10-2
(何だ今のは⁉ 本当に標的か⁉)
玄関から距離を取り、レンプは態勢を整える。いや、この際、標的かどうかは考慮しない。任務もへったくれもない、命の瀬戸際だった。
レンプは猛毒の吹き矢をつがえて、開け放たれた扉に女がのこのこと姿を現した瞬間、無心で吹き射る。
矢は、女の胸に命中した。
女はまるで飽きたように、胸に刺さった吹き矢へ一瞥をくれた。
「芸がねえな」
レンプは目を疑った。
直前の猛々しさとは打って変わって、悠然と立つ女。吹き矢は直ちに女の命を奪うはずだった。だが、その刺し傷を中心に、女の肉がぶくぶくとブドウの房のように小さく腫れる。赤黒く熟したブドウ腫れは、吹き矢ごと千切れ落ち、床に転がった。
落ちたブドウ腫れは、稚魚の群がる餌玉の如く暴れると、力尽きて床に広がり、染みとなって乾いて消えた。
女の胸は痕一つ残さず、綺麗なものだった。
「やだ。じろじろ見ないで。変態」
胸を両手で隠し、背中を向ける仕草の自然さが、レンプには不気味に映った。
「貴様、一体、何だ⁉」レンプが後ずさりつつ、叫ぶ。
女は、見かけの歳相応に、男との語らいを楽しむかのように、声を潜めて笑った。
「フフ。初めましてかしら。私、エレクトラです」
「ふざけるな!」
「エレクトラよ? エレクトラエレクトラちゃんとエレクトラ」
両手を広げ、女はその場でターンする。スカートが翻り、膝上まで素足が露出した。
「どこからどう見てもエレクトラ。恥ずかしくて見せられないところだって、隅から隅までエレクトラだもの。正真正銘、エレクトラ・ヴァルディソーレ」
翻ったスカートの裾をふわりと摘まみ、細腿に押し当て、焦らすように、鼠径部の真下までたくし上げる。ギリギリのスリルに酔い痴れて、放した指は内股から腰骨にかけてなぞり、くびれを誇示させ、胸をまさぐり、喉を逆撫で、両頬に添えて、淫売がたまらなく誘うように表情を蕩かせた。
礼拝堂の暗がりに浮かぶ女の目は、レンプの反応を楽しむ色に染まっている。
「娘ではないな⁉ 貴様、吸血鬼か!」
後方で身を潜めるフクロウ翼人に届くように、レンプは声を張った。女の白目が血走り、瞬時に紅一色へ染まる。レンプと競うように、女の中の者も、唾を飛ばすほどの大声でがなった。
「蔑称で呼ぶんじゃねえ! ぶっ殺すぞ! どいつもこいつも吸血鬼吸血鬼バカの一つ覚えで呼びやがって、うぜえんだよ! バカか、バカだろ! オレたちゃ胤族だって何度言やわかんだ! そろそろ覚えろや、ノータリンの骨肉鬼どもがよお!」
レンプは女の言うことの半分も理解できなかった。だが、レンプの見立て通り、女の異常な力は吸血鬼を由来にしているらしい。
激高から醒めると、女の中の吸血鬼は恥じるように息を整え、人を小馬鹿にするような元の笑顔に戻る。赤目が瞬きの内に、白へ転じていた。
「悪り。腹ペコで気が立ってんだ」
「腹……ペコ」
目の前で惨殺された護衛役、そして、姿の見えない見習い役の末路が、レンプの脳裏をよぎる。
まさか、こいつ、そのために。護律官の根城にもかかわらず、食事のために、危険を顧みず正体まで明かしたというのか。
「それで、我々を……⁉」
「おあつらえ向きだったぜえ?」吸血鬼が嗤う。今や我が物である女の胸を掻き抱く。「何の罪もない乙女に寄ってたかって、ぶっ殺してえっつうド外道野郎どもならよお、オレが食っちまっても、天にましますマトゥリ様だって、目を瞑ってくれるってなあ!」
何の罪もないものか。口内で言い捨て、レンプは、ニイとあくどく口角を上げた。
「だったら食ってみろ、吸血鬼! 食えるものならな!」
この際、どのような経緯で吸血鬼が標的の姿をしたのかは、どうでも良い。本来なら今のレンプでは対処不能な異常事態に、打開の目が出たのだ。泥水をすすってでも、その目を拾う。
打開の目――この吸血鬼は、相当に消耗しているに違いない。
天敵である護律官の根城で、開き直って血を貪るのが、その証拠だ。護律会堂にいながら、空腹程度で尻尾を出す吸血鬼などいない。護律官に討伐されてしまうのは明白だ。
護律官に麻酔を打ってしまったのが、今になって裏目になってしまった。その失敗は口惜しかったが、護律官が落ちている今だからこそ、はっきりとわかる。
(この吸血鬼、ただの人間相手に口だけで、何故もたついている。ほんの少しの無茶さえためらっているのか)
こいつは、万全じゃない。
夕陽が、レンプの背中を押している。油断はできない。しかし、吸血鬼の力が相当な脅威であっても、太陽がある限り、奴は一歩たりとも、外へ踏み出せないはずだ。
「穴倉から吠えてないで、こっちに来たらどうだ! それとも太陽が怖いか、吸血鬼!」
牙を剥いてがなっていた女が、むすっと口をつぐんで、レンプを睨みつけてきた。意外と冷静だとレンプは分析する。意図的な挑発には敏いようだ。
女は歯を砕かんばかりに食い縛り、強いて笑顔を刻み、あくまで鷹揚に拍手を贈った。
「……良い度胸じゃねえか。そのクソ度胸に免じて、乗ってやるよ」
光差す場所へ、吸血鬼が一歩を踏み出す。たじろぐレンプ。何かある。自信が吸血鬼の身体からにじむようだった。
「良い知らせだ。この身体は、水を克服してる」
レンプに戦慄が走る。
「太陽なんざ今更……」
護律会堂の扉が縁取り、礼拝堂内へ差す夕陽に、吸血鬼の手が照らされた。刹那、不敵な笑みが瞬時に泣き面へ変わった。
「熱゙づ‼ ボケが‼」
日を浴びた手が沸騰する。女は日陰に退き、手を叩き、払って、皮下で燃える血を鎮める。華奢な手が火傷を負ったように、見るも無残な水疱に覆われている。僅かに炭化さえ見られた。
吸血鬼の肩がわなわなと震える。
「んだよこの身体‼ 水がいけんなら太陽もいけんだろが‼ 玉無し竿無し根性なしが‼」
地団駄を踏む吸血鬼を眺め、レンプがほくそ笑む。
やはり、太陽は効く。
悪態つきながら傷を修復する女も、今やレンプには恐れるに足らなかった。平穏を汝らが光へ。不穏を我らが闇へ。レンプは標語が唱える闇の側であったが、この期に及んでは、光に祝福を見出した。
己の悪運の強さに、レンプは失笑した。虚勢ではなく心から笑んで、歯を剥きだした。
「太陽なんざ今更……? 続きを聞かせてみろ。俺を食わなくて良いのか?」
「デカい面してられんのも今の内だぜ、おっさん」手を労りつつも、女の顔が不機嫌そうに歪む。「もうじき日が暮れる。夜遊びと洒落こもうや。中年にゃ勿体ねえ美女の手管で、昇天させてやる」
舌なめずりする女の強がりが、いっそ哀れに思えた。
確かにもうじき日が沈む。普通なら、レンプは助からない。今から逃げたところで、吸血鬼の身体能力の前には太刀打ちできないからだ。
だが、レンプの後ろには、仲間の翼人が控えている。空を飛んで逃げれば、さしもの夜の貴族も追いつけない。
「遠慮しよう。カミさんに隠し事は多いが、浮気だけは必ずバレる」
レンプの指笛が、黄昏前の凪に響き渡る。翼人に緊急脱出を伝える合図だ。
空は翼人の庭だ。相手が吸血鬼であろうとも、飛行にかけては年季が違う。それに、吸血鬼は日没まで外に出られない。たとえレンプを運ぼうが、奴なら余裕で逃げ切れると、レンプはその実力を信用していた。
レンプの背後から、樹冠を抜けて羽ばたく音が届いた。ここは一旦退く。本物の標的の捜索、そして処分方法の検討は、生還した後の話だ。
「ふうん? なら仕方ねえなあ……気をつけて帰ってねえ」
平然としながら、吸血鬼が負け惜しみするのが、レンプには滑稽だった。現に、吸血鬼はすごすごと護律会堂の陰に身を引き、次の瞬間、
「なんて言うと思ったか! 忘れ物だコラァ!」
闇から、護衛の死体が投げられた。投擲された死体は速度を変えず、真っ直ぐにレンプを目がけて飛んでくる。
やはり恐るべき膂力だ。しかし。
「それで一矢報いたつもりか!」
所詮は直線的な攻撃である。来るとわかっていれば避けるのは容易い。レンプは身を翻す。
だが、その一瞬、レンプの目が、妙な姿の死体を捉えた。
護衛は元々、体格が良かった。だが、投げられた死体はぶくぶくと、異常に大きい。ぶくぶくと異常に大きくなっている。
元より膨張している。
放物線を描く、今、このときも。肉が、衣服を、皮膚を裂くほどに、血を、体液を散らしながら、膨張し続けている。
「なに――」
吸血鬼が、己の血の一部を死体に仕込み、操作していることなど、レンプには思いも寄らなかった。
吸血鬼の血は、護衛の死体に残った血を吸収しながら、死体内部で暴れ回っていた。
護律会堂とレンプの立つ場所までの間、その中間で、肉体は強度の限界を迎え、死体が爆散する。レンプは血濡れた爆風を浴びた。
仲間の翼の羽ばたきすらも爆風に煽られ、レンプから遠ざかる。
死体が、辺り一面に紅い血煙を撒き散らした。思わず目を庇ったレンプは、血生臭さに囲まれた。微かに焼けた肉の臭いが混じる。太陽に感光した吸血鬼由来の血が、焦げているのだろう。
血と肉の微粒子を吸い、むせ返る。
呼吸すらままならない中、何とか目を開くと、そこは、生温かい紅の闇の中であった。
護律会堂はおろか、周囲の景色も、血煙の奥に消し飛んでしまった。ただ、血で塗りたくられたキャンバスのように、どこを向いても紅一色である。
縋るようにレンプは西を見据えた。
夕陽ですらも、血の闇に遮られて、茫洋と霞んでしまっている。
平穏を汝らが光へ。不穏を我らが闇へ。夕焼けよりも紅い空に、頭が真っ白になりゆく中、正気の最後まで残った標語が、レンプの口の中で、空しく唱えられた。
任務は標的の抹殺だ。吸血鬼退治は、話が違う。そのような任務だとは聞いていない。そのような任務なら、そもそもレンプたちに指令は下らない。
人を人の手で断罪するためのレンプたちである。人を人とも思わない怪物に、太刀打ちできるものか。
彼らよりなお深く、光の及ばない奈落の闇には、どう対処すれば良いと言うのだ。
「奥さんのこと忘れるくらい、激しくしてあ・げ・る」
真後ろから、舌なめずりの滴る音と、喜悦を抑えた声が聞こえた。
心が折れ、耳にしたままに振り向くレンプ。
吸血鬼が指を鳴らす。鋭く伸びた爪が、指を切り、血が赤い実のような露を結ぶ。それをもう片手の指と馴染ませ、つ……と離すと、絹よりも細い血の糸が紡がれた。
血の糸は、吸血鬼の指遣いに従い、ほこりのように漂ってレンプの首に巻きつき、その細さからは想像もつかない硬度で、首を絞めた。息苦しさで反射的にレンプが糸を解こうとしても、血の糸はとっくに首の肉に食いこんでおり、結果的に切り傷を広げることしかできない。
「首を絞めたら、味も締まったりしてなあ」
レンプが最期に目にしたのは、うっとり見惚れてしまうほど妖艶な女の微笑みと、大きく裂けた口に並ぶ、四本の鋭い牙だった。
太陽が、地平に沈む。夜の貴族――吸血鬼の刻が来る。
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