第75話 絶望の檻
毒の霧が、地を這い、空を満たしていた。
その中を、巨大な毒蛾たちがゆっくりと、まるで舞を踊るかのように漂っている。
皮膚に触れるだけで痺れを引き起こし、呼吸に混じれば、内臓から蝕んでいく。
ハルカは咄嗟に口元を覆っていた。
だが、喉の奥にひっかかるような甘い香りが、もう侵入している気がする。
視界も霞みはじめ、どこか遠くで誰かが倒れる音が聞こえた。
足元がふらつく。
「——っ、来る!」
そのときだった。
目前に、一匹の蛾が降り立った。
翅を広げ、まさにハルカに飛びかかろうとしたその瞬間。
「下がってなッ!!」
声と同時に、ひとつの影が飛び出す。エレナだった。
彼女は一瞬の判断でハルカを背中に庇い、そのまま蛾に覆い被さるようにして押し倒す。
「な……エレナ!?」
「アンタは……下がってな……!」
エレナの声は震えていた。だが、その背中は決して揺らがなかった。
蛾の脚が、頬を掠め、翅が彼女の肩に触れる。
「私が……まだ、守るって決めたから……」
薄く笑った彼女の唇が、紫に染まっていく。
「……あーあ、なんでこんなとこでさ……。もっと、かっこよく死ぬはずだったのに」
地面に膝をつく。震える手で、最後までハルカを守ろうとしていた。
「エレナ……っ!」
震える声を絞り出すハルカの前で、エレナは静かに、崩れるように倒れた。
その目に残っていたのは、怒りでも恐れでもなく、どこか微笑に似た表情だった。
* * * * * *
「エレナの死を、無駄にするなぁぁぁッ!」
怒声が響く。カイネルだった。
彼は尚も指揮を取ろうと、動揺する兵士たちに叫びを飛ばしていた。
「陣形を保て! 霧の濃いところは避けろ、下がれ! ——ぐっ……!」
突如、足元が揺らぐ。
「な……ッ!?」
地面が捻じれたように見えたかと思えば、視界が一気に歪む。
幻惑。
毒蛾の鱗粉が引き起こした錯覚に、カイネルは足を滑らせ、体勢を崩した。
その隙を狙って、霧の中から伸びた黒い影。
「っ……貴様……!」
目を見開く暇もなく、毒刃が背中をかすめた。
致命傷には至らなかったものの、深く抉られた傷口から血が滲む。
「……チッ、やってくれるな……」
膝をつきながらも、カイネルはなおも視線を上げた。
「まだ……命令を、伝えきってない……んだ……!」
その声はかすれ、息も荒い。
それでも、革命軍の仲間たちは、その姿にわずかに奮い立った。
だが、覆い尽くす毒の霧の中では、どれほどの声も、力も――あまりに無力だった。
狂気を帯びた笑い声が響く。
「ふふ……ふふふ……」
赤い薔薇を散りばめたような艶やかな鎧、長く波打つローズピンクの髪、うっとりとするような微笑み。
マティアス=ベルフェゴール。
毒薔薇将軍の異名を持つ、王妃軍の恐るべき指揮官。
「汚らわしい者たちの――粛清の時間ですよ」
その声は、甘く優雅で、そして……何よりも、冷たい。
それは、絶望に彩られた“美”の到来だった。
毒蛾の群れが舞い踊るように空を覆い、霧の中を旋回する。
守りの要を失った隠れ里に、静かに、だが確実に終わりが迫っていた。
毒の鱗粉に晒され、非戦闘員たちが次々と倒れていく。
おばちゃんが咳き込みながら倒れ、支えようとしたおじいちゃんも膝をついた。
それでも、革命軍は戦い続けた。
里の外縁では、王妃軍の重装部隊が静かに撤退を始めていた。
「毒蛾か……あれは、あの方の技。巻き込まれる前に離脱しろ」
訓練された兵士たちは一糸乱れず、毒の気配を避けるようにして霧の外へと消えていった。
その頃——前線では、カイネルが血を滴らせながらも、ひとり立ち尽くしていた。
その身体には無数の毒刃が刺さり、腕も足もまともに動かない。
それでも彼は、崩れることを拒んだように、最後まで仁王立ちしていた。
(ここで散るわけにはいかん……我らの矜持も、誓いも、玉座まで届けると決めたッ!)
その背は、誰よりも大きく、誇り高かった。
やがて視界に毒蛾の影が広がっていく。
(……悪いな、レオニス。先に行く)
カイネルは、敵を睨みつけたまま——息を引き取った。
ヴィスもまた、別の戦線で抗っていた。
負傷者の盾となり、毒蛾の群れに突撃する。
「いけっ、今のうちに!」
仲間を逃すために、自らを犠牲に。
毒の翅に裂かれ、腹部を刃で穿たれても、彼は笑っていた。
「……まだ、終わっちゃいねぇ。俺たちの革命は……!」
次の瞬間、毒に焼かれるようにその場へ沈んだ。
そして、ついに革命軍の戦線は崩れ落ちる。
「撤退だ」
仮面の梟の低い声が、霧の中に落ちる。
その瞳には、怒りと悔しさ、そして燃え尽きぬ炎が揺れていた。
「ハルカを連れて、隠し通路から里の外へ――!」
その直後、霧の奥から響く無機質な声。
「革命軍リーダー、仮面の梟と異常個体を確保せよ——」
灰色の仮面をつけた抑制班が、霧の中から音もなく現れる。
その中に、ただひとり異様な気配を纏う男がいた。
ビル=カランデル。
冷ややかな瞳と、血すら通わぬような白い肌。王妃直属の副官。
「この戦場で生け捕りなど……非効率です。殺してから運んでも、遺体は残る」
ビルは淡々と、クロスボウの照準を定めた。
向けられた先は、仮面の梟。
「仮面の梟。お前には最も惨めな死をくれてやる。――さらし首としてな」
矢が放たれる刹那、ハルカがレオニスを突き飛ばし、身を投げ出す。
鋭い音とともに、彼女の胸に矢が突き刺さった。
「……なぜ、君が……!」
レオニスが目を見開く。
ハルカは微かに微笑んだ。
「あなたが……生きて……」
膝から崩れ落ち、地に伏す彼女のもとへ、小さな白い影が駆け寄ってくる。
「……スフレ……」
ハルカがかすかに名を呼ぶと、スフレは彼女の頬にすり寄った。
ぺろり、ぺろりと傷口を舐め、服をちょいちょいと引っ張る。
まるで「起きて」と懸命に訴えるように。
けれど、ハルカの目からは、ゆっくりと光が失われていった。
「ごめんね……守って……あげられなかった……」
その言葉とともに、彼女の意識が遠のいていく——。
「ハルカ……! いやだ、行くな!」
レオニスの叫びも虚しく、彼女の意識は崩れていく。
そして次の瞬間。
魂の共鳴。
強い想いが、死を越えて、時を引き裂く。
ハルカの体から光があふれ出す。
地が、空が、時間が、ひっくり返る。
「——ッあああああああああっ!!」
これまでのどの回帰よりも激しい痛み。骨が砕ける音、内臓が焼けるような感覚。
喉から血が溢れ、声が出なくなる。
それでも彼女は、願った。
“どうか……今度こそ、あなたを——”
そして。
光の向こうに、新たな「始まり」が訪れる。




