三、津田薬学研究所にて
『津田薬学研究所』は、隣町の街外れにあった。真っ白で清潔そうな建物は、この真田舎にあるにしては立派過ぎた。建物の周りは花壇で埋め尽くされている。上質な花壇である。誰が手入れしているのだろうか。これ程巨大な建物に装備されているくらいだ、雇われ花屋か何かが毎日綺麗にしているに違いない。
一見、入口が見当たらない。建物を一周して、やっと、従業員入口を見つけたが、其処からノックして入るのも無粋である。もう一度辺りを見回しながら一周して、其処でやっと、来客用の小さなインターホンを発見した。
羽鳥はインターホンを押した。接触が悪いのか、バチバチ、という音が混ざって聞こえてくる。
『はい、津田薬学研究所です』
「長野県警の羽鳥です。昨日隣町で起きた事件の件で、お話をお伺いしたいのですが」
『少々お待ちください』
中から聞こえてきた女性の声は、接触の悪いインターホンを通しても、清潔そうではつらつとしていることが分かった。研究所、で働く者は、皆陰気な様な気がしていたが、然程そうでもないらしい。
暫くして、がちゃり、と音が鳴って、厳重に封鎖された蓋が解放された。扉は見上げる程に大きく、自動で開く現代式のものだった。
開かれた其処には、まだ成熟しきっていない、子供のような表情の、背が低い、可愛らしい女性が立っていた。女性は二人にお辞儀をすると、
「どうぞ中へ」
と促した。二人が足を踏み入れると、ドアは大きな音を立てて自動で閉まった。こうして、再び入口は隠蔽された。
「本薬学研究所の宍戸と申します。刑事さんがいらっしゃるという事は、こちらで預かっておりますあの“花”の件でございましょうか」
「昨日の花って、御存じなんですか?」
羽鳥が言う。
「ええ、何せ、事件のあと、うちにあの花は送られてきましたのよ」
「何と、そうでしたか」
羽鳥は志波を見た。志波はにっこりと笑って、
「津田美樹さんは、今日は来てらっしゃいますか?」
と言った。宍戸は少し面食らったように、その活発そうな目を見開いて、
「ええ……あんなことがあった後ですからお休みしてくださいと申したのですが、この事件の解決とあの花の解明はこのご自分に責任があると仰って、どうしてもと、ご出勤されました、先程の事です」
「やはり、津田美樹さんはこちらの研究者さんだったんですね」
志波は、やはりにっこりと笑ったまま気味悪く言った。羽鳥は志波の耳元に口を寄せ、
「志波君、まさかとは思ったが」
「簡単なことですよ。津田美樹は、自分の研究所にあの花が送られたと知っていたのでしょう。だから圭君を、簡単に退院させたんです。真に親なら、何を言おうと、猿轡をしてでも病院に留めて検査を受けさせ、完全に安全な体になってから退院させたがるでしょう。それを、彼女はしなかった。自分が解明できると思ったからです」
「それで気付いたのかね?」
「それだけではありません。勿論、あの雑誌が決め手です。そして、彼女はきっと、あの花に、然程毒がないと思っているんじゃないですかね」
「毒がないだと?一人危篤者が出ているのだぞ」
「吸うくらいじゃ死にませんよ。“麻薬”は」
「“麻薬”?」
「ただ、彼女、平野柚子ちゃんは、何らかの“特別な状態”に陥って、あんな事になってしまったんでしょう」
「おふたり」
宍戸は振り返り、立ち止まった。
「もしかして、美樹先輩を、お疑いですの?」
「いいえ、そうではありませんよ」
志波は答えた。
「今のところは」
その時、左側の扉が慌しく開け放たれ、時代遅れの丸眼鏡をかけた男が通り過ぎた。
「彼は?」
志波が問う。
「……美樹さんの旦那さんの、津田二郎さんです」
伏し目がちに、宍戸は言った。
「息子さんが、圭君があんな状態になっているというのに、彼は周りが見えない様で、事件の事に等目もくれず、自分の研究で手一杯なんです」
酷い親です、と言いそうになって、宍戸は口を噤んだ。代わりに志波が、
「酷い親ですね」
と代弁した。
「失礼なことを言うでない」
羽鳥は志波を小突いた。
「どうであろうと被害者家族であることに変わりはないんだから」
「でも酷いじゃないですか。息子を放ったらかしで。そう言えば、昨日も病院には来ていませんでしたね」
志波が言う。宍戸は更に顔を曇らせて、
「ええ。あのヒトは、昨日も、此処で働いていました。息子さんの知らせを聞いても、美樹さんが行くのなら大丈夫だろう、と……」
「そうですか。ところで“あのヒト”は何の研究を?」
途端、宍戸の目が輝きだした。
「素晴らしい研究ですのよ。薬物依存者や、アルコール中毒者を立ち直らせるための、新しい薬品の開発をしているのです。依存性がなく、しかし多少麻薬と同じような作用を持っているので、元々麻薬を常用していた方々にも使いやすく、且つ安全。素晴らしい研究ですわ」
宍戸は、父親としての二郎を軽蔑しながらも、研究者としてはかなり特別視しているようであった。
羽鳥は不信感を抱いた。宍戸と言う女性は、どうしてこうもころころと表情が変わるのか。志波はそんなことは気にも留めない様で、いつも通りにっこりと不気味に笑っている。羽鳥は急に、この研究所という鳥かごの中で一人取り残されたような、孤独に締め付けられた。
「志波君」
羽鳥が孤独を払拭しようと、何か言おうと口を開いた時、宍戸は廊下の突き当たりのドアを静かに開けた。
「応接室でございます」
先程から思っていたが、宍戸は非常に言葉遣いが丁寧である。丁寧すぎる。どこぞのお嬢様か、と思わせる。いや、きっとそうなのだろう。薬学を学ぶには、大学で膨大な費用が費やされる。それをポンと出せるくらいの親の元で育ったのだ。
二人は宍戸に案内されるまま、応接室に入った。
「今、先輩……津田を呼んでまいります。その間、どうぞ、コーヒーでもお召し上がりになっていてください」
宍戸は静かにドアを閉める。羽鳥はどっかりとその存在感を見せつける緑色のソファに腰を下ろすと、ふう、と溜息を吐いた。志波は、遠慮なく、と言うように、コーヒーメーカーに近づいた。
「今どきの施設だ。やはりコーヒーはこういう“ちゃんとしたやつ”に限りますよ」
志波は嬉しそうに、コーヒーメーカーに用意されていた紙コップをセットした。
「羽鳥さんも要ります?」
「私はいいよ。朝に一杯飲んでしまったからね」
「一日二杯くらいじゃ何ともなりませんよ」
志波は笑った。
コーヒーメーカーから、挽き立て同様のコーヒーが抽出される。ぽたりぽたりと静かに表面を揺らしながら、質素な紙コップに上質なコーヒーが生成されていく。志波はその様子を、飽きることなく見ていた。
「うちのオフィスにも置きましょうよ、コーヒーメーカー」
「志波君、勘違いしている様だが、“君のオフィス”じゃないよ。“長野県警”のオフィスだ」
コーヒーが出来上がって、志波は羽鳥の隣に座った。
「流石に、他人の家でテーブルに足を乗せるのだけはやめなさいね」
「正確に言えば施設ですよ。勿論です。僕は自分の机でしかそんなことしませんよ。アメリカなら別ですけど」
一杯目のコーヒーを飲み終わっても、津田美樹は登場しなかった。
「遅いな」
「そりゃ、息子の事件解明を依頼されてるんです。県警の一刑事のどうでもいい話に時間を割くより、そっちが優先でしょう」
容赦なく志波は言い放ち、二杯目のコーヒーを入れた。紙コップは一回でダメになってしまったので、新しいものを用意した。
「一応来客用なんだから、二杯で終わりにしておきなさい」
「じゃあ、この後、コーヒーショップにでも連れて行ってくださいよ。そうしたら二杯で終わりにしてあげます」
「わかったよ。君の言うとおりにするから、お願いだから行儀の悪いことは出来るだけ避けてくれないか」
「わかりました。其処まで言うなら、二杯で終わりにしてあげましょう」
志波は笑って、二杯目のコーヒーを運びながら羽鳥の隣に再び腰を掛けた。
「それにしてもあの少女……いや女性か。年齢はわからんからな。しかし此処で働いているのだから、女性と言った方が正しいだろう。宍戸さんは、どうも、不思議な女性だね。だって、津田圭の父、二郎と言ったか、彼について批判したかと思えば、尊敬するような眼差しをしたり、妙に言葉遣いが丁寧すぎたり、私たちの会話から美樹を心配している様子を見せながら、こんなにも案内が遅い」
「文句ですか。美樹さんが来るのが遅いから」
「いや、文句を言っているんじゃなくてね。不思議だなあ、と思って。疑われているかもしれない、と一瞬でも思ったなら、尊敬している先輩を、もっとすぐにこちらに連れてくるんじゃないかい。それに、あんなに丁寧な言葉遣いをするくらい良い所育ちであるのに、気が利かない。普通は来客者にコーヒーを自ら用意させるようなことはしないだろう」
「羽鳥さん、今日は冴えてますね」
志波は言った。
「もう事件も解けたようなもんじゃないですか」
「何を言っているんだ。津田美樹の事情聴取はこれからじゃないか」
「事情聴取じゃなくて聞き取りですよ。彼女はきっと、犯人じゃないんですから」
「君は何を根拠に……まあ、君の言う事はいつも正しいから、そういう事にして捜査を続けてみることにしよう。しかし、だとするならば今日此処に来たのはなんという時間潰しだろうか」
羽鳥は溜息を吐いた。
「結局私は、君に振り回されてばかりだ」
その時、がちゃり、と応接室のドアが開いた。色白の肌に長く黒い髪、年齢を疑うほどの美人は、昨日津田圭の部屋で出会った、彼の母、美樹である。
「大変お待たせいたしまして、申し訳ございません」
美樹は深く頭を下げ、詫びた。
「いいんですよ。コーヒーを頂いていましたから」
「そうですか。こちらからお出しできずに、申し訳ありません」
美樹は何度も頭を下げる。
「大丈夫です。コーヒーの濃さが自由に選べましたから、僕には好条件でしたよ。それで、どうですか、調べの方は」
言われて美樹は、少し目を泳がせた。
「あの……本当に、刑事さんなのでしょうか?」
「勿論です」
羽鳥は立ち上がって、警察手帳を見せた。
「長野県警から、直接知らせが行かなかったのでしょう、何せ、唐突に思いついたものでしたから、申し訳ない」
「そうですか。県警さんから花の調査の依頼を受けて、そしてその日に県警さんがこちらに直接いらっしゃるなんて、不可思議に思ってしまいましたので、その、お疑いしてしまって申し訳ありません」
美樹は言いながら、羽鳥と志波が座る向かいのソファに腰を下ろした。
「今回は、どんなご用件でいらしたのでしょうか。圭とは昨日、あれ以来口をきいておりませんの。部屋に籠ってしまって、なにやら呪文のように何かを口ずさんでいるばかりで、ご飯もろくに食べてくれません」
伏し目がちに、美樹は言った。圭の気持ちもわからなくない。恋人を失ったのだ。しかも、聞いた話によれば、幸せな恋人生活では無かったようだ。両親や他人への恨みつらみを呪文の如く空に語って呪いをかけているのかもしれない。そう考えると、少しぞっとする話だ。
志波はコーヒーを口に運びながら、
「あの花は、一体何だったんですか」
と唐突に聞いた。美樹は面食らったように目を見開き、それから慌てて、
「ええ、あの花は、毒物を意図的に注入されたものでした。ヒ」
「ヒメノカリスに、何の毒物を注入したモノだったんですか?」
「ああ、どうしてヒメノカリスだとお分かりになったのでしょう」
「形からして、ヒガンバナ科の花であることは分かりました。でも形状が、彼岸花と少し違う、似通っていましたが、それで有名なのは、ヒメノカリス。僕はヒメノカリスを育てていたことがありましてね、非常に形が似ていると思ったんですよ。大当たりですか」
「ええ、その通りです」
美樹は頷いた。
「ヒメノカリスに、様々な毒物や薬物を混ぜたものが注入されていました。特に危険でしたのは、あのヒメノカリスを赤く染めた成分、“ベラドンナ”という植物の毒性です。あれには幻覚を起こす作用がありますが、それ以上に恐ろしいのは、嘔吐や散瞳、異常興奮を引き起こし、最悪死に至らしめるのです。今回の平野柚子ちゃんの様に……いえ、彼女はまだ、死んではいませんものね。なんて酷いことを言ってしまったのでしょう、ああ、私としたことが」
ベラドンナ、か……。志波は腕を組んだ。ベラドンナには毒性と薬性、両方が兼ね備えられている。実はブルーベリーによく似ていて、一見美味しそうだが、それを食すると、食中毒を起こし、先程美樹が言った通りに最悪の場合は死に至る。
「ヒメノカリスにベラドンナを合成するなんて、一般人じゃできませんね」
志波は言った。
「それは、どういう意味でしょう」
「言った通りの意味ですよ、一般人では、合成できない。何か特殊な技術や、知識を兼ね備えた人物でなければ、そんなこと、出来ないでしょう」
志波は足を組んだ。美樹はそれを見て、
「あなたは……恐ろしいことを考えていらっしゃるのね」
「恐ろしい事?いや、一般的なことですよ」
「恐ろしいことです。この研究所内に、犯人がいるとでも仰りたいのでしょう」
「そんなことは言っていませんよ」
志波は、ははは、と笑うと足を右足、左足、と組み替えた。
「お伺いしたいことは他にもあるんです」
偉そうな、いや、剽軽な態度で、志波は言った。
「あなたと、旦那さん、最近上手くいっていないでしょう?」
今まで被害者の母として細くも凛としていた美樹の表情が、一気に曇った。眉間に皺が寄っている。美しかった彼女は、志波の一言であっという間に老け込んでしまったかのようだ。
「捜査に関係が?」
「はい」
志波はコーヒーをまた一口飲んだ。
「旦那さんは、どんな方です?」
美樹は下を向いた。
「研究熱心な、素晴らしい研究者です。この研究所を立ち上げようと言ったのも彼でした。今は私が代表を務めておりますが」
「旦那さんが代表じゃないんですね」
「彼には向いていません。だって、ただの研究者ですから。研究者は世間を渡り歩くことは出来ませんわ。だって、浮いているでしょう」
「そんなことありませんよ」
志波は言った。
「研究者は立派な職業だと思いますよ」
「ええ。私もそう信じております。けれど、彼は、二郎さんは本当に、研究熱心というものを通り越して、研究に憑りつかれたような男でした。いえ、そうさせてしまったのは私なのかもしれません」
「何があったんです?」
重たい雰囲気に耐え切れず、羽鳥はぎしり、とソファを揺らした。志波はそれに動じることもない。羽鳥は志波のやり口に、文句を言ってやりたい気持ちを押さえながら、いつもの様に目を瞑って、志波と美樹のやり取りを聞いていた。志波は常に自分勝手だ。羽鳥に、自身の考えを言わないまま、相手とのやり取りを進めてしまう。会話に入り込みたくても、内容や志波の意図がつかめないから、入り込めない。いつもの事だった。
美樹は瞳を潤ませたように見えた。
「子供が生まれて、私は産休に入りました。それでも研究を続ける彼を、私は最初こそ許していたものの、次第に愛想を尽かすようになってしまいました。帰宅しても会話しないことなんて日常茶飯事。嬉しそうに研究の成果を語る彼を、私は無視し続けました。そうすると、もう彼の方から話しかけてくることは無くなりました。夫婦関係は、圭が生まれた時から、既に終わっていたのかもしれません」
言ってから、美樹は辺りを見回した。
「この話は、施設内では決してしないようにしてください。皆を動揺させてしまいますから。この施設では私は皆のまとめ役で、彼は熱心で素晴らしい研究者として通っているんです。ですから、家庭内の事情を、持ち込みたくないんです」
「分かっています」
志波は、本当にわかっているのか、宙を見るように惚けていた。そんな志波の様子に気付かず、美樹は続ける。
「二人目の子供を授かったのは、奇跡としか言いようがありませんでした。妹は、葉奈と言いますけれど、葉奈は、もう夫婦が破綻した後に出来た子でした。だから、圭が育てたようなものです。とても懐いているのです。何度かこの施設に連れてきたことがありましたけれど、やはり父の研究に没頭する姿を見て、気味の悪いモノを見るような目つきで居りました。可哀想に、あの子にとっての父は、圭なのです」
「葉奈ちゃんは、いくつですかな?」
「小学三年生です」
羽鳥はなんとなく聞いた。圭を父という存在として認識するとしたら、相当歳が離れているのだろうと考えたからだ。それ程に幼い子供の前で、あの二人―――圭と柚子―――は倒れ、片方は常軌を逸したように壊れ、もう片方は死に向かっているというのである。なんと哀れな話か。
「葉奈ちゃんは、大丈夫でしたか、あの事件のあと」
「ええ、とても、会話が出来る状態ではありませんでしたけれど、なんとか、状況を理解しようと自分なりに努力しているようです。今も、空いている研究室に居りますのよ。先程お二人をご案内した、宍戸が、相手をしてくれていますの」
「宍戸さんは、この研究所では、どのような立ち位置なのです?」
「そうですね、まだ研究生と言う感じで、雑用などを主にやってもらっております。けれど大学での成績も優秀でしたし、そろそろ本格的に研究を始めてもらおうと思っておりますの」
「二郎さんの助手としてですか?」
羽鳥を遮るように、志波が言った。美樹は再び、その大きな瞳が飛び出してしまうのではないかと言うほどに目を見開いた。
「何故そう分かるんです」
「先程、二郎さんとすれ違ったんです。その時、宍戸さんはとても二郎さんに執心……いや、二郎さんの研究に執心しているようでしたから」
「流石、刑事さんは何でもお見通しですのね」
「それで、二郎さんの研究についてですが」
聞き取り調査を行う時、志波は極力、自分がただの“一般人”であるという事は伏せていた。相手が勝手に“刑事”であると勘違いしている方が、事の運びが楽だからである。都合の悪い質問や意見が来ると、すぐに話をすり替える。
「二郎さんは、薬物依存者を立ち直らせるための研究をしていると」
「そうです」
言葉少なに美樹は言った。
「二郎さんは、薬品や毒物といった色んなものを調合して、薬物依存患者やアルコール依存患者を救うための研究をしております。今はまだ、結果が出ておりませんのでなんとも研究所としては言い難いのですが、私個人としては、とても名誉な研究であると感じております」
「美樹さん、嘘がお下手ですよ」
志波は笑った。美樹が反論する。
「私は、嘘なんかは……」
「二郎さんの研究の所為で、年間多額の費用が掛かっていて、困っているんじゃないですか?庭の整備士も雇えないくらい」
「志波君」
羽鳥が志波の肩を掴んだ。
「庭は綺麗に整備されていたじゃないか。花が咲いていて……」
「あれは“そう見せる”ようにしていたんですよ。普通、お金のある施設は立派な植木なんかをして施設を隠すように覆うものです。おかしいじゃないですか、こんな無骨な施設に、花壇だなんて」
「何がおかしいんですの。私の趣味ですわ」
「それだけじゃありません。入口に、花壇の整備用の軍手やら、スコップやらがまとめておかれていました。羽鳥さんは見落としても、僕は見落としませんよ。誰かが……まあ宍戸さん辺りが、丁寧に整備しているのでしょう」
美樹は観念した、と言うように肩を落とした。
「ええ、そうですわ。確かに、費用の工面はとても大変です。しかし」
強い目で志波をにらむ。
「彼の研究は多くの人を救う研究なのです。どんなに費用を使われようと、構いませんわ」
「……そうですか」
志波はつまらない、というようにまた足を組み直した。それから思いついたように、あっと声を漏らすと、
「葉奈ちゃんに会えます?」
「えっ、ああ、葉奈ですか?お会いしてもお話できるような状態じゃないと思いますけれど」
「いいです」
「それと、あまり、傷つくようなことをお言いにならないでくださいね」
美樹はきつい口調で言った。
「どうしてそんなことを?」
「今回の聴取で、私がひどく傷ついたからです」
志波は頭に手を乗せた。
「そんなつもりじゃなかったですよ、これは失礼しました」
「失礼も無礼も、ありませんわ」
溜息と共に、美樹は立ち上がる。
「どうぞ、こちらへ」
羽鳥と志波も、同時に立ち上がり、美樹に続いて部屋を出た。清潔な長く続く廊下に、一か所だけ、可愛らしい花の絵が描かれた扉があった。
「こちらになります」
美樹は三回ノックしてから、ドアノブに手をかけると、ゆっくりとそのドアを開いた。
「葉奈、いるかしら」
「お母さん」
小さな、か細い声が聞こえた。小学三年生の、圭の妹、葉奈である。幼いながらに、色白で頬がふんわり赤く紅をさしたようで、くりっと丸い目が、母の美樹そっくりであった。十年後が楽しみである。さぞ美しい可憐な女性に成長しているのであろう。羽鳥は幼い少女のあまりにも妙な色気に圧倒され、つい、そんなことを考えてしまった。
葉奈の隣には先程の宍戸が居た。宍戸は愛想のいい微笑みを浮かべながら、三人に会釈した。
「葉奈、警察の人がね、お話を聞きたいんだって」
美樹はそれから宍戸を見ると、
「お願いできる?宍戸さん」
「はい、喜んで」
美樹は志波と羽鳥を室内に入るように促した。それから、
「私はまだ、仕事が残ってますから、これで。また用事がございますようでしたら、宍戸に何なりとお申し付けください」
と言ってドアを閉めた。
閉められた部屋は何の音も聞こえない、密閉された防音の牢獄の様だった。牢獄と違うのは、壁一面、可愛らしい花の絵が描かれていることである。
「羽鳥さん、志波さん、今度は何のご用ですの?」
宍戸が笑顔のまま言った。志波は、
「今度は葉奈ちゃんに話を聞きに来たんだよ」
と言って、葉奈の隣に座った。葉奈は熊のぬいぐるみを大事そうに持っていた。
「この熊さん、名前は?」
「ユーリ」
「女の子?」
「男の子」
「へえ。かわいいね」
「男の子だから、かっこいいって言われた方が嬉しいって」
「そっか」
志波は子供の扱いに慣れていた。
「葉奈ちゃん、僕、志波裕也。志波でも、裕也でも、どっちで呼んでもいいよ」
「じゃあ、おじさん」
「はは、これは手厳しいね」
志波は頭を掻いた。
「ところで葉奈ちゃん、昨日はどうして、圭お兄ちゃんと一緒に神社に行ったのかな?」
葉奈はぬいぐるみの熊を弄びながら、
「柚子お姉ちゃんばかり、お兄ちゃんを取っていてずるいと思ったから、一緒に行ったの」
と答えた。
「お兄ちゃんは、葉奈だけのものだもん」
「そうだね。さっきお母さんから聞いたよ。葉奈ちゃんは、お兄ちゃんが大好きだったんだね」
「そうだよ。だから、柚子お姉ちゃんには、罰が当たったんだよ」
少女は熊の腕を掴んで、ボクシングのパンチをするように右手と左手を交互に動かした。
「じゃあ、柚子お姉ちゃんがああなって、嬉しい?」
「うん!」
葉奈はその容貌からは考えられないくらい恐ろしいことを言ってのけた。
「嬉しい!」
「そうかい」
「皆そう思っているよ」
葉奈は続けた。それから志波の顔を見上げて、
「誰も、言わないだけ」
と不気味な無表情でそう言った。
「誰も言わないけど、お母さんも、学校の先生たちも、友達たちも、みんなそう思っているよ。柚子お姉ちゃんは不気味だったから、居なくなって良かったってそう思っているよ」
「葉奈ちゃん!」
突然声を上げたのは宍戸だった。余りの暴言に、耐えかねた、という様子だった。
「葉奈ちゃん、そういう酷いことは言わないの。皆悲しんでいるのよ。もしかしたら、柚子お姉ちゃんは、葉奈ちゃんのこと、大好きだったかもしれないじゃない。それなのにそんなこと、言っちゃだめよ」
「どうして?」
無表情の葉奈は宍戸を見上げた。
「どうして本当の事を言ってはいけないの?」
「葉奈ちゃん」
志波は葉奈の両肩を優しく掴んだ。
「大人はね、嘘を吐く生き物なんだよ。だからね、葉奈ちゃんの言っていることが、正しいのかもしれないね」
「志波さんまで!」
宍戸は耐え切れない、と言うように立ち上がった。そんな彼女に、志波はウインクした。それを見て、宍戸は察する。志波は、本心から今の言葉を発した訳ではないのだ。決して、平野柚子の今の状態をよく思って言っているのではない。目の前の少女の機嫌取りをしているのだ。
もしかしたら、葉奈は昨日の事件の衝撃で精神的に傷ついて、今のような発言をしてしまったのかもしれない。
「大丈夫だよ」
志波は言った。
「でもね、葉奈ちゃん」
一瞬沈黙して、志波は続けた。
「犯人は、捕まえるよ」




