったか」
「女の夫まで、くじで決めるのか?」
「そもそも金と結婚を一緒にしたのが間違いなんだよ」
ゼウスは瓶を持ち上げ、俺のグラスを見た。
俺が頷くと、両方に酒を注いだ。
「この小汚い男には、他にも物語があるのか?」
「あるよ。他の監督と役者で撮ったのがあるし、同じ監督と役者で撮ったのもたる」
「次の家では、もう少し早く殺しを止めるのだろうな」
「お前が探偵に求めてるの、推理より被害者を減らすことだな」
「当然だろう」
「ミステリーでそれ徹底すると、途中で事件が終わるから映画として成り立たないんだよ」
「殺しが減った方が良いだろう」
俺は笑ってしまった。
ゼウスは真顔だった。
「小汚い男の知恵は認める。だが、息子たちを失ってから家の事情を知っても、母親には遅い」
「お前、今日はずっとあの家を嫌そうに見てたな」
「身内にいたら困る者ばかりだった」
「もう結構いるだろ」
ゼウスが俺を見てから酒を飲んだ。
「……口の中でスッと消える。よい酒だな」
「また話を変えた」
ゼウスは瓶を傾け、二人のグラスへ残りを注いだ。
「残さねば争いにはならぬ」
「遺産対策で平日から日本酒を飲み干すな」
神話メモ
◾️古代ギリシャと米
古代ギリシャでは麦類が主要な穀物だったが、東方の米についても知識があった。紀元前四世紀から三世紀にかけて活動したテオプラストスは、『植物誌』第四巻でインドの米を取り上げ、水中で育つ性質や、砕いて粥状に調理することを記している。米の存在や栽培法が知られていたことと、ギリシャで日常的に栽培・消費されていたことは区別される。
◾️クセニア
クセニアは、古代ギリシャにおける客人と主人の歓待の関係を指す。旅人を迎え、食事や休息を与えることが重んじられ、ゼウスは客人や庇護を求める者の守護神とされた。『オデュッセイア』第三巻では、ネストルが訪れたテレマコスたちに肉と酒を振る舞い、食事を終えてから素性や旅の目的を尋ねている。まず客の空腹を満たし、その後で事情を聞くという、もてなしの順序が描かれている。
◾️クロノスと子供たち
クロノスはゼウスの父であり、ティタン神族の支配者である。ヘシオドスの『神統記』では、自分も子によって支配を奪われると知り、妻レアが産んだ子供たちを次々に呑み込んだ。レアは末子ゼウスを隠し、産着に包んだ石を代わりに渡す。成長したゼウスは兄姉を解放し、やがてティタン神族との戦いに勝利したとされる。
◾️メティス
メティスは知恵を持つ女神で、ヘシオドスの『神統記』ではゼウスの最初の妻とされる。アテナを産んだ後、神々の王となる息子を産むと予告されたため、ゼウスは支配を奪われることを恐れ、アテナを身ごもったメティスを呑み込んだ。アテナは後にゼウスの頭から生まれる。メティスは呑み込まれた後も、その体内から善悪について助言すると語られている。
◾️くじと神々の領分
ギリシャ神話におけるくじは、取り分や役目を当事者の意志だけで決めず、分配や選出に決着をつける手段として用いられる。人間が神々に祈り、その結果に神意を求める場面もある。『イリアス』ではゼウス、ポセイドン、ハデスがくじによって天空、海、冥府を分け、大地とオリュンポスは共通のものとした。ポセイドンは、この分配を自らの権威の根拠として、ゼウスへの無条件の服従を拒んでいる。




