第1話 クビ?……これで安眠できる!
睡眠は、すべての人類に平等に与えられた唯一の聖域である――はずだった。
少なくとも、宮廷魔道具師という名の「高給激務な奴隷職」に就職するまでは。
「まぶたが、重い。信じられないくらい、重い。この星の重力がすべて、この薄い皮に集中しているんじゃないか……?」
俺、ユーイン・ハリスの脳髄を支配していたのは、もはや思考ではなく、どろりとした睡魔だった。
視界は安物の万華鏡のようにぐにゃぐにゃと歪むし、頭の奥では鉄の杭をリズミカルに打ち込まれているような激痛が走る。
それもそのはず。俺はここ七十二時間、一秒たりとも作業を止めていない。丸三日間の不眠不休。人間の限界という名のゴムパッキンは、とっくに引きちぎれていた。
ここは王宮の片隅、日当たりが最悪な俺専用の魔導具開発工房だ。
石造りの床がひんやりと冷たいはずの部屋は、幾夜もフル稼働させ続けた魔導炉の熱気で、さながら蒸し風呂のよう。
床には書き散らされた設計図と、削り損ねた魔法鉱石のクズが、俺の精神状態を反映するかのように散乱していた。
「おい、ユーイン! 返事をしろ、この粗大ゴミが!」
大理石の床に、キン、と鼓膜を突き刺すような金属音が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのはこの国の第一王子のジーク。国民からは『勇者』と崇められ、女子たちからは『理想の王子様』と黄色い悲鳴を浴びる男だ。
金糸のような髪をなびかせ、贅を尽くしたマントを羽織ったその姿は、確かに絵画から抜け出してきたように美しい。
だがその中身は、他人の努力を泥靴で踏みにじることに躊躇いを感じない、傲慢の煮凝りである。
ジークは、俺が三徹で仕上げたばかりの魔剣『雷霆』を、作業机の上に叩きつけた。
「この魔剣のどこが『完成品』だ? 柄の装飾に施した魔力伝導率が、俺の要求した目標値より〇・〇一%も低い! 俺の完璧な剣技に、このようなラグが生じる魔剣など、全く相応しくない! ナマクラ未満の駄剣だな!」
ジークは眉間に深いシワを刻み、俺をゴミでも見るかのような目で見てくる。
いや、『ような』ではないか。ついさっき『粗大ゴミ』と言われたばかりだった。
まあ、ゴミ呼ばわりはどうでもいい。
問題は、その怒声が寝不足の脳みそに突き刺さり、頭痛が増していることだった。
俺はこめかみを押さえながら、理性を総動員して不満を呑み込む。
ったく、伝導率が下がったのは、あんたが『もっと目立つように、ここに超特大のルビーを埋め込め』と、深夜二時に無茶なオーダーをしてきたからだろうが。
言いたい言葉は、山ほどもあった。
魔力伝導経路のど真ん中に、巨大な魔力抵抗を持つ宝石をぶち込めば、熱が暴走して剣が爆発する。
それを防ぐために、俺がどれほど血を吐く思いで魔力脈路を迂回させ、緻密なバイパスを構築したか。
だが、この『勇者サマ』には、魔導工学の基礎どころか、算数の足し算すら怪しいのだから、説明するだけ時間の無駄だった。
この三年間、俺は常に彼の気まぐれな『思いつき』に振り回されてきた。
『明日までに魔力を永久充填した防具を作れ』『パレード用に、歩くだけで光の花びらが舞うエフェクト付きのブーツを開発しろ』『とにかく俺を引き立てる派手なものを作れ』――。
すべてはジーク王子の空っぽな見栄を満たすため。
その度に俺の睡眠時間は容赦なく削り取られた。今や慢性的な睡眠不足で、立っていることすら奇跡という、生ける屍のような有様だった。
「申し訳ありません、ジーク殿下。しかし、私の計算では、その誤差は実戦における使用感を阻害するものでは――」
「黙れ! 誰が貴様の薄汚い言い訳を聞くと言った!」
ジークは俺の言葉を遮ると、唇の端を釣り上げて冷酷な笑みを浮かべた。
「些細なミスすら防げん無能など、我が王宮には不要だ。いや、存在自体が不快だな。お前は今日限りでクビ、さらに追放処分とする! 今すぐ宮廷魔道具師の制服を脱ぎ捨て、この城はもとより、王都からも出ていくがいい!」
…………え? クビ? 追放?
視界が一気にクリアになる。脳内では、銀河系すべての天使たちが、一斉に祝祭のラッパを吹き鳴らしていた。
マジで? 何その最高のプレゼント! ボーナスよりも価値がある!
これでもう、深夜二時の『おい、ユーイン! 明日までに剣をピカピカに磨いておけ!』という、クソみたいな呼び出しに怯える必要はない。俺の時間は、俺の人生は、すべて俺のものになる。
退職届を出したら、物理的にクビが飛びかねない。そう思って、辞めたいと言い出せなかったのに。まさか、向こうからクビを宣告してくれるなんて!
……いや待て、詰めを誤るなよ、ユーイン。
にやけそうになる顔を引き締める。俺は糸が切れた人形のように床にひれ伏した。
ガタガタと両肩を震わせる演技をし、大理石の冷たい床に額を擦り付ける。
「お、お許しを……ジーク殿下……! どうか、もう一度だけ、汚名返上のチャンスを……!」
いかにも哀れっぽい声を上げてやった。
すると、喜悦混じりの傲慢な声が降って来る。
「ムダな真似は止せ。貴様に、俺様の慈悲をくれてやる道理はない!」
「……分かりました。力及ばず、申し訳ありません。殿下の命令に従い、慎んで去らせていただきます」
「ふん、無能にしては潔いな。せいぜい野垂れ死ぬがいい。さっさと消えろ」
ジークは鼻を鳴らし、乱暴に足音を立てながら工房を出ていった。
静まり返った工房で、俺はむくりと起き上がると、カバンを広げて驚異的なスピードで荷物をまとめ始めた。
棚に並ぶ国宝級の魔法金属、王宮の財産である超一級の魔石。
――それらには、一切手をつけなかった。
ここで欲を出して国の素材を持ち出せば、後から重犯罪者として指名手配され、騎士団に追われることになってしまう。そんな不毛な鬼ごっこは真っ平ごめんだ。
俺は、自分で汗水垂らして買った私物の道具と、コツコツと貯めた最低限の素材、そして研究ノートだけをカバンに詰め込んだ。
「ジーク王子。あんたの無茶振りに応え続ける生活からオサラバです。さようなら、ブラック王宮。二度と夢にも出てくるなよ」
俺は未練のかけらもなく、慣れ親しんだ(憎しみも詰まった)工房を後にした。
深夜、王都の堅牢な正門をくぐり抜ける。
門を抜けた瞬間、冷たく、しかし驚くほど澄んだ夜風が俺の頬を撫でた。
見上げれば、王宮の煤けた空気とは違う、満天の星空が広がっている。肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、頭の痛みが少しだけ和らぐような気がした。
「……まずは、完璧な寝具を完成させる。そして、毎日完璧な八時間睡眠を貪る。俺の第二の人生、いわば『安眠ロード』はそこからだ」
では、どこで眠るべきか?
その辺の宿屋は論外だ。
壁が薄くて隣のいびきが聞こえるし、夜遅くまで騒ぐ酔っ払いの怒鳴り声や、朝早くから通りを走る馬車の振動で安眠が妨げられる。
高級宿は快適だろうが、金がかかりすぎるし、何より足がつく。ぞろジーク王子が気まぐれを起こし、俺を呼び戻そうとするかもしれない。
熟考の末、俺の出した結論は、極めてシンプルかつ合理的だった。
「……ダンジョンだ。それも、ある程度深い階層の安全地帯。あそこなら、冷やかしの冒険者も来ないし、防音と認識阻害の結界を張っておけば、世界で最も静かで快適な寝室になる」
だが、完璧な寝室を作るには、どうしても足りない素材があった。
頭を優しく包み込み、頸椎をミリ単位でサポートする至高の安眠枕。
これを作るには、ダンジョン十層に生息するボス『シャドウ・アウル(夜鳴き鳥)』の『極上羽毛』が、どうしても、どうしても欲しかった。
「安眠という名の勝利を勝ち取るためだ。ダンジョンへ行こう……ふあぁ~~」
気勢の代わりに、欠伸が漏れた。
魔道具師ユーインの、安眠を求める新たな旅路が、静かに(そしてとても眠たげに)幕を開けた。
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