第74話 終わりの兆し
隠れ里の南、谷へと続く急斜面。
そこでは、革命軍の前線部隊が王妃軍の重装兵と対峙していた。
鎧の継ぎ目すら見えない厚装甲の兵たちが、無言で迫ってくる。
その足音は、地を踏み鳴らすように重く、確実に近づいていた。
「下がるな! 地形を活かせ、上から潰す!」
仮面の梟の声が飛ぶ。仮面越しでも、その眼差しは鋭く、仲間たちを導いていた。
「正面突破は無理だ。奴らの動きを読み、斜面に誘導しろ」
その横で、ヴィスが冷静に布陣を整える。
彼の指示に従って、青年兵たちは小隊ごとに動き、狭い通路や崖を利用して反撃を仕掛ける。
罠と機転、そして地の利。
それらを総動員しての戦いにも関わらず、戦況は決して楽ではなかった。
「……ジリジリ削られる。決め手がないまま、持久戦にされるぞ」
ヴィスが低く呟き、汗をぬぐう。
仮面の梟は短く頷き、視線を前へ戻した。
「それでも、ここを突破されたら終わりだ。──絶対に通すな」
彼らの奮闘の一方で、隠れ里では別の“破滅の種”が芽吹き始めようとしていた──。
* * * * * *
霧が漂う昼下がり。
激戦の余韻がまだ残る中、罠と奇襲によって斥候部隊は撃退され、隠れ里の中は一時的な静けさを取り戻していた。
張り詰めていた空気が緩み、若い兵士たちは安堵の息をつき、非戦闘員たちにも笑みが戻りはじめる。
「……もう少しだけ、頑張れるかも」
そう呟くハルカは、隣で尻尾を振るスフレに微笑みを向けた。
そのささやかな平穏を、唐突に破ったのは――
「斥候帰還! 南方斜面より、一名、負傷者あり!」
叫ぶ声とともに、一人の男が霧の向こうからよろめき現れた。
「……誰だ……っ!」
見張りの兵が身構える。
「……サイラス!? サイラスだ!」
血まみれの姿。肩には深い裂傷。膝を引きずりながら、それでもサイラスは笑っていた。
「……終わったよ」
誰かが声を上げる前に、彼の口が先に動いた。
「援軍は来ない。辺境伯は動かなかった」
ざわ、と空気が揺れる。
「それだけじゃない……フィリオが、俺を斬った。迷いもなく。まるで、最初からそれが“使命”だったみたいに」
その場にいた者たちの表情が、一斉に強張る。
「な……に、言って……」
「そうさ。俺たちは騙されてた。あいつは最初から、王妃のスパイだったんだよ」
静まり返る中で、焚き火が小さくはぜた。
「革命軍は見捨てられた。切り捨てられたんだ……」
その言葉は、呪いのように、里の空気を染めた。
「……やっぱりそうだったのかよ……!!」
叫んだのは、エレナだった。
こみ上げる怒りと、どこかにあった小さな信頼が裏切られた痛みに、声が震える。
「くそ、やっぱりあいつは、信用なんてできるわけなかった……!」
周囲が言葉を失う中、ハルカは唇をきゅっと噛み締め、視線を伏せた。
(違う。そんなはずない。あの夜、あの目を、私は……)
だが、言葉にはできない。
カイネルが歩み出て、静かに制止の手を挙げた。
「……落ち着け。サイラス、お前の話を詳しく聞かせろ」
「無駄だよ……もう遅い。俺たちは、もう終わりなんだ」
サイラスの声は、ひどく静かで、それゆえに深く、胸の奥へ突き刺さるようだった。
その場に広がるのは、ただ一つ――
絶望。
革命軍の中に、疑念が走る。
「本当に……フィリオが裏切ったのか……?」
「じゃあ、援軍は……?」
「俺たち、見捨てられた……?」
誰もが答えを探そうとするが、答えなど返ってこない。
霧が、ゆっくりと揺れながら、里を覆い続けていた。
「援軍は……来ない……」
彼の口から出た言葉が、革命軍に与えた衝撃は計り知れない。
「フィリオが……裏切ったんだ。あいつ、王妃と通じてた。……俺は……信じてたのに……!」
言葉を絞り出すようにして、サイラスは膝から崩れ落ちた。肩で息をしながら、血に染まった服のまま地面に手をつく。
若き兵の一人が駆け寄る。
「誰か! 手当を!」
だが、サイラスはその手を拒むように振り払った。
「……いい。オレはもう、持たない……」
「でも――」
「これ以上、こんな場所にいたくないんだよ……!」
叫ぶような声が響いた。
「信じてた仲間が裏切って、援軍は来なくて、敵は迫ってる……! もう、うんざりだ!」
サイラスはふらつきながら立ち上がる。
「俺はもう、知らねえ……好きにしろよ……!」
誰かが名を呼んだ。だが、彼は振り返らず、足早に霧の中へと消えていった。
止める暇すらなかった。
彼が去った後には、まだ温かい血の痕と、立ち込める疑念と――冷えきった沈黙だけが残された。
* * * * * *
仮面の梟とヴィスは、里の外で重装部隊との激戦を続けていた。すでに数名の仲間が倒れ、息も絶え絶えの兵士たちが交代で戦っている。
そこへ駆け込んでくる斥候の一人。
「っ、報告!! 援軍は来ません!! 辺境伯は……動かず! ……フィリオ殿が、裏切ったと……!」
「な……」
ヴィスが愕然と目を見開く。戦いの手を緩めそうになる彼を背に、仮面の梟が叫んだ。
「落ち着け!! 今は目の前の敵に集中しろ!! ――俺たちまで崩れたら、終わるぞ!」
その言葉に、ぎり、と歯を食いしばるヴィス。だがその背後には、すでに異様な霧が迫っていた。
死の気配が、戦場を包み込もうとしていた――。
* * * * * *
「……援軍は来ない。辺境伯は動かず……フィリオが、裏切った……」
血に濡れたサイラスの報告が、静かに、しかし確実に里の空気を変えた。
その場にいた者たちは、しばし声も出せず、凍りついたように沈黙した。
「そんな……うそ……」
誰かがぽつりと呟く。するとその一言が、堰を切ったように波紋を広げた。
「嘘だ……援軍が来ないなんて……!」
「まさか……私たち、見捨てられたの?」
動揺と混乱が、見る見るうちに広がっていく。老若男女を問わず、顔に刻まれるのは不安、そして――絶望。
「落ち着けッ!!」
鋭い声が響いた。
カイネルだった。彼はぐるりと全体を見渡すと、迷いなく叫ぶ。
「頭を冷やせ! まだすべてが終わったわけじゃない! ここで崩れたら、本当に終わるぞ!!」
その言葉に、一瞬だけ静寂が戻る。
だが――その隙を縫うように、空気が“変わった”。
風が止まり、湿った空気がどこかねっとりと肌に絡みつく。
「……なんか、変な匂いがしない?」
ハルカの隣にいた女性が、不安げに鼻を鳴らす。
すぐにそれは、皆の鼻を突いた。甘ったるく、鼻の奥にまとわりつく、どこか狂気じみた香り。
そして次の瞬間――
「……っ、上だ!」
誰かが叫んだ。
薄霧のかかる空の中、羽音が――重く、濁った羽ばたきが、近づいてくる。
空から、蛾が一匹、降りてきた。
大人の掌ほどの大きさ。妖しく光る翅、紫がかった紋様、毒を湛えた複眼。
「っ……あれは、毒蛾……!」
カイネルが声を上げた。
「皮膚に触れるな! 息も吸うな! 毒が……!」
だが、その警告は間に合わなかった。
最前列にいた一人の青年が、蛾を手で払いのけようとして――
「う、うああっ!!」
叫びとともに倒れた。
彼の顔には、異様な紫の発疹が広がっていた。痙攣し、呻き、息を詰まらせながら――そのまま意識を失う。
「……うそ……」
震える声。泣き声。後退する足音。
そして、また一匹。さらにもう一匹。
空に、蛾が群れを成し始めた。
毒を撒きながら、ゆっくり、ゆっくりと降りてくる。
「っ、なんで……どうしてこんな数……!」
悲鳴と咳き込み。誰かが地に膝をつき、誰かが胸を押さえて倒れる。
その時だった。
空気が――一段と冷えた。
違う。蛾の羽音とは異なる、もっと根源的な、存在そのものが発する“気”が里を包む。
霧の中、静かに、優雅に、一歩、また一歩と、姿を現す者がいた。
薔薇を思わせる深紅の装飾。舞台衣装のような軍装。仮面のような化粧を施した男が、毒の帳を纏い、緩やかに歩み出る。
「ようこそ……わたくしの舞台へ」
その声は、甘く、ひどく滑らかで――同時に、ぞわりと背筋を撫でる不快さを孕んでいた。
「穢らわしき者たちに告げましょう……これは美しき粛清。わたくしの、毒薔薇の舞台ですわ」
マティアス=ヴァロワ。
王妃の寵愛を受けた将軍にして、死を撒く毒の舞踏家。
その名が知られるのは、もう少し先のことだった。




