第69話 闇に咲く刃
「……やっぱり。あなただったんですね」
私の声が、その場の空気を裂いた。
影の動きが止まる。
手が、わずかに震えたように見えた。
月明かりに照らされて、ゆっくりと影が輪郭を帯びていく。
長い前髪が揺れ、金茶色の髪がほの白く輝いた。静かな瞳が、こちらを見返している。
隠れ里では物腰柔らかく、魔導結界の構築や補強に尽力していた青年——
フィリオ=セリオス。魔導結界の専門家で、辺境伯一派の参謀格。
「フィリオさん。あなたが……」
返答はない。
ただ、その表情が、これまでの穏やかな微笑とは違っていた。
——まるで、仮面のように無機質で。
瞳の奥に、かすかな濁りと、虚ろな光が浮かんでいる。
(……何かが、おかしい)
私の中に、じわりと疑念が湧いた。
床を蹴る音とともに、後方から駆けつけてくる影。
「包囲完了! 配置につけ!」
武装したエレナとヴィスが現れ、魔導装置を展開する。続いて現れたのは、鍋を頭にかぶり、鍋の蓋を盾のように構えたおばちゃんだった。
「話は聞かせてもろたでぇ!」
その足元では、小さな白い影——スフレも、短く吠えるように「ワン!」と声を上げ、ぴょこんと跳ねた。
おばちゃんの後ろにくっついていたらしい。
「……よし、隊員一匹追加やな!」
おばちゃんが満足げにうなずく。
フィリオを中心に展開される、淡く青白い魔導結界。エレナが飛びかかる。
「観念しろ——!」
しかし、瞬間。フィリオの手が印を結び、反転する術式が炸裂。
エレナもヴィスも、空中でそのまま動きを止められる。拘束魔術——展開されたのは、逃走用ではなく、制圧を目的とした術式だった。
「くっ……動けない……!」
地面に倒れ込んだおばちゃんも、身をよじって「あかん!腰が!」と唸っている。
私は——ただ一人、動けていた。
(なぜ……)
それが理解できたのは一瞬後。フィリオの術式は魔力に反応して発動している。そして私は、ここでは「異質」な存在。
(今しかない!)
私は駆け出し、魔導装置に手を伸ばす。けれど——
「逃がしませんよ」
低く、鋭い声。
だがその声には、いつもの柔らかさが欠けていた。
感情のこもらない——まるで命令をなぞるだけのような冷たさ。
フィリオがこちらに向き直り、魔力を凝縮させる。
その動作もまた、どこかぎこちない。まるで“誰かにそうさせられている”ような。
(……間に合わない!)
そのときだった。
「彼女に触れたら——その手、切り落とすよ」
空気が、凍った。
——星屑をまとうようなプラチナブロンドの髪が、夜に溶け込む。
闇に浮かぶその姿は、まるで夜空が生んだ静かな刃。
一瞬、世界が息を呑んだ。
そこに立っていたのは——ゼフィル。
赤い瞳が、妖しく、そして美しく月光を映す。
フィリオの首筋には、いつの間にか短刀が当てられていた。
「ゼフィル……」
私の呟きを受け取ったかのように、ゼフィルが微笑む。だがその笑みは、いつものような無垢さではない。
「僕の大事な人を、傷つけようとした罰だ」
その声には、研ぎ澄まされた刃のような冷たさと、どこか甘やかな響きがあった。
闇に咲いた一輪の華——
それは、美しいほどに、恐ろしかった。
フィリオの頬が引きつる。
「……っ。何者だ、貴様……」
「ボク? ただの監察官だよ?」
ゼフィルはくすっと笑い、表情を緩める。
「でもねぇ〜、彼女に触ったら……その首、ちょーんって落としちゃうからね♡」
その瞬間、空気がピキィッと音を立てて凍りついた。
エレナが目を見開き、ヴィスが小さく息を呑む。
誰もが、空気が震えたような錯覚を覚えたそのとき——
フィリオの瞳から、光がふっと抜ける。
ゼフィルはふいに振り返り、ハルカに笑いかけた。
「安心して。もう怖くないよ?」
にっこり。
おばちゃんが「ズコーーーーー!!!」と、派手にズッコケ、鍋蓋を落とした。
「あんたが一番怖いわっ!」
叫んだおばちゃんのツッコミが、夜の静寂に響き渡った。
フィリオはすっかり戦意を喪失していた。
短刀を喉元に当てられたまま、ほんのわずかに額に汗をにじませながらも、もはや反抗するそぶりすら見せない。
「拘束を」
ゼフィルが淡々と告げると、ヴィスが魔導装置を展開し直し、魔力拘束の術式を張る。
ぱしん、と光の輪がフィリオの手足を縛り、動きを封じた。
「……そっちに現れたんだな」
少し遅れて、仮面の梟の部屋側から駆けつけてきたのは、カイネルと梟率いる兵士たち。
革命軍は、《真犯人が混乱に乗じて現れる》というハルカの仮説に基づき、
仮面の梟の部屋とゼフィルの寝台を中心に、二手に分かれて待機していた。
カイネル&兵士たちは、最も狙われやすいと思われた仮面の梟の側へ。
ハルカ、エレナ、ヴィス、そしておばちゃんは、ゼフィルの寝台に待機。
結果的に、ゼフィルの方に現れたことで、ハルカの読みが的中する形となった。
「お疲れさま、梟の方は異常なし?」
エレナが肩で息をしながら仮面の梟に声をかける。仮面の梟は無言で頷いた。
やがて、拘束されたフィリオがゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、もはや敵意も焦りもない。
ただ、深い諦念と、自身を省みるような静けさが宿っていた。
「……語るしか、ないようですね」
小さく息を吐き、口を開くフィリオ——だったが。
「……あの、ごめんやけど」
不意に手を上げたのは、おばちゃんだった。
真剣な空気を一瞬で吹き飛ばすような破壊力。
「ゼフィルちゃんが衝撃すぎて、兄ちゃんの話、正直ひとっつも入ってけぇへんわ」
その場が静まり返る。
ハルカは思わずうなずいていた。
(……わかる。めっちゃわかる)
「あたしも正直……情報量、処理しきれないわ……」
エレナがボソッと漏らし、
ヴィスが真顔で頷く。
「俺も。今はゼフィルの“ちょーん”が脳内で無限ループしてる」
「ふふっ」
ゼフィルは微笑んだまま、首を傾げた。
「皆さん、失礼ですね? 僕、いたって真剣だったんですよ?」
「いやいやいやいや、真剣やとしても怖すぎるやろ!!」
おばちゃんがすかさず両手を広げてツッコミを入れた。
皆がどっと笑いそうになるが——部屋の隅に置かれたランタンの火が、ふと揺らめいた。
カタリと蓋が鳴り、小さな静けさが空気に落ちる。
沈黙を破ったのは、カイネルだった。
「……話せるか?」
低く、だが威圧のない声。
まるで鐘を打つように、その一言が場の空気を静かに切り替えた。
フィリオは小さくまばたきし、口元を緩めた。
「いえ。お気遣い、痛み入ります」
かすかに眉を下げたその顔には、さっきまでの張り詰めた緊張はなかった。
「改めて……すべて、お話ししましょう」
夜の静寂が、再び真実の語りを迎えるために、場を整え始めた——。




