第79話 英雄たちの宴
「……美しくないわ」
崩れゆく陣形、逃げ惑う兵、叫び、血、そして混乱。
それを見下ろすマティアスは、しばらく沈黙ののち、残念そうに目を細めた。
「勝つなら、もっと優雅に。
敗れるなら、もっと劇的に。……これは、どちらでもない」
手にしていた黒い細剣を軽く振り払うと、くるりと踵を返す。
「――撤退を。これ以上続けるのは、美を損なうだけ」
その場の副将が慌てて声を上げる。
「し、しかしこのままでは……」
「いいの。今日の私はこれまで。
……またお会いしましょう、革命の御方たち。次は――そうね、薔薇の咲き誇る、静かな戦場で」
優雅に一礼し、闇に溶けるように去っていく。
その姿は、敗北すらも一つの演出として、美に取り込んでいた。
* * * * * *
戦場に、静けさが訪れた。
兵の誰かが、ふらふらと剣を落とし、崩れ落ちるように座り込む。
別の者は泣きながら、仲間にしがみつき、「やった……勝ったんだ……!」と叫んだ。
喜ぶ者、呆然とする者、うずくまって嗚咽を漏らす者――
それぞれの戦いが、それぞれの形で終わっていった。
ハルカもまた、スフレに寄り添われながら、空を仰いだ。
夕陽が、煙の向こうで滲んでいる。
(ようやく、終わったんだ)
(長くて……苦しくて、でも……)
(ここに、帰ってこれた)
* * * * * *
「……礼を言う」
マントを翻し、剣を収めたレオニス――仮面の梟が、ゆっくりと馬から降り、辺境伯とフィリオのもとへ歩み寄る。
その声は、静かで、真っすぐだった。
「あなたたちが来なければ、すべてが終わっていた。……本当に、ありがとう」
「…………」
フィリオは沈黙ののち、深く一礼した。
「遅れてしまい、申し訳ありません。
私の不始末です」
「いや……あなたが来たことで、救われた命がある」
レオニスが軽く目を伏せる。
隣で辺境伯がふっと笑った。
「まぁまぁ。口数が少ない二人が並ぶと、こっちまで息が詰まるわい。
久々に若者の覚悟ってやつ、見せてもらったよ」
そのとき、戦場の残響を裂くように、足音が迫る。
「ちょっと! 待ちなさい!」
現れたのはエレナだった。
血を拭った顔にまだ興奮の色を残し、勢いよく叫ぶ。
「一体どうなってるの!? 援軍は来ないって聞いてたのに、なんで!?
どこから、どうやって――」
フィリオが静かに視線を向けた。
「……お話しします。すべて」
その言葉に、場の空気が変わる。
「サイラスが……裏切り者でした」
「なっ――」
「私が気づいたときには遅く、背後から斬りかかられ……命を落としかけました。
しかし――」
彼の目が、少しだけ遠くを見る。
「ゼフィル殿が現れ、私を救ってくれました。
共に辺境伯のもとへ向かい、援軍を要請し、急ぎこちらへ戻ってきたのです」
沈黙。
その説明が信じられずにいる者もいれば、静かに頷く者もいた。
エレナは奥歯を噛み、拳を握った。
「……サイラス……あいつが」
「彼の罪は、今後きちんと明かされるべきです。
ですが今は、まず……生き延びたことを、喜びましょう」
そう言ったフィリオの声は、わずかに揺れていた。
それが怒りなのか、安堵なのか、誰にもわからない。
* * * * * *
そして、戦場には静けさが戻った。
だがその静けさは、ただの余韻ではなかった。
疲労と、喪失と、そして……新たな覚悟を含んだ、重みある静けさだった。
ハルカは思う。
(この世界は、まだ終わっていない)
(でも、今日だけは……)
(今日だけは、胸を張って、生きていていいと思える)
彼女のそばで、スフレが「きゅいん」と小さく鳴いた。
夕陽の光は、まだ温かく地を照らしていた。
* * * * * *
戦いの翌日。
朝焼けの中、隠れ里には早くも人の声と足音の喧騒が戻っていた。
焼け焦げた屋根。剥がれた石畳。崩れかけた柵。
けれどそこには、動き続ける人々の姿があった。
「この人、包帯ずれてきてる! 交換手伝って!」
「こっちの柱、まだ使える! 支え直したら、明日には屋根のせられる!」
兵士も非戦闘員も――誰もが動いていた。
瓦礫をどかす手。包帯を巻く手。誰かの背中を支える手。
眠気を残した顔で布を干す者、足を引きずりながらも荷運びをする者。
まだ夜明けの冷気が残るなか、里はもう、次へ向かって動いていた。
* * * * * *
夕暮れ。
「ちょっとした祝杯くらい、ええやろ?」
おばちゃんの一声で、小さな宴が始まった。
といっても、豪華なものではない。
干し肉と硬めのパン、果実をすり潰した薄い酒、塩気のある根菜のスープ。
それでも、十分だった。
空腹と安堵、そして何より“生き延びた”という実感が、何よりの調味料になっていた。
* * * * * *
焚き火の中央。
辺境伯が持ってきたという銀の杯が、そっと掲げられる。
「――静かにしろい、静かにしろい!」
ひときわ大きな声が飛び、場の空気がピリッと引き締まる。
仮面の梟――レオニスが、ゆっくりと立ち上がった。
「……よく、この戦いを生き抜いてくれた」
仮面越しでも伝わるその声に、全員の視線が自然と向かう。
「名もなき者たちが、名を刻んだ日だ。
誰が英雄でも、誰が主役でもない。
この場にいるすべての者が、今日を手繰り寄せた」
レオニスは杯を掲げたまま、続ける。
「恐怖に立ち向かった者に、
仲間の盾になった者に、
もう立てない誰かの代わりに剣を振った者に――」
「すべての命に、そして今日を生きる我らに――乾杯」
「「乾杯ッ!!!」」
杯がぶつかる音、喉を鳴らす音、そして湧き上がる歓声。
辺境伯が隣で「いいこと言うじゃないか、あの若造」と小さく呟きながら、自分の杯を高く掲げていた。
「次代ってのは、こうやって繋いでいくもんなんじゃのう」
その言葉に、誰ともなく頷く者たちがいた。
* * * * * *
「へぇ〜〜〜っくしょん!! ちょっと誰か、酒薄くした!? ウチの分だけ!?」
思いっきりくしゃみをしたのは、おばちゃん。手にした木の杯をブンブン振っている。
「いやいや、ちょっと待ってや! この色、水より薄いやん!? アンタらのは濃いのに〜〜!」
わあわあ文句を言っていたおばちゃんの前に、ふと静かに現れた白い影。
「もしよければ……こちらを」
そう言って、ゼフィルが丁寧な所作で、おばちゃんの杯に果実酒を注ぎ入れる。
ふわっと香るやわらかな匂い。杯の中に紅い液体が満ちていく。
「……あらあらあらあら!? ちょ、ちょっと待って!? あんた、それ、あんた――!」
おばちゃん、声にならない声をあげる。
「はああぁぁぁぁ……ゼフィル様あぁ……っ!
夕陽より美しい白衣の天使が、酒を! ウチに! ついでくれはった!!」
手を合わせ、天を仰ぐ。
「これ以上なにを望めっちゅうの……もう、ウチ、ここで成仏してええ?」
周囲からは「尊いなおばちゃん……」「飲め飲め」とツッコミが飛ぶ。
しかし――
「……いや、アカン、アカン!! あんた、どこ行っとったんよ!!
夜中に一言もなしでいなくなって、も〜〜〜心配してぇ……」
怒鳴りつけるその表情は涙目。
「……けど、帰ってきてくれて、ほんま、ありがとね」
ゼフィルが微笑みだけを返すと、
「はーーーー!!やっぱり天使や!!!(2周目)」
おばちゃん、ふたたび尊死。
その傍らでエレナが怒鳴るように言う。
「カイネル! 酒のピッチ速すぎんのよ!
……ヴィスも酔い回るの早っ!」
「……あ? 酔ってねーよ。喋ってる鳥は見えてねーしな……」
顔を赤くしたヴィスが反論するが、声が若干ふらついていた。
「見えてたらもう手遅れなんだが……」
すかさずカイネルが、冷静かつ淡々と返す。
「うるせえよ……嬢ちゃん、あいつ何杯目だ? もはや液体飲んでねえだろ」
やや呆れ顔でヴィスがぼやくと、
「知らない……っていうか、スープにまでお酒入ってるんじゃない?」
ハルカが苦笑まじりに応じる。
「……私が入れたんじゃないわよ!」
最後に、エレナが堂々とした声で突っぱねた。
「……ったく、誰が入れたのよほんとに」
ぼやきながら、空いた杯を手に立ち上がる。
「あーもう、酔ってる場合じゃないっての……」
と、そのまま焚き火の輪から離れていくエレナ。
そして、今度はスッと視線を横に流す。
その先には――フィリオの姿。
* * * * * *
焚き火の別の端。
フィリオの元へ、エレナがむすっとした顔でやってくる。
「……で、あんた。何なのよ、あの件。死にかけてたって聞いたんだけど」
「ええ、あのときは確かに……死にかけていました」
さらりと答えるフィリオに、エレナが顔をしかめる。
「アンタねぇ……もっと、なんか、こう……自分の命、大事にしなさいよ!」
「……ご忠告、痛み入ります」
エレナがさらに何か言おうとしたところ、フィリオがふっと小さく微笑んだ。
「……でも、貴女がここで怒ってくれることが、私には……ありがたい」
「……っ、そ、そういう言い方、ずるい!」
耳まで赤くなりながら、エレナは顔を背けた。
その様子を見て、近くにいた辺境伯が小さく笑い、何も言わずにスープをすすっていた。
* * * * * *
夜が深まるにつれ、酒の匂いと笑い声が焚き火の炎と共に宙へと上がっていく。
今宵だけは、誰もが戦士ではなかった。
老いた者も、傷を負った者も、名前も知らぬ隣人も――
肩を並べ、同じ火を囲み、ただ一夜の命を祝っていた。
(……この時間が、いつかまた、戻ってきますように)
ハルカはそっと願うように、空を見上げた。
焚き火の灯りが、まだ消えない希望のように、赤く揺れていた。




