第76話 逆襲の準備
熱い。
身体の奥が、灼けるように熱い。
どこまでも深い暗闇の底から這い上がるように、ハルカは、意識を引き戻した。
「っ、……かはっ……!」
喉の奥から、熱とともに血がこみ上げ、地に崩れ落ちた。
(……私、死んだよね?)
意識が遠のく最後の瞬間を、まだはっきり覚えている。
(じゃあ……これは?)
——おかしい。
推しの死が回帰の条件だと思ってた。
それなのに、今、回帰しているのは——
(わたしが、死んだから?)
確信はない。
でも、心のどこかがざわついていた。
(……もしかしたら、あの後でレオニスが死んだのかもしれない)
(わからない。今は、何も)
(でも、戻った……また……回帰した……)
目の前の光景が、まだ安堵の色を残しているのを見て、確信する。
——あの絶望の未来は、まだ訪れていない。
だが、代償は確実に積み重なっていた。
激しく脈打つ頭。指先の震え。視界は二重に揺れて、思考がまとまらない。
(……こんなに、辛かったっけ……)
毎回、痛みは増している。
「っ……スフレ……?」
足元にすり寄ってきた白い毛玉が、心配そうにハルカの頬を舐めた。
「大丈夫……まだ、終わってないから」
震える手でその頭を撫でながら、ハルカは必死に思考を立て直す。
* * * * * *
今はまだ、王妃軍の先遣部隊が撃退された直後。
罠と迎撃が成功し、見張り台の若い兵士がほっと息を吐いた直後の、あのタイミング。
おばちゃんやおじいちゃん、カイネルもヴィスも、エレナも、無事だ。
(……あの未来までは、あと数時間)
サイラスが傷を負って帰還し、「フィリオが裏切った」「援軍は来ない」と語ったあのとき、皆の心は崩された。
疑念と混乱が広がり、革命軍は士気を失っていった。
その後、毒蛾の襲来。
結界も罠も意味をなさず、視界も呼吸も奪われ、非戦闘員が次々と倒れた。
エレナ、ヴィス、カイネル――誰もが、守るために命を落とした。
(あの地獄だけは、繰り返さない……!)
目の奥が焼けるように熱い。
喉がひりつき、血の味が込み上げてくる。
(……でも、まだ間に合う)
そう、まだ何も失っていない。
ならば、自分にできる最善を、今すぐ始めるしかない。
(回帰前の“地獄”は……)
すべての始まりは、「援軍は来ない」という報せだった。
血まみれで現れたサイラス。信頼していたはずの仲間の言葉。
——「フィリオが裏切った。俺たちは見捨てられたんだよ……」
あの一言で、革命軍は音を立てて崩れ始めた。
(あの時、サイラスさんの……血はまだ乾いてなかった。フィリオさんに刺されたって言ってたけど、いつ?どこで? )
何かがおかしかった。けれど、皆はそれを疑う余裕もなかった。恐怖と絶望に飲まれたから。
(……そこはもう、今さら私がどうこうできない。でも、次は……)
ハルカの脳裏に、羽音が蘇る。
視界を埋め尽くす毒蛾。
おじいちゃん、おばちゃん、……次々に崩れていった人々の姿。
そして——エレナ、ヴィス、カイネル。
守るべき仲間たちが、あっけなく命を落としていく光景。
(あれを……絶対に止めなきゃ)
そう思った瞬間、ひとつの記憶がフラッシュバックする。
(あのとき……そういえば、あの変な派手な敵将とか、毒蛾の中でも普通に歩いてた兵がいた)
確かに、毒蛾に影響を受けていない様子だった。
(あの人たち……何か、対策をしてた? それとも……毒蛾を操ってた?)
ふと、視界の端に見える白い尻尾。
(それに、スフレも……無傷だった。あのとき、毒蛾の中でも、あの子だけは……)
徐々に、思考がまとまり始める。
(毒蛾の攻撃には、対策がある。でなきゃ、あの将も兵も生きてなかった)
そしてそれは、今——まだ“結界突破”前のこのタイミングなら、準備できるかもしれない。
(……聞いてみよう。毒蛾のこと。何か知ってるかもしれない。カイネルさんなら——)
決意とともに、ハルカはスフレを抱き上げた。
再び訪れる“地獄”を避けるために。
* * * * * *
昼の霧が、うっすらと里の空気を包んでいた。
食堂の裏手、地図と陣形図を並べる即席の作戦机。その前に立つカイネルに、ハルカは静かに声をかけた。
「……少し、話せますか」
カイネルは顔を上げると、軽く顎で椅子を示す。
「いいだろう。急ぎの相談か?」
「はい。……敵将について、何か情報は入ってますか?」
唐突な質問に、カイネルの眉がわずかに動く。
「……お前にしては珍しい切り出し方だな。なぜそれを?」
「気になるんです。……すごく、嫌な予感がして」
ハルカはそう言って、唇を噛んだ。
カイネルは少しだけ間を置き、地図に視線を落としながら口を開いた。
「“毒薔薇将軍”――マティアス=ヴァロワ。王妃軍でも異質な存在だ」
その名を聞いた瞬間、ハルカの胸に冷たい痛みが走る。
「知将ではあるが、それ以上に、奇術と幻惑の魔導に長けた戦術家だ。毒を操るらしい、という話は以前からあったが……詳しい情報は少ない」
「毒……やっぱり……」
ハルカは小さくうなずき、考え込む。
あのとき、視界を覆った毒蛾の群れ。皮膚に触れた者が即座に倒れていった。あの“毒”の正体が、彼の手によるものだとしたら——。
「もし……彼の魔導が本格的に使われたら、私たちは……」
「突破は厳しいだろうな。結界や罠が通用しなければ、持久もできない」
カイネルの言葉が現実的すぎて、心が冷えていく。
それでも。
「……まだ、何か手があるはずなんです」
そう言ったハルカに、カイネルはわずかに目を細めた。
「君は、時折、奇妙に“先を見ている”ようなことを言うな」
「えっ……」
「いや、いい。今は詮索しない。気になることがあるなら、もう少し突き詰めておくといい」
「はい……ありがとうございます」
深く頭を下げると、ハルカはその場を離れた。
* * * * * *
ハルカは、研究帳を片手に調理場へと歩いていた。
カイネルから得た情報は貴重だったが、決定打とはならなかった。
毒蛾の行動原理も、マティアスという敵将の詳細も、霧に包まれたように曖昧で、つかみきれない。
(何か……何か手がかりが欲しい)
カイネルから得た情報を胸に、ハルカは迷いながらも里の中を歩いていた。
倉庫、見張り台、訓練場――。
どこかに、あの絶望を回避する糸口があるのではないかと、目につく場所を次々と巡っていく。
けれど、資料も、罠も、結界も、何かが足りない。
頭の中に渦巻く焦燥感と、喉元にこびりついた“あの記憶”が、ハルカの胸をざわつかせていた。
(……あの時、誰も彼もが倒れていったのに、スフレだけは……)
白い毛並みを揺らしながら先を歩くスフレを見て、ふと、ある映像がフラッシュバックする。
——香りと煙に包まれた、あの瞬間。
スフレは、確かに瓶を運んでいた。そして――。
(もしかして……)
考えを巡らせるうちに、足は自然と、あの場所へ向かっていた。
調理場。
かつて自分にできることを必死に考え、香辛料や油、酒をかき集めて“閃光瓶”を作った場所。
あの時はただ、敵の感覚を奪って、少しでも時間を稼ぐために。
無我夢中だった――けれど、何か見落としていたのかもしれない。
古い木製棚の脇を通った、その時だった。
スフレが何かの気配を感じたように、くんくんと鼻を鳴らして調理場の奥へ駆けていく。
「あっ、スフレ、待って——!」
その小さな体が勢いよく棚にぶつかり、積まれていた瓶のひとつがハルカの足元に転がった。
がしゃん——。
中の液体がとろりと飛び出し、足元にいたスフレの前足を濡らす。
「うそ、ちょっと……! スフレ、大丈夫!?」
くしゃみをひとつしたスフレは、情けない顔で前足をぺろぺろと舐めていた。
「拭かなきゃ……ああもう、洗わないと……」
慌てて布を手に取り、スフレに駆け寄る。
そのとき——ふいに鼻をつく、独特の香りがハルカの記憶を揺さぶった。
(……この匂い、やっぱり)
香辛料と酒、油の混ざり合った強い匂い。
それは、かつて自分が“閃光瓶”として作り出し、敵兵の感覚を奪うために投げた瓶のものだ。
(……あのとき、スフレは……)
脳裏に、絶望の未来が蘇る。
毒蛾の群れ。叫び声。崩れ落ちる仲間たち。そして——唯一、無傷だったスフレの姿。
(この匂いが、毒蛾を遠ざけていた……?)
確信にも似た直感が、ハルカの背筋を凍らせた。
偶然では説明できない一致。
もしそれが真実なら——それは、地獄の未来を変える“鍵”なのかもしれない。




