第78話 希望は、地を駆けて
絶望が戦場を満たしていた。
砕けた結界。燃えかけの小屋。悲鳴、呻き声、呼吸すら苦しげな空気。
剣を支える腕すら、もはや重く。希望の火は、風前の灯だった。
――そのときだった。
「……っ?」
最初に気づいたのは、ヴィスだった。
「……地鳴り、か?」
低く、鈍く、地を這うような音。
「ドウ……ドウ……」と、地面が震えるたび、空気が脈打つ。
音の主を探すように、誰もが顔を上げた。
だが――視界は、夕暮れに沈みかけた金色の靄に包まれている。
風が、吹く。
靄が一筋、裂けた。
その裂け目の奥、夕陽を背にして現れたのは――無数の蹄。
列を成す騎影。その先頭に立つ、ひときわ白く輝く馬。
その背にいたのは――
「……ゼフィル……?」
声にならない誰かの呟きとともに、その姿がはっきりと浮かび上がった。
月光を溶かしたようなプラチナブロンドの髪が、風に舞っていた。
白の軍衣が、陽光を反射し、天から降りた使いのように見える。
その隣には、黒馬にまたがる青年の姿。
一部の鎧を砕かれ、腕を吊ったままの姿で、しかし凛として前を見据えている――
「フィリオ……!」
その背後には、剣と旗を掲げた百騎の軍勢。
翻る蒼の鷲の紋章が、斜陽を裂く風を受けてたなびいた。
そして、馬を進めたゼフィルが、こちらに視線を向け――静かに、微笑む。
その視線は何も語らず、ただ、全てを包み込むように穏やかだった。
隣のフィリオが一歩前へと馬を出し、澄んだ声で言い放つ。
「……遅れて、申し訳ありません。
けれど――ここからが本番です」
その一言に、戦場の空気がわずかに揺れた。
そして、その横からもう一騎、堂々と馬を進めた男が声を張り上げる。
「我ら――辺境の蒼鷲、今ここに参陣す!!」
重厚な声が、夕焼け空を裂いた。
その背後で、蒼の鷲章を掲げた百騎の軍が一斉に槍を天に突き上げる。
「「ウオオオオオオオ!!」」
どよめきと共に、革命軍の陣営が震えた。
疲弊し、うつむいていた兵士たちが顔を上げる。
「援軍だ……!」
「辺境伯が来てくれたぞ!!」
「……まだ戦える、まだ、終わってない!!」
そして、最前線。
レオニスが剣を握り直し、泥の中で仰いだ空に、かすかに笑みを浮かべた。
「これだから……奇跡ってのは、面白い」
泥にまみれた仮面の下で、驚愕と安堵がないまぜになった声を洩らす。
そして、後方からそれを見たハルカが、顔を伏せかけ、震えながらも言葉を絞り出す。
「ゼフィル……フィリオさん……」
涙が、にじんだ。
それは安堵か、感動か、それとも……命の続く希望に触れたからか。
風が吹く。光が揺れる。
英雄たちは、戦場へと舞い降りた。
* * * * * *
ハルカが涙声で英雄の名を呼んだ、そのすぐ隣で。
「……お、おおおぉぉぉ~~~~ッ!!!」
突如として奇声が上がった。オバサンヌ=デシマルだった。
「白馬っ!!白衣っ!!天使の微笑っ!!
なんなんあれ!? あんたら、なんかの舞台!?絵画の世界から出てきたん!?」
顔を真っ赤にしながら、手を合わせ、空に拝み始める。
「ゼフィル様……天使様ァ~~~~~!!!」
尊すぎて崩れ落ちそうになるオバサンヌ。
だが一拍置いて我に返り、突如声を荒げた。
「ていうか、あんた!どこ行ってたんよ!!
夜中にこっそり抜け出して、ひとこともなし!? こちとら心配で吐きそうやったんやで!!この子なんて血ぃ流して倒れ――」
ゼフィルが一瞬こちらに気づき、軽く微笑みかける。
「……ッああああああああッッッッ!!!」
正気が持たなかった。オバサンヌ、尊死・二周目に突入。
「はー……アカン……無理……この子、命に関わるレベルの尊さ……」
「もうウチ、成仏する準備できとるわ……」
「……情緒がバグってる……」
思わず呟いた私自身、視線は釘付けだった。
(でも……うん、わかる。
あんなの見せられたら、誰でも尊死するわ……)
その頃、前線では激しい衝突が始まっていた。
王妃軍がなだれ込む戦場へ、ゼフィルが静かに馬を駆けさせる。
軍勢の後ろを守るように配置された彼は、あくまで監察官として、剣を抜かず騎乗のまま周囲を警戒する。
……はずだった。
「そこだァッ!!」
革命軍の若手兵が一人、背後から迫る敵に気づく。
だが間に合わない。
その瞬間――
「っ……!」
白馬がぴたりと止まり、ゼフィルが一歩、地を蹴った。
風のように滑り出した彼は、まるで舞うように身を翻し、敵兵の刃を受け流すと――
するり、と細剣を抜き、たった一手。
鋼のきらめきが、水平に弧を描く。
敵兵の腕がしびれ、武器が地面に転がった。命は取らず、ただ正確に制圧する動き。
「……ぁ……」
見惚れるように立ち尽くした味方兵に、ゼフィルはひとことも言わず、再び馬上へと戻った。
「えっ、ちょ……今の、何……?」
遠巻きに見ていたエレナが思わず呟く。
(あんな剣筋、私、見たことない……)
手加減の中に垣間見える、研ぎ澄まされた動き――
それは、“戦うために鍛えられた剣”ではない。
“仕留めるために磨かれた剣”だった。
「……美しい」
最前線の戦況を見下ろすマティアスの唇から、ぽつりと漏れる。
その目には、どこか陶酔した色さえ浮かんでいた。
「激情に溺れず、憎悪にも染まらない。
それでいて――舞うように、美しい。
……なんて、罪深い子」
けれどその“罪”を、マティアスは嫌いではない。
むしろ、魅入られていた。
ゼフィルの美しき剣さばきが、戦場にさざ波のような衝撃を走らせた。
「……今の、見たか」
ヴィスが矢をつがえながら、呆けたように呟く。
「どんだけ磨いたら、あんな刃の流れになるんだよ……」
その隣で、血に濡れながらも立ち上がったカイネルが顔を上げる。
「技術でも力でもない。あれは、“目的”が違う剣だ」
視線の先、ゼフィルは再び馬に飛び乗り、何事もなかったかのように風の中に溶けていった。
「……俺たちも、貫くしかねぇな。自分のやるべきことを」
ヴィスが鼻を鳴らし、再び矢を番える。
「だったらやるしかないだろ。
あんなの見せられて、“お手本にできません”じゃカッコつかねぇ」
鋭く放たれた矢が、前線の王妃兵を射抜く。
カイネルが叫ぶ。
「全員聞け!! 援軍は来た! 指揮は俺とヴィスが取る!」
「反転攻勢だ! ここで奴らを押し返す!!」
その号令と同時に、戦場の奥――
「突撃――!!」
蒼の鷲章を掲げた辺境伯軍の百騎が、轟音と共に駆け込んできた。
突き上げられた槍の列が夕陽を受けて輝き、王妃軍の側面を粉砕する。
「うわっ……!?」「背後から!? いつの間に――!」
敵軍に混乱が走る。
「隊列を立て直せ! 後退を――くそっ、命令が通らない!」
革命軍が一斉に動き出す。
「いけぇぇぇぇ!!!」
「ここで終わってたまるかあああ!!」
ハルカも震える手で回復薬を配りながら、叫んでいた。
「お願い……! 負けないで……!」
* * * * * *
だが――
王妃軍は、まだ二百。
対する革命軍は、援軍を合わせても百五十。数の上では依然として劣勢だった。
まだ、押し返しきれない。
まだ、勝ったとは言えない。
その時だった。
「――ッ見ろ、上だ!」
誰かが叫ぶ。
その指差す先。
夕陽を背に、崩れかけた瓦礫の上に、一人の男が立っていた。
仮面をつけた青年。
マントが風に舞い、剣を下ろし、戦場を見下ろすその姿は――まさに“梟”。
仮面の梟が、立った。
その瞬間、兵たちの足が止まる。
敵味方を問わず、目が彼に吸い寄せられる。
そして、彼は語り出す。
「聞け、同志たちよ!!」
深く、低く、しかし胸を貫く声。
「この戦を始めたのは、王妃の軍だ!
だが――ここに“希望”が来た。
ならば我らは、ここで“始まり”を叫ぶ者となろう!!」
仮面の奥、その瞳がひとりひとりの魂に火を灯していく。
「恐れるな! 怯えるな!
お前たちには、背中を預ける仲間がいる!
お前たちには、守るべき明日がある!!」
その声に、兵たちの目が変わっていく。
くすんでいた瞳に、光が戻る。
「我は梟。夜を翔け、民を導く声なき王!!
この命尽きるまで、共に抗おう!!」
「「おおおおおおおっ!!!」」
雄叫びが上がった。
それは恐怖ではない。怒りでもない。
確かに、“生きたい”と叫ぶ者たちの声だった。
ヴィスが苦笑混じりに呟く。
「やられたな……あいつ、ホンモノだよ」
カイネルも剣を抜きながら笑う。
「これが……仮面の梟、か」
その後ろで、ハルカが目頭を拭いながら呟いた。
(あなたは、ただの鏡なんかじゃない)
(この世界を変えるために生まれた、“王の器”だ)
* * * * * *
――そして、戦場は完全に反転する。
革命軍は生きるための戦いを、再び始めたのだった。




