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最強獣人に転生したのに女王様エルフに調教されるオレの話  作者: ねこ丸


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第三十二話 腹減ったな

神殿の中は、ようやく静けさを取り戻していた。


 ついさっきまで床を揺らしていた轟音も、耳を裂くような咆哮も、もうない。残っているのは砕けた石の匂いと、抉れた床の痛々しい姿だけだった。割れた魔法陣の線は途中で途切れ、陥没した中心には、叩き埋められた異形の名残が黒く沈んでいる。そこを誰も踏もうとしないのが、かえって今しがたの戦いの凄まじさを物語っていた。


 衛兵たちはその周囲を避けながら、黙々と動いている。


 転がった邪教徒を引き起こし、縄で縛り、まだ意識のある者には容赦なく猿轡まで噛ませていく。動けない者は二人がかり、あるいは三人がかりで担ぎ上げる。誰もが真面目に手を動かしていたが、視線だけは時折、陥没した床の中心へ吸い寄せられていた。あそこに埋まっているものを、どう処理するのか。いや、それ以前に、本当にもう動かぬのか。そんな不安が顔に出ている。


 神殿の外からは、また別の物音が絶え間なく届いていた。


 増援だ。


 街から急ぎ駆けつけた衛兵隊が到着し、入口や周囲の森へ散っていく。甲冑のこすれる音、号令の声、馬ではなく人の足で急いできた者特有の荒い息遣い。長い時間をかけて奥地まで来たのだろうに、誰ひとり弱音は吐かず、現場へ入った途端に動き始めている。


 その中に、ひときわ目を引く老人がいた。


 白髪も白髭も長く、背は丸い。だが歩みはぶれておらず、枯れ枝のように見える指先だけが妙にしっかりしている。深い色の外套をまとい、腰には小ぶりな革袋を幾つも下げていた。神殿へ入ってくる衛兵たちがその老人に道を開ける様子からして、ただの老人ではないのだろう。魔導師。それも市長が呼べる範囲で最も信頼できる類の者か。


 そんな慌ただしい空気から少し離れた地上で、グランは神殿前の石段に腰を下ろしていた。


 戦いの熱がまだ体に残っているのだろう、肩や腕の筋肉はわずかに張ったままだ。だが顔はもう完全に戦い終えた後の顔だった。満足はしている。だがもう終わったものに執着はない。目の前の騒ぎをぼんやり眺めながら、拳にこびりついた黒ずんだ汚れを親指でこそげ落としている。


 その隣、石柱の影へ背を預けていたルシアが、ちらと横目で見る。


「おぬし、その顔はもう飽きておるな」


「飽きた」


 即答だった。


「もう帰っていいか?」


「少しぐらい待ってやれ」


 ルシアは呆れたように息をつく。


「まだ処理が終わっておらん。市長も衛兵も走り回っておるのに、おぬしだけ先に帰るのはさすがにどうかと思うぞ」


「だってもう戦うやついねえだろ」


「そうじゃな」


「じゃあ暇だ」


 あまりに正直すぎる物言いだった。


 だが、その声には不満が混じっている訳ではない。退屈しているのは本当だが、それ以上に、それなりに満足しているのも確かだった。先ほどの戦いの余韻がまだ体のどこかに残っているのだろう。時折、口元が自然に緩んでいる。


 ルシアはそんな横顔を見て、鼻を鳴らした。


「ほんに分かりやすいやつじゃ」


「悪いか」


「悪くはない。だが、市長にあまり迷惑をかけるな」


 グランは返事の代わりに肩を回した。ごり、と鈍い音が鳴る。戦いの後でも筋の動きに重さはない。異形の怪物と殴り合った直後とは思えぬほど平然としている。


 その様子を見ながら、ルシアはふと思い出したように言った。


「あの婆はどうした?」


 ちょうどその時、神殿の中から市長が姿を見せた。疲れはある。顔にも土埃がつき、襟元も乱れている。だが歩き方はしっかりしていた。疲れているからといって崩れる男ではないらしい。


 問いを聞いていたのか、市長は石段の下で足を止める。


「すでに捕縛しました」


「そうか」


「ただ、話をするのは難しいようです」


 市長は小さく眉を寄せた。


「あまりの衝撃で、完全に壊れたみたいです」


 ルシアが目を細める。


「精神がか」


「ええ。何を問うても、神が、神がと繰り返すだけです。こちらを見てもいません。自分の前に何が起きたのか、それを受け止めきれなかったんでしょう」


 その答えを聞いても、グランはさして興味を示さなかった。


「じゃあ、もう用ねえな」


「おぬしは本当にそういうところが清々しいのう」


 ルシアが呆れる。市長は苦笑した。


「正直、私も今はあまりあの女の顔を見たくありませんね」


 そう言ったところへ、若い衛兵が駆け上がってきた。まだ息が少し上がっている。


「市長」


「どうしました」


「魔導師が呼んでおります。下で何か見つかったと」


 市長の目が細くなる。


「分かりました」


 それからグランとルシアへ向き直る。


「すいませんが、君たちもついてきてくれませんか」


「わらわたちもか?」


「見つかったものが、あの怪物に関わる品らしいんです。君たちにも見ておいてほしいですね」


 グランが面倒そうに顔をしかめたが、ルシアが先に立ち上がった。


「行くぞ」


「まだ帰れねえのか」


「帰る前に一つぐらい付き合え」


「ちぇっ」


 不満は口にするが、結局ついてくる。その辺りは素直というより、ルシアが動けば自分も動く癖でもついているのかもしれない。


 再び地下へ戻る。


 割れた石段を下り、湿った空気の中へ足を踏み入れると、さっきまでの戦いの匂いがまだ濃く残っていた。血と腐臭と焦げたような臭い。その中に、今度は薬草めいた匂いも混じっている。魔導師が何か撒いたのかもしれない。


 最深部では、老魔導師が陥没した中心の縁にしゃがみ込んでいた。


 細い指で、布の上に並べた幾つかの欠片を丁寧に選り分けている。黒い液や砕けた肉片の中から拾い出したらしいそれは、石でも骨でもなかった。鈍い光を帯びた硬質な破片だ。


 老魔導師が顔を上げる。


「こちらを」


 掠れた声だったが、よく通る。


 市長と共に近づくと、老人は布の上に載せた欠片を一つ持ち上げて見せた。手のひらの上で転がるその破片は、赤とも紫ともつかぬ深い色をしていた。丸いものが砕けた一部らしく、曲面がある。表面は滑らかだが、割れた断面は鋭く、内側に微かな光が閉じ込められているようにも見えた。


 グランが覗き込む。


「なんだ、こりゃ?」


 ルシアも少し身を乗り出した。


「ふむ。見た事はないのう」


 市長が問う。


「なんですか、これは?」


 老魔導師は破片を陽に透かすように灯りへかざした。


「古き神とやらの体内より見つかりました」


「体内?」


「はい。あの異形の胸のあたりを確認した際、肉の中へ埋まるようにして入っておりました。かなり砕けておるが、形からすると元は球体に近かったのでしょうな」


 ルシアが短く声を漏らす。


「ほう」


 老魔導師はさらに布の上を指す。小さな破片が幾つもある。完全な形は失われているが、それらを並べれば、たしかに宝珠めいたものだったのだろうと分かる。


「おそらくですが、この宝珠のようなものに魔力を集めたのでしょう」


 その声には慎重さがあった。断言ではない。だが長年の経験からくる見立てなのだろう。


 ルシアはもう一度「ほう」と言い、今度は破片ではなく、埋まったままの異形の方へ視線を向けた。


 市長も唸るように息をつく。


「ふむ」


 短い声の中に、考えるべき事の多さが滲んでいた。


 グランは一人だけ、まるで別方向に頭を回していた。


「なら」


 全員の視線が集まる。


「こいつに魔力を込めれば、さっきのが復活するのか?」


 あまりに素直な発想だった。


 老魔導師は一瞬だけ目をしばたたかせ、それからかぶりを振る。


「砕けているので無理でしょう」


「……ちっ」


 グランの落胆は分かりやすすぎた。


 心の底からがっかりしている顔である。ルシアは思わず小さく笑ってしまった。


「おぬしはそれしかないのか」


「だって面白かったぞ」


「知っておる」


 市長も困ったような顔で肩をすくめる。


「そこまで惜しがられると、倒された側も浮かばれないでしょうね」


「もっと丈夫ならよかったのにな」


「十分おかしな強さだったと思いますよ」


 衛兵たちはその会話を遠巻きに聞きながら、複雑そうな顔をしていた。恐ろしい怪物を前に震えていた身からすると、復活できぬと知って露骨に落ち込む男の感覚は理解の外だろう。


 その後も神殿内の処理はしばらく続いた。


 邪教徒は一人残らず拘束され、神殿の外へ引き出されていく。抵抗する者はほとんどいない。地下で起きた事が知れ渡っているのだろう。あるいは、古き神とやらが床に埋まったのを見た時点で、何もかも終わったと理解したか。


 老女は縄で縛られたまま壁際へ転がされていた。目は開いているが、焦点が合っていない。呼びかけても反応は鈍く、ときおり唇が神だの降臨だのと意味をなさぬ音を漏らすだけだった。


 陽は大きく傾き、森の影が濃くなる。


 神殿の中に溜まっていた緊張が、少しずつ実務へ薄められていく頃、ようやく撤収の声が上がった。


 拘束した邪教徒を先頭と後方で挟み、衛兵隊が列を組む。増援の者たちが周囲を警戒し、老魔導師は破片を布ごと革箱へ収め、市長へ一礼した。


 グランはその頃には、完全に空腹の顔になっていた。


 森の帰り道を歩きながら、腹の虫が何度も鳴る。隠そうともしない。


「腹減った」


 前を歩いていたルシアが振り返る。


「今さらか。ずっと減っておったじゃろう」


「今は特に減った」


「どこぞで食べていくか」


 ルシアもさすがに疲れていた。戦いそのものは問題なく終わったが、その後の待ち時間と長い戻り道は別だ。腹も減る。


 そこへ、市長が歩調を緩めて並ぶ。


「エリナが食事を用意して待っているよ」


 ルシアが目を瞬いた。


「この時間までか」


「どうせ戻るのは遅くなるだろうと言っていた。君たちの分も用意してあるはずです」


 グランがすぐに食いつく。


「肉あるか?」


「あると思いますよ」


「なら行く」


「現金じゃのう」


 市長は笑ったが、次いで表情を少し引き締める。


「私はこのまま市庁舎へ戻ります。まだ報告と処理が残ってますから。君たちは先にエリナのところへ行ってください」


「よいのか」


「むしろそうしてください。彼女も待っています」


 街に着くころには、かなり遅い時間になっていた。


 昼に出た時とはまるで違う。通りには人影も少なく、開いている店も限られている。灯りの落ちた窓が多い中で、エリナの家だけがまだ温かい明かりを漏らしていた。


 戸を叩くより先に中から気配がし、すぐに扉が開く。


 エリナが立っていた。


「ご苦労様」


 疲れを押し出すような重い言い方ではなく、いつも通りに近い明るさだった。だが目の下には少しだけ影がある。遅くまで待っていたのは本当らしい。


 家の中へ入ると、香ばしい匂いが一気に鼻を打った。


 肉の焼ける匂い。


 煮込まれた汁の匂い。


 焼き立てのパンに近い香りもする。


 卓にはもう食事が並べられていた。大皿にどんと盛られた肉が幾つもある。焼いたもの、煮たもの、香草をまぶしたもの。明らかにグラン向けの量だ。


 グランの目が一気に生き返る。


「食っていいか」


「そのために用意したんだから食べなさい」


 言われるまでもなく、グランは席へついた。いや、ほとんど飛びついたと言っていい。大皿を前へ引き寄せ、骨付き肉を一本掴み、そのままかぶりつく。豪快な音がした。


 ルシアはそれを見て苦笑しつつ、エリナの向かいへ腰を下ろす。


「助かる」


「そう言うと思った」


 エリナは自分とルシアの前に、比較的普通の量の食事を置く。肉はあるが、グランのような山ではない。野菜を煮たもの、温かい汁物、やわらかいパン。疲れた体にはその方がありがたい。


 しばらくは、食器と咀嚼の音だけが部屋を満たした。


 グランはひたすら食う。骨が皿へ増えていく速度が早すぎる。ルシアは温かい汁を飲み、ようやく肩から力が抜けるのを感じた。森の湿った空気と神殿の腐臭に包まれていた後だ。家の中の温かさがやけに沁みる。


 エリナが、パンをちぎりながら口を開く。


「修理の件だけど」


 ルシアが顔を上げる。


「もう話を通したわ。信頼できる業者に頼んである。壊れ方の話を聞いた時は頭が痛くなったけど」


 ちらりとグランを見る。グランは肉を噛みながら、関係ない顔をしていた。


「どれぐらいかかる?」


「だいたい五日くらいってところね」


「ふむ」


 ルシアは少し考える顔をした。五日。長すぎはしないが、短くもない。


 エリナはそんなルシアの表情を見て、少しだけ身を乗り出す。


「だからさ」


「うむ」


「修理が終わるまで、うちに泊まりなさいよ」


 ルシアの手が止まる。


 すぐには返事をしなかった。断る理由も、乗る理由も、両方が頭をよぎったのだろう。


「ふむ」


 もう一度、その声が漏れる。


 エリナは軽く肩をすくめた。


「別に遠慮しなくていいわよ。どうせ壊れた家じゃ、落ち着かないんでしょ」


「落ち着かぬのは確かじゃな」


「でしょ」


 その間にも、グランは肉を食っている。会話に挟まる気はないらしい。だが耳だけは向いていた。


 エリナはわざとらしく咳払いした。


「ただし」


 ルシアが目を向ける。


「ちゃんと、うちのルールには従ってもらいますからね」


「ルール?」


「そう」


 エリナは少し考えるふりをする。


「うーん、毎日お風呂に入るとか。夜更かししないとか」


 ルシアは思わず笑った。


「なんじゃ、それは」


「大事でしょ。生活ってそういうものよ」


「それはそうじゃが、わざわざ言うほどの事か?」


「言うわよ。うちは店と家が一緒なんだから、だらしない生活されると困るの」


 ルシアは苦笑したまま肩をすくめる。


「堅いのう」


「普通よ」


 そのやり取りの横で、グランが骨付き肉を置く。


「オレ風呂は好きだぞ」


 エリナが半眼になる。


「今それを言うの?」


 ルシアが頷く。


「うむ。わらわも好きじゃ」


「そこは知ってるわよ」


 エリナがそう返した瞬間、グランが何の迷いもなく続けた。


「ルシアと一緒に入る風呂が一番好きだ」


 ルシアの匙が止まる。


 一拍遅れて、頬が赤くなった。


「ば、馬鹿者!」


 さっきの地下と似たような調子である。疲れているせいか、余計に反応が素直だ。エリナは額を押さえた。


「はい。そこまでにして」


 グランはきょとんとした顔をした。


「なんでだ」


「なんででもよ」


 エリナは指を一本立てる。


「うちでのそういうのは禁止ね」


「そういうの?」


「分かるでしょ!」


「何がだ」


 ルシアが横から慌てて口を挟む。


「分からんふりをするな!」


 エリナは深く息をついたあと、今度は話題を変えるように言った。


「あっ、それと」


「まだあるのか」


「ルシアにちょっとだけ、お店を手伝って欲しいかなって」


 ルシアが首をかしげる。


「手伝い? まあ、かまわんが、何をするのじゃ?」


 エリナの目が少しだけ光った。


「あたしがデザインした服を着て、立っててくれるだけでいいよ」


 ルシアが目を細める。


「立っておるだけか?」


「そう。立っててくれるだけ」


「……怪しいのう」


「怪しくない怪しくない。絶対似合うもの」


 エリナは笑っているが、どこか商売人の顔だった。ルシアはそれを見抜いているのかいないのか、少し考えてから、肩をすくめる。


「まあ、それぐらいなら」


「ほんと?」


「うむ」


「やった」


 エリナは満足そうに笑い、それからこっそりと目を細めた。ルシアには見えなかったかもしれないが、少なくともグランには分かったらしい。だが本人は肉の方が忙しく、突っ込む気はなさそうだった。


 食事を終えた後、二人は一度自宅へ戻る事になった。


 泊まるにせよ、必要なものを持っていかねばならない。夜の通りはさらに静かになっており、街の喧騒が遠い。戦いの後に歩く自分たちの足音だけが妙にはっきり聞こえた。


 家へ戻ると、壊れた部分が夜の暗さの中でかえって目についた。修理まで五日。そう聞けば、ここで無理に寝泊まりするのも確かに馬鹿らしい。


 ルシアは手際よく荷物をまとめ始めた。


 着替え、最低限の身支度道具、必要な小物。迷いのない動きだった。何を持ち、何を置くかが最初から決まっているらしい。


 その間、グランはというと、少し離れたところでじっと見ていた。


 無言である。


 だが、その視線が何を言いたいのかはあまりにも分かりやすい。


 ルシアは袋へ物を詰める手を止めずに言った。


「ダメじゃぞ」


 グランは答えない。


「エリナが待っておる」


 それでもまだ見ている。


 ルシアが一度だけ振り返る。


 目が合う。


 グランは本当に何も言わなかった。ただ真っ直ぐ見ているだけだ。だがその顔は、もう十分すぎるほど主張していた。


 ルシアはその視線を受け止めたまま、しばらく黙る。


「……」


 袋を結び、深く息を吐く。


「……一度だけじゃぞ」


 その瞬間だけ、グランの顔がぱっと明るくなる。あまりに単純で、ルシアは自分で言っておきながら呆れたように目を細めた。


「ほんに、おぬしは」


 返事の代わりに、グランが一歩近づく。


 その場の空気が少しだけ熱を帯びる。


 窓の外はもう深い夜で、家の中は妙に静かだった。


 市庁舎では、まだ灯りが落ちていなかった。


 市長は外套を脱ぐ間も惜しんで、老魔導師と向かい合っている。卓の上には例の破片を収めた革箱が置かれていた。部屋の中には紙とインクの匂い、そして疲労の気配が濃い。


 市長が箱へ視線を落とす。


「他にもあると思いますか」


 老魔導師はすぐには答えなかった。指先で白髭を撫で、しばし考え込む。


「そう簡単に作れる物ではありませんが……」


「不可能ではないと」


「ええ」


 老人は静かに頷く。


「今回のものがどこまで完全な形で作られた物か、それすらまだ分かりませぬ。じゃが、もし術として形になっておるなら、他に試みた者がおってもおかしくはない」


 市長の目が険しくなる。


「嫌な話ですね」


「嫌な話ほど、先に調べておくべきでしょうな」


 老魔導師は革箱をそっと閉じた。


「詳しく調べてみます」


「お願いします」


 短いやり取りだったが、その先にあるものは重い。市長は深く息を吐き、ようやく椅子へ体を預けた。


 エリナの家へ戻る道で、ルシアはおんぶされていた。


「この馬鹿者! 少しぐらいは手加減せぬか!」


 夜道にルシアの声が響く。


 グランは悪びれもせず、そのまま歩いていた。機嫌は明らかにいい。背中の上のルシアは、頬をまだ少し赤くしたまま、ぽかぽかとグランの頭を叩いている。


 痛がる様子はない。


 むしろ、その叩かれ方すら気に入っているような顔だ。


「重くねえぞ」


「そういう事を言っておるのではない!」


「じゃあ何だ」


「歩けぬ訳ではないぞ」


「でも今、ふにゃっとしてるぞ」


「ふ、ふにゃっ」


 ルシアの声がまた裏返る。グランは喉の奥で笑った。


「エリナに見られたらなんと言われるか」


「別にいいだろ」


「よくない!」


 そう言いながらも、ルシアは本気で降りようとはしなかった。叩く手も、途中からだんだん弱くなる。結局、最後にはグランの肩へ額を預けるような姿勢になっていた。


 夜は更けている。


 街は静かで、二人の影が石畳の上へ長く伸びる。


 戦いの後の疲れも、空腹を満たした温かさも、少しだけ気の抜けたやり取りも、全部まとめて夜の冷たい空気に溶けていく。それでも背中の熱だけは確かで、ルシアは小さく息をついた。


「ほんに」


「なんだ」


「しょうがないやつじゃ」


 グランは返事の代わりに、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。


 それが妙に優しく感じられて、ルシアはまた、軽く頭を叩いた。

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