第91話 聖都への旅路
馬車の車輪が、がたんと小さく跳ねた。
それにあわせて車内が揺れる。
揺れに身を任せながら、私はこっそりと息を吐いた。
ここ数日、ゆっくりと腰を落ち着けた時間などなかった。急な出発準備と、長旅への不安、そしてヴィスの容体。
馬車の幌ごしに見える空は、まるで鈍色の布のようだった。
旅の始まりには、少し重すぎる天気。
私は手元の布をぎゅっと握りしめる。
横になっているヴィスは、痛みを我慢しているように時折息を詰めていた。
応急処置による結界が、彼の右腕をやわらかく包んでいる。
あれから数時間。再調整をせずとも保てるよう、ノアの助言を受けてフィリオが術式を改良してくれた。
あのやりとりを思い出すと、胸が熱くなる。
* * * * * *
聖都セラフィムへの出発が決まったのは、ヴィスの聖痕が悪化したのが決定打だった。
医療の心得がある私が同行するのは自然な流れだったけれど、問題は誰がついてくるかという点だった。
フィリオは結界管理と神殿調査のため残留、リュミナさんも同行を申し出てくれたが、幼い子どもがいるため断念となった。
結果、同行メンバーはレオニス、私、ヴィス、そして選び抜かれた革命軍の兵士三人と御者一人。計七名での旅になった。
スフレは長旅や聖都の規則を考慮して留守番。リゼちゃんやおばちゃんが責任を持って面倒を見ると申し出てくれた。
出発の朝、スフレが名残惜しそうに私の足元にすり寄ってきて、リゼちゃんがあわてて抱き上げていたのを思い出す。
(ああもう……心配ばっかり増えていく)
そんな中、最後の確認事項として必要だったのが、変装だった。
私たちはあくまで"とある男爵家の一行"として聖都を目指す旅人。
レオニスは男爵家の令息という体で、きちんと茶髪を整え、貴族風の上品な服を纏っていた。
仮面も外し、髪はすっきりとまとめられている。眼鏡の奥にのぞく瞳が真っ直ぐで、その姿はまるで絵本の中の王子様。
「……さすが、というか……うん。納得」
つい漏れた呟きに、レオニスは悪戯っぽく片目を閉じた。
「なんだよ、その顔。似合ってるって言いたいんだろ?」
からかうような口調のくせに、どこか照れ隠しの気配が混じっていた。
「……そうかも。レオニスって、やっぱり、なりきり上手だね。レオンさんのときもそうだったけど」
私がそう言うと、彼の目元がふっと和らいだ。けれどその笑みの奥には、どこか遠くを見ているような陰があった。
「……小さい頃、王城の片隅で、本ばっか読んでたんだ」
ぽつりと、レオニスが口を開いた。
「現実は、どうしようもなかったからさ。
ヴァレリアに目をつけられてからの三年間……あれは、生きてるだけで罰を受けてるみたいな日々だった。
誰も信じられなくて、どこにも逃げられなくて……」
彼は、視線を宙に泳がせる。
「でも、本の中にはいたんだ。強くて、自由で、優しくて……そんな誰かが。
だから俺も、目を閉じて、何度もその誰かになった。勇者、旅人、剣士、詩人、名もなき傭兵……」
小さな笑みが浮かぶ。
「想像の中でだけは、俺も誰かになれた。誰かでいられるって、思えた」
そこには、かつて孤独を噛み締めながら、それでも必死に希望を繋いでいた少年の面影があった。
「今でも……たまに考える。もしかしたら、そうやって誰かになりきることが、生き延びるための“癖”みたいに、染みついちまったのかもな」
その言葉には、どこか寂しさと、今の彼の強さの源が見えた気がした。
そして、私は少年役。
偽造された身分証は、伯爵令嬢か召使いの少年のどちらか。
迷うことなく、私は少年を選んだ。
――自信がなかったわけじゃない。
いや、むしろ、ありすぎた。
(さすがに、伯爵令嬢になりきるのは無理がある……)
髪を後ろでざっくりと結い、くすんだ地味な色味の服に袖を通す。
鏡に映った自分を見て、私は思わず苦笑した。
(……普通に少年だ)
モブ顔。凹凸のない、平坦な体つき。
十六歳くらいだけど、成長期の少年といっても通じそうな雰囲気。今ばかりは、この平凡さに感謝したくなる。
(マリエルだったら、伯爵令嬢一択なんだろうな……)
乙女ゲーム《薔薇と鏡の王国》のヒロイン・マリエル。
可憐な顔立ちと気品ある佇まいに加え、完璧すぎるスタイル。何を着ても映える、まさに主役の風格。
(あのナイスバディ、隠しきれるわけがないし)
(なに着てもオーラが出ちゃうし……どこから見ても立派な伯爵令嬢になりきれそう)
そんな彼女と比べてしまう自分が少しだけ情けなくて、それでも私は小さく胸を張った。
私はヒロインじゃない。ただの地味で平凡な、三十八歳のモブ女。
でも、今はそれでいい。この地味さが、誰かを守る力になるのなら。
* * * * * *
聖都セラフィムまでの道のりには、三つの関所が存在する。
どれも王都から聖域への主要街道に設けられたもので、通行許可証や身分証の提示が義務づけられている。
一つ目と二つ目の関所については、事前に協力者を通じて手回しが済んでいる。
問題は最後の一つ、聖域に近い第三関所だった。
ここは王妃派の影響力が強く、厳重な監視が敷かれているという。
関所対策も含めて、レオニスは用意周到だった。
偽造書類、馬車の手配、兵士たちの変装用の衣装——すべてが、寸分の狂いもなく整えられている。
(……いったい、これだけの準備に、どれだけお金がかかってるんだろう)
そんな現実的な疑問がふと頭をよぎる。
これまで、何となく革命という言葉に押されて深く考えてこなかったけれど……冷静になってみれば、
衣食住に加え、魔導結界や通信装置、武器の整備まで、かなりの資金が動いているはずだ。
思わず、隣に座るレオニスに声をかけていた。
「ねえ、レオニス。革命軍って……どうやって資金を集めてるの?」
すると彼は、ひらりと手を振る。
「俺が王都でやってた雑貨屋、覚えてるか? あそこ、実は活動資金の一部になっててな……今は、俺が動けないから、別の隊員に任せてるけど」
「えっ……?」
「顔なじみの商人がいてさ。支援してくれてるんだ。
あと……ちょっとばかし、裏からも流れてくる。貴族に卸してる商人が、水増し請求して、余剰分を俺たちに横流ししてるんだよ」
「それ……危なくない?」
「帳簿上は完璧に処理されてる。相当なやり手だよ、あの商人」
「すごい……」
「ま、そうでもしないとやっていけないからな」
それがレオニスなりの現実への対応なのだと、私は少しだけ尊敬のまなざしで彼を見た。
そうしているうちに、馬車は最初の関所へと近づいていく。
私たちの長い旅の、ほんの始まりだった。




